見出し画像

ワインコラム17:香港の九龍で南アフリカの元刑事にウイスキーを付き合ったらば

「・・・シンサン ケイ ティム チョン」と少年。
「ン〜 ロッティム サムサップファン」と私。
「トーチェ」と言って少年は去っていった。
香港のスターフェリーの中で、小学校高学年くらいの少年に時間を聞かれたことがある。
香港好きが高じて、日本人向けの広東語会話集みたいなものを買って熟読していたので、少年の言っていることは分かった。
それで、時間を教えてやったのだが、「トーチェ(多謝)」と礼を言う前に少し怪訝な顔をされたのは、現地人とは発音かイントネーションが微妙に違っていたのだろう。
因みに、「ロッティム サムサップファン」とは6時30分だ。

私は団体で旅行に行っても、1人でいる時間を出来るだけ取っている。見知らぬ街に自分を放り込まないと、旅に出た実感が無いのだ。友人といて楽しいこともあるが、どうしても日常が付いてまわる。
1人で知らない街を歩くことほど興奮することはない。

その夜は社員旅行の最後の夜だったので、リラックスしてひとりホテルのバーで飲んでいた。九龍半島の先端にあるホテルで、バーは1階にあった。ホテルの専属なのか、騒がしいフィリピンバンドが演奏していた。
1人の50代くらいの欧米人が隣に座った。少しイライラしているのが分かった。いきなり彼は言った。
「君は現地の人間か?」
「いや、私は日本人だ。」
「嘘だ! 日本人は1人じゃ飲まないだろ」
これが挨拶替わりとなって、少しくだけた会話になった。
彼は(ピーターと言った。)、南アフリカ航空のセキュリティ関係の人間で、香港で乗務するはずの飛行機が大幅に遅れてむしゃくしゃしていた。30分ほど話をして彼はバーを出ていった。その後、私もバーを出てエレベーターを待っていると、彼がフロントの方から歩いて来た。タバコを買っていたらしい。エレベーターで上に向かっている時、「もう少しウィスキーを付き合ってくれないか?」といわれた。どうやら神経が高ぶって眠れないらしい。 

今から思うと少し無謀だったが、彼は悪い人間には見えなかったし、同情心もあったのだ。結局、その後2時間ほど彼の部屋で飲んだろうか。お互い酔っているので、当たり障りのないどうでもいい話ばかりだ。もっとも私の語学力では、どうでもいい話しか出来ないが。ほとんどの会話は忘れてしまったが、覚えている話が2つある。
彼が日本に行って、天井の梁が低くて困った話と、ディテクティブストーリー(警察或いは探偵小説)は好きかと聞くと、「あんな物は嘘っぱちだ! 俺は20年ディテクティブ(刑事)をやっていたんだ」と一蹴された話だ。
いい時間になったので、ウィスキーの礼を言って帰ろうとすると、10cmⅩ15cmくらいの平たい箱を差出して言った。
「これはお前が使え。人にはやるなよ。」
開けてみると、オストリッチの財布が入っていた。財布の内側に、南アフリカ航空の金の刻印がある。VIP用なのかもしれない。ウィスキーを付き合ってくれた礼なのだろう。礼を言って受け取った。

その後15年ほどその財布を愛用していたのだが、ある時うっかり洗濯機に入れてダメにしてしまった。
後から考えたことがあった。当時彼の母国はアパルトヘイト政策を敷いており、いくつかの国の空港で、冷たくあしらわれたことも想像できる。眠れない夜を、他愛ない話とウィスキーを付き合ったことが、彼の心の安らぎになったのかもしれない。

ダメになった財布は、箱に入れて引き出しの奥にしまってある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?