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【御朱印巡り】小網神社

小網神社は近年、強運、金運アップのご利益があると話題の神社です。
どんな神社なのかみてみましょう。

御祭神

倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
市杵島比賣神(いちきしまひめのかみ)
福禄寿(ふくろくじゅ) 他

御朱印

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御由緒

武蔵国豊島郡入江のあたりに万福庵という観世音と弁財天とを安置する庵がありました。この庵は恵心僧都の開基で、観世音と弁財天も僧都の作と伝えられています。開基の年代は明らかではありませんが、恵心僧都の歴史を考えれば、今からおよそ一千年前ということになります。

文正元年(西暦1466年)、庵の周辺で悪疫が流行し、人々は困り果てていました。そんななか、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れ、数日間をこの庵で過ごしました。ある夜、庵の開基・恵心僧都が当時の庵主の夢枕にたち、網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅することを告げます。 夜が明け、網師翁の姿は庵にはありませんでしたが、庵主は恵心僧都の託宣を村人たちに告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建して日夜祈願をつづけました。すると間もなく村の悪疫は鎮まり、村人たちは歓喜したといわれています。

領主・太田持資公(道灌)も、この御神徳を聞き、折に触れて、当神社を詣でました。そして土地を寄附し、小網山稲荷院万福寿寺と名づけたと伝えられています。慶長年間(西暦1596~1615年)には、これらにちなみ周辺地域が小網町と名づけられ、当神社を氏神と崇めました。

明治維新後の神仏分離令によって社寺は分離、小網稲荷神社として明治6年7月5日、村社に指定されました。現社殿・神楽殿は、大正期の明治神宮造営の工匠長・内藤駒三郎宮大工一門により、昭和4年に造営されました。その後の戦禍を免れ、現在は日本橋地区に残されている唯一の木造檜造りの神社建築となっています。特に、向拝に施された「昇り龍」と「降り龍」の彫刻は見事なもので、「強運厄除の龍」として拝されています。
(以上、小網神社HPより)

地域の歴史と神社の歴史

どこの神社も、由緒に尾ひれが付いてよくわからないので、この地域の歴史を調べてみました。

江戸時代以前
このあたりは、もともと旧石神井川が江戸湊に注ぐ河口の地。つまり、江戸時代以前は、海辺の村だったようです。
平安時代に源義家がここで鎧を海神に奉納した(鎧の渡しとして地名が残る)とか、藤原秀衡が平将門の兜を埋めた(兜町として地名が残る)とか、この一帯は海上交通の要所だったと思われます。
したがって、小網神社の祭神はこの近辺に住む漁民の神だったと思われます。御祭神は倉稲魂神(弁才天)、市杵島比賣神はともに水辺の神様です。

江戸時代
江戸時代になり、この辺一体も埋め立てが進み、河口はもっと今の海側の方に移動することになりましたが、その後は海運の倉庫街として発展しました。江戸時代、小網神社の神様は海運業者から海上交通安全の神様として慕われたのであろうと思われます。
当時の小網町の風景は歌川広重の名所江戸百景にも描かれています。

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強運と金運の由来

強運の由来は、空襲で東京が火の海になっても、社殿、建物、本尊など小網神社の全てが焼失することなくそのまま残ったこと、第二次世界大戦で出兵前に小網神社で祈願した兵士が全員無事生還したことから来ているようで、意外と最近のエピソードに基づいています。
金運アップの由来はよくわかりませんが、「東京」の銭洗い弁財天と称していることから、こちらも最近のものだと考えてられます。

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