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矢作川に魅かれて

 私が矢作川(やはぎがわ)と出会ったのは1997年。もう26年前になります。

 当時東京の実家で大学院に在籍し、里山の研究をしていた私は、他大に就職した先輩から「川辺の植物調査のアルバイトをしない?」と誘われました。いま私のいる職場は当時、昆虫が専門の非常勤研究員が1人しかおらず、他の生物群の調査を外注でまかなっていて、その研究員の知人を通じ、川辺の植物を研究している先輩に、植物調査の依頼が来たのでした。
 でも現地を見に行った先輩は、自分がいつも見ている石がゴロゴロした河原とはかなり異なる、植生が発達し、人間活動の影響が大きそうな川辺の風景を見て、里山を研究している後輩の存在を思い出し、声をかけてくれたのでした。

 興味も時間もあり、お金も欲しかった私はその申し出を受けました。矢作川も、矢作川が流れる愛知県豊田市も全く知らなかったし、そもそも「やさくがわ?」と川の名も読めませんでした。失礼ですが、現地に行くまでは、大企業の城下町だし、大した川じゃないだろうと高をくくっていました。まだインターネットが発達しておらず、かんたんに情報を収集することもできなかった時代でした。

 それまで私の最も身近な川は、都内の実家のそばを流れる、フォークソングで有名な神田川の支流の、妙正寺川という川でした。小さくて三面護岸の、かつてはいつも水が灰色に濁った、川というより単なる排水路のような川でしたが、それでも小さな住宅が密集するまちなかでは、自然を感じさせてくれる貴重な存在でした。小学生の時には友だちと自転車で「どこまで行けるかな」とたどったりしました。春には桜並木の下を通った川の水面を花びらが一面におおい、ゆっくり流れていく風景が印象的でした。

 初めて矢作川の調査に行ったのは5月で、場所は豊田のまちなかにかかっている橋のそばでした。広い草原の中に大きな柳の木がまばらに生え、やさしい色の若葉を風にゆらしている風景に目をみはりました。先輩は「タンポポが!」と一声放ち、小さな黄色い花にひざまずきました。
 都市化した場所では、タンポポがほぼ外来種のセイヨウタンポポに(もしくは外来種と在来種の交雑個体に)置きかわっています。しかし矢作川のほとりには、たくさんの在来のタンポポ(ヒロハタンポポ、別名トウカイタンポポ)が咲き乱れていたのでした。ふつうの規模のまちの中にこんなに自然の豊かな水辺があるなんて、奇跡のように感じました。

 その後、季節ごとに矢作川の調査に通ううち、矢作川に関わる方とお話しする(というか、飲む)機会が得られました。その方は60代の男性でしたが、矢作川にすむアユの魅力とアユへの想いを、それは熱く語ってくれました。それを聞いて、東京にはいないタイプのおじいさんだな、と思いました。それまで東京で、地方は過疎・高齢化し、疲弊していると聞いていたけど、そんなことはないんじゃないか、疲弊しているのは東京の方なんじゃないか、と思ったことを、よくおぼえています。

 そして、このバイト先が翌年から常勤の研究員を雇うことになったと聞き、先輩のすすめもあって受験してみたところ、幸運にも合格できました。就職し、豊田に居を移して今日に至ります。
 今でも年を追うごとにますます、矢作川の自然と、その流域に住む、または関わる人の多彩な魅力にひかれ続けています。今では、矢作川との出会いは偶然だけど、運命みたいなものだったのかな、と思っています。

 残念なのは地元の人々の多くがこんなに身近な、宝物のような矢作川の自然と人の魅力をほとんど知らないことです。この魅力を1人でも多くの方が知り、川に関わってくれるようになるよう、働きかけを続けていきたいと思っています。

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