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ちゅん太のいた夏(第七回)

【忘れっぽい松尾芭蕉】

次の日、ウエノさんは起きてこなかった。私一人で朝食を食べて、部屋を覗きに行った。ドアを何回かノックしたが反応は無く、これ以上ドアを叩いても他の部屋の迷惑になると思いフロントに戻って電話してもらった。しばらく呼び出して、やっと電話に出たようなので代わった。
「なんか2日続けて中尊寺行って疲れたみたい。ふだん一人で行動することが多いのに、今回はずっとあなたに説明してたから、思ったよりも体力使ったのかな」
寝坊をそれとなく私のせいにされたようで釈然としなかったが、もう今日からは道連れなのだ。ここはひとつグッとこらえて、「じゃあもうしばらく寝てていいよ。私は近所でも散歩してくる」と言って、ちゅん太を呼び出した。一関の街中を、ちゅん太連れで実際に散歩しようと思った。植え込み伝いに付いてくれば、何の違和感もない。
ねえ、ちゅん太くん。今日はキミとデートってことになりそう。

   「やっとボクとはなしたいきぶんに なった?」

まあ、なんとなくね。昔のおじいさんが書いた言葉のこと、話そうか。

   「わすれやすいおじいさん」

ハハ。そうじゃないって言ったじゃない。素敵に覚えておくために書いたって。

   「ステキにおぼえるのわからないって いった」

そう。だから今日はその話でもしようと思って。松尾芭蕉、そのおじいさんの名前ね。芭蕉はね、江戸って言って今の東京、私たちがふだんいた街から、はるばるこっちまで歩いて旅して来たの。その頃は新幹線もタクシーもないし、馬に乗れたのも一部の人だけだったし、もちろんキミみたいに翼があるわけでもないから、旅は大変だったの。わかるでしょ?

  「むかしのヒトは つよかった」

そうよね。考えてみたらホントにありえないわよね。なんでわざわざそんな大変な旅をしたかって言うと、素敵に覚えるのが目的だったからよ。俳句、って言うんだけどさ。短い言葉に自分の感じたことをギュッとね、詰め込んで残して置くの。そしてみんながあとでそれを見て、感動、つまり心を動かされたり、旅情って言ってそこに行ってみたいなあと思ったり、旅の心細さを綴った言葉を見て、ふだんの生活も悪くないなあって思ったりするの。

   「あとで みんなでみることに イミがある?」

そうかもしれないわね。だから忘れないためじゃなくて、みんなに伝えたいから書いた、っていうのが正解かな。みんな簡単に旅ができるわけじゃないから。

   「おじいさん やさしい」

まあ、ちょっと違う気もするけど、そうやって残しておけばね、会ったこともない、生きている時代も違うおじいさんの気持ちが、いまの私たちも感じることができるの。有り難いわよね。やっぱり素敵だと思うんだけどなあ。

   「ねえ おじいさんのコトバ おしえて」

そうだね、平泉で詠んだのはこんな句よ。

『夏草や 兵どもが 夢の跡』

わかる?

   「ぜんぶわかんない」

平泉ではね、芭蕉の時代の五百年前に、奥州藤原氏といってすごく栄えていた人たちがいたの。栄えるというはそうだな、お金も力もあって、みんなにほめられる感じ?それがいろいろあって滅ぼされることになったの。みんな死んじゃうってことね。最後は弁慶とか義経とか有名な人たちもここで死んじゃったの。
芭蕉は五百年前のそういう出来事をイメージして、昔の人たちが夢見た世界がなくなっちゃって、夏草、知ってるでしょ。夏に草がボウボウに生えるでしょ。そんなボウボウの草しか残っていません、って言葉にしたの。人間の言葉だと「儚い」っていう便利な言い方があるんだけどね。

   「ゆめってなあに?」

え?夢がわかんない?そうだっけ、あの寝ている時にさ、見るものがあるでしょ?

   「そのベンケイさんも ねてた?」

あ、だからさ、寝ている時に頭の中に映像が見えるみたいに、これから先にこうなるといいなあ、って考えるのも夢っていうのね。

   「あのね スズメが ねるのは やすむため」

   「かんがえる ためじゃ ない」

そうか。昔のことを考えるとか、これからのことを考えるとか、あまりピンとこない?

   「うん スズメは だいだい きょうだけ」

ちゅん太クンもお母さんのこと考えるとこみ上げるものがあるでしょ。それが昔の人のことを考えるのと似ていると思うけど。う~ん、俳句はやっぱり人間のものなのかな。あとはね、こんな句も詠んだよ。

『五月雨の 降り残してや 光堂』

ちゅん太クンも見たでしょ、中尊寺。今は覆いがあるけれど、山の上の方でピカピカしてた建物のことを書いたものよ。雨が降ってもピカピカの建物はキレイだなあ、ぐらいの感じよ。これならわかるでしょ。まあ、これも五百年の重みを感じながらじゃないと、芭蕉の気分は伝わらないんだけど、まあいいわ。

   「みたまんま」

そうなのよ、そうなんだけど、最初の句みたいに、五百年の時間の流れに対する気持ちっていうのかな。ピカピカのお堂と、儚く消えた夢が重なって見えるものなの、人間には。

   「ヒトは ゆめとか むかしとか そこに ないものが すき」

そうなのかな。

   「おじいさんのコトバも あとでよむ ひとは くさも ピカピカのたてものも めのまえには ない」

   「あたまが だいじなの ちょっと わかってきた」

   「あたま つかわないと たのしくない」

頭はキミたちの翼みたいなものだって、前に言ったよね。なんとなく分かってくれた?どちらかといえば、人間にとって、目の前にないものの方が大事かもしれない。だから逆にね、同じ話をしているつもりでズレてることもよくあるの。面倒ね、考えてみれば。

   「いつでも ママを おもいだせる いいこと」

ちゅん太クンの場合はそうか。まあ慣れればお母さん以外のこともいろいろ思い出したりして、楽しいと思うけど。なんだろう、それって余裕があるからできることなのかな。

   「スズメには たべものの あまりも あたまの あまりも ない」

そもそも雀と俳句の話をして理解し合えると思う方がどうかしている。ここまでとりあえず会話になっている事自体が奇跡だ。でも「夢」を見るってことは、ちゅん太クンにも理解して欲しいものだと思う。場合によっては食べ物より大事な時があるの。人間にとっては。
そんな話をしながら一関を散歩して、なんやかやでホテルに戻ったのは夕方だった。ロビーでボーっとしているウエノさんがいた。ほったらかしにして怒ってるかな。
「明日から、どこ行く?」と訊いてきた。そうだ、考え途中だった。彼女の気持ちが未来の方向に向いていてとりあえず良かった。
ホテルのフロントで、このあたりで温泉とか、観光地とか、オススメの場所があるかどうか訊ねてみた。
「花巻なんかどうですか。宮沢賢治、ご存知ですよね」
一関からローカル線で北に1時間30分ほどの花巻は、国民的童話作家のホームタウンで根強い人気があるという。
「いい温泉もありますよ。こちらなんてどうですか?」フロント係が旅行情報誌のあるページを見せてくれた。「大沢温泉です。雰囲気ありますよね。私も日帰りで行ったことありますが、良かったですよ」
地元の人が言うのだから間違いないだろう。今日の明日だが、あとで予約の電話を入れてみよう。もしダメなら、明日チェックアウトしないで日帰りで行ってみる。花巻は女性二人でのんびり観光するには悪くない気がした。
「ウエノさんはどう思う?」
「そうね。いいんじゃない。私は注文多くないし」
そんなに乗り気じゃない風に見えたが、ウエノさんは一応軽く洒落で返してくれた。

つづく

サポートのしくみがよくわからないので教えてください。