漬け丼日記
祖国はおれを裏切った。信じた友さえもおれを裏切った。皆おれから離れていった。最後までおれを裏切らなかったのは、スーパーで買ってきた半額の刺身をめんつゆに漬け込んで炊きたての白米の上に乗せた漬け丼だけだった。そういうわけで漬け丼だ。今日はサーモンとマグロとヒラメとカンパチ、漏れなく半額である。しめて530円。明らかに二人前の分量だが気にしないことにする。じっさいのところ魚は何でもいい。たしかに赤身と白身が両方あれば彩り豊かになるかもしれないが、料理の彩りにこだわるようなやつはそもそも半額の刺身を買うべきではない。さて、これらをすべてジップロックに放り込む。ちなみにジップロックは商品名だ。本当の名前は知らん。チャック付きビニール袋とかそんなところだろう。しかしいま重要なのは名前ではない。このジップロックに刺身を放り込んだあとの話だ。次にめんつゆを入れる。量は適当だ。次に醤油。量は少なめ。刺身醤油でもいい。そして薬味。まずは大葉だ。紫蘇と大葉は何が違うのかって?知ったことか。青紫蘇の若葉が大葉と呼ばれて売られているんだ。大葉⊂紫蘇だ。だからどうした。そんなのはどうでもいいことだ。問題は大葉があるかないかだ。そして、家に大葉を常備しているようなえらいやつはこの文章を読まないとおれは確信している。そういうやつらはもっとお上品な、たとえば嫌われる勇気とか、もっとでかいゴシック体を多用するタイプの本を読んでいるはずだからだ。したがってこれを読んでいるようなやつの家には大葉も中葉も小葉も存在しない。ならばどうするか。買ってきた刺身には大葉が一枚二枚添えられているだろうからそれを使えばいいのだ。それなら家に大葉がなくとも安心だろう。添えられていないようなら諦めろ。大葉は本質ではない。次にわさび。ショウガ。このあたりを適量放り込め。チューブがあるならチューブのを使え。ないならすりおろせ。ここで味を確認してみろ。漬けダレは醤油のように辛すぎてはいけない。かといって薄すぎてもいけない。これならギリギリ飲める……そう感じるラインを目指せ。醤油はその調整に使うものだ。だから最初は少なめでいいんだ。できたか?さて、最後に忘れてはいけないものがある。ごま油だ。ごま油を欠かしてはいけない。これがサラダ油なら入れないほうがましだ。オリーブオイルは試したことがないからわからない。とても洋風になりそうだな。それ以外の――えごま油だのヒマシ油だの――を持っているやつはいったい何に使うつもりなんだ?まあいい。ごま油を入れろ。適量だ。ないならすりごまでも入れておけ。待てよ、すりごまとごま油を両方入れるのも悪くないかもしれないな。すりごまにはすりごまの良さがある。当然いりごまもな。話が逸れた。すべて入れたか?入れたな?よし、あとはジップロックの空気をしっかり抜いてチャックを閉じるんだ。密閉だ。密室を作り出せ。なに?どうしても空気が残ってしまう?おまえはいつもそうだ。しかし案ずるな。ストローを使え。ストローを差し込んでチャックを閉じ、ストローから息を思い切り吸え。中の空気を吸い出せ。吸い出したらストローを引き抜いてチャックを最後まで閉じろ。これで問題なし、万事解決だ。あとは適当に袋を揉んで漬けダレを全体に行き渡らせたら好きなだけ放っておくがいい。そのあいだに密閉ジップロックの中に生成された真空の力が刺身の細胞と細胞の間に漬けダレを行き渡らせてくれる。完全犯罪成立だ。さあ、もういいだろう。取り出せ。あまり長時間の漬けおきはよくない。それはなぜか?決まっている。元の刺身が半額だからだ。さっさと食わねばならないのだ。この駆け引きこそが半額刺身漬け丼の醍醐味である。漬け込めば漬け込むほどうまくなるかと思いきや刺身の鮮度は落ち続け、生臭くなり、味は刻一刻と悪くなってしまう。このトレードオフを見抜き、心の線形計画法でもって駆け引きに勝利した者だけがうまい漬け丼にありつけるというわけだ。最適な時を見計らって炊きたての白米の上に盛ったら、ついでに卵黄なんかを上に乗せたり、ネギや海苔を散らしたりしておけ。それが現世に顕現した幸せの形だ。おれから伝えるべきことは以上になる。おまえがうまい漬け丼にありつけることを祈っておく。おれの漬け丼はどうだったのかって?それは、言うまでもないことだろう。ひとつだけアドバイスめいたものを残しておくとするならば――白米は、多めに炊いておくことだ。