見出し画像

「創作」を「制作」するということ

 先月ある映画を観てきた。

「変な家」という作品だ。この映画は昨年、覆面作家である雨穴氏のミステリー小説を映画化した作品である。彼について私は多くを知らないけれど、どうやらYouTuber兼ミステリー作家で、YouTubeでのムンクの叫び的な被り物の絵面の印象と、実写動画から書籍化という珍しいパターンということでかなり話題となっている人のようだ。この作品の前に「変な絵」という作品を書いていて、2作目ということになる。私は、去年ある覆面作家さんの作品を読んだので、もう一人くらい違うタイプの覆面作家さんいないかなと思っていたら、本屋でなんとなく目についたので手にとった。(ちなみYouTubeは観ていない)その時に早くも2024年春に映画公開と本の帯に記されていて、随分と展開が早いなと思った印象があり、観た理由は、それを何となく思い出したからだ。この文章はその程度の人の感想と思って読んでもらえたらと思っている。

 この作品のあらすじは、ある一軒家の間取りに奇妙な違和感を持ったオカルト動画クリエイター(都市伝説系YouTuberと言ったほうが近い気もする)がその不気味な間取りに隠された事件の謎を解いていくといったものだ。この謎解きミステリーというのは前作「変な絵」でも同様で、そちらを先に読み終えていた私は、こちらも手軽に読める現代的なミステリーかなと思っていたが、「変な絵」よりも登場人物自体の人数も、人物の背景もかなり複雑で、時間の経過も長い。手軽に読み進められるのは同じなのだが、なんというか本格的な長編ミステリーを目指した構成なのだ。そして、「謎」自体は原作の段階でかなり唐突な方向に進む。この「謎」自体の内容の荒唐無稽さに言及される方もいるとは思うが、私はこれは日本社会だから成立する「呪い」の象徴ととらえている。物語自体の感想を書くとするならば、この「呪い」の部分についてを掘り下げて書きたい。しかし、今回はそこには言及しない。物語そのものではなく、この小説(原作)が映画化される中で得たものや「映画化されるということ」自体について少し考えてみたいと思う。つまりは「創作」が「制作」される時、何が起こりどういう可能性があるのか、ということだ。まだ、デビューしたての作家の作品だからこそ、この部分を考える意味があるのではと思った。

 観終わった感想を一言で書くならば、ホラーという部分に全振りした作品だった。制作側は原作のホラー的な部分に映画化のポテンシャルを見出したのではないかと思う。とにかく、この作品を最初から最後まで一貫したホラー作品として映画化したいという制作側の熱量を非常に強く感じた。世界観的には、「八つ墓村」や「犬神家の一族」、「リング」や「螺旋」、そして「世にも奇妙な物語」といった昭和や平成の日本のホラーを場面毎に全部乗せしたような印象だ。この場面の演出は「リング」的だなとか、かなりストレートに分かる。そして、この作品のある意味切り貼り的になってしまったホラー演出に唯一統一感を与えていたのが、主人公の動画クリエイターに相談を持ちかける宮江柚希役の川栄李奈だ。この川栄の外見の演出、役作りがこの映画の最初から最後までを貫く世界観として効果的に機能する。そして、日本映画のホラーにおける技術的な演出の巧みさ(特に音の表現はこれ以上ないくらい秀逸)を非常に良く生かした作品と思ったし、映画館で観るべき作品に仕上がっていた。ホラーとの親和性や話題性も相まって、興行収入も邦画のヒットラインが10億くらいと言われる中、41億を4月初旬で突破する大ヒットとなっている。

しかし、この映画に関して、原作を読んでいる人達の中で賛否が分かれているという。私はそれ自体全く悪い事では無いと思うし、なんなら文字が映像になっていく中でそうならない方が不思議だといつも思う。そして、その乖離の中身を考えることも一つ「創作」と「制作」について考える鍵になるのではと思う。この作品は、映画化するにあたって、ホラーの世界観に全振りしたために、数多く登場する人物の詳細な相関関係の説明がかなり省略されてしまっている。前作の「変な絵」という作品は絵から真実を読み解いていくトリックそのもの面白さを押し出しているが、どこか人間ドラマ的な部分を描きつつも、今作と同じように突飛な部分がある。しかし、続けて今作の「変な家」を読んだ時に、この作家はどちらかというと平面を立体的に重ね合わせた中で浮かび上がるトリックの意外性を軸としながらも、同時に人間関係の中で人が背負ってしまうもの、人間模様的なものをそのトリックという技術を使って描きたい作家なのでは?と思い始めた。それほどに、この作品は、トリックに関わる人物が多く、かなり詳細にその「謎」が登場する過程を掘り下げている。現在という建築からその下の地層を掘っていくようだ。しかし映画版はその辺の説明は省略して、途中から「呪い」が発生した機序ではなく「呪い」そのものの恐怖の方に観客の意識を持っていってしまう。特に最後の部分は、探偵的な役回りの栗原(佐藤二郎)が原作では金田一っぽい詳細な人物関係の謎解きまでしているのに対して、映画版では、むしろその後の、引き継がれた呪いの「余韻」を優先しているように思った。人物に多くを語らせず、観る人の想像力の方に投げることで、呪いの余韻をひきずらせる。この辺りは完全に「世にも奇妙な物語」の得意な手法だ。映画版しか観ていない方の中で、あれ、結局どういう意味だったの?的な感想をを持った方も多い。確かに、この都市伝説系YouTuber的な世界観だとこの曖昧さが最も近いのかなとは思う。しかし、原作を読んでいると、原作の中で作者が細かく描いてきた人物やその立場の相関関係や細かな感情の地層が一つにまとめられてしまった、そんな印象は否めなかった。

 さて、ここで、だ。この昭和、平成の全部乗せJapanese horrorとなったこの映画は、原作者にとってどんな意味を持つのだろう。全編を通して過去のホラー演出の踏襲ではなく、現代SNS時代のフィルターバブルが見えなくする事によって生じる先進的なオカルトの怖さと、昭和や平成時代の、情報を物理的に遮断することによって洗脳される状態の2つの時代を分かりやすくジグザグに交錯するような演出もあり得たと思う。その中でなら作者が細かく描写していた人物の相関や歴史的なところももっと描けたかもしれない。しかし、これをやるためには相当な尺が必要だ。この作品、ドラマの方のポテンシャルの方が大きいのではないか?というのが私は見終わってすぐに思ったことの一つだった。と同時に、作者には結構ラッキーな映画化のされ方だったのではないかとも思う。もしかしたら原作者にとっては、自分の描いた世界観とは違ったかもしれない。いや、自分の「創作」が他人の「制作」になる中で、同じになるなんてことはあり得ないし、それでは「制作」される意味は半減する。この映画、意外と全部乗せしたことで原作との違いも浮き彫りになり、この路線で映画化するとこの演出になるという手法もたくさん映画の中で、提示されることになった。ホラーという大きな括りで、演出の切り貼りとなったことによって色んな可能性が原作者側に提示されたとも言えると思った。それはそれで、「創作」が「制作」されたからこそ見えた、出会えたものだ。

 ここで、映画ではないので状況が全く違うが、「創作」を「制作」するという事を考える上で最近印象深かった出来事を思い出したので、書いておきたいと思う。
 それは、以前Xのスペースで行われた、とある劇場公演に向けて作曲家とその曲を演奏するオーケストラの指揮者と演出担当のメディアアーティスト3人の公開雑談の中での話だ。その公演は、現代音楽の作曲家の作品(譜面)を民謡とオーケストラとを駆使してかなり斬新な感じで演奏されるものだった。話の流れの中で、ふと指揮者が作曲家に聞いた。「この解釈で良いんですかね?やっぱり産み出した側が曲に対しては一番良く分かっていると思うので聞きたいです」と。おそらくは、演奏を統括する立場である指揮者は、きちんと作曲した人の意図が汲み取れているのかが気になっていたのだ。それに対して、作曲家は「え? 自分の曲のことそんなに分かってないですよ。例えば自分の子供のことを親が一番分かってるってわけじゃないでしょ。」そう言われて、他の2人が同時に「え?そうなの?」と声を上げた。この3人、実際にそれぞれ子を持つ父親でもある。作曲家は「えええ?違うの?だって、自分の子供って赤ちゃんで自宅にいるならまだしも、保育園やら小学校に行っちゃったらそこで何を経験しているかなんて全く分からないじゃないですか?それと同じですよ。」と笑った。
 そして、今実際に劇場でリハーサルを繰り広げ、試行錯誤していた他の2人は「前提が違うんだ…。」と言って、作曲家と3人で笑い合ってその会話は終わった。おそらく、その後はもう何も確認する必要など無かったに違いない。もちろん、創作側は制作側に全てを委ねれば良いと言っているわけではなくて、このやりとり自体が開かれたスペースで自然に行われたことに対する信頼と、この作曲家の方は「答え」ではなくて、自分が譜面で投げかけた「問い」がどう変化していくかの方に興味があるんだなということの2つが垣間見えた瞬間として、とても記憶に残っている。

 話を戻すと「創作」が「制作」される時に生み出されるのは創作に対しての「答え」ばかりではないのでは?ということ。観る側はどうしても、原作をどう解釈したかの答えを制作側に求めてしまいがちな気がする。私が、この「変な家」という作品の映画化で強く感じたのは、日本のミステリーやホラー映画で培われたこれまでの技術を最大限に使って示した制作側から創作側への問題提起なのではということだった。

「あなたの作品は、ホラーという観点だけで、これだけ色々やれる可能性があります。この中で選びたいものはありますか?それともここには無い他ですか?さて、次の作品でやりたい世界観をもっと提示してください。」

 それによっては、もっとオリジナリティのあるホラー映画やドラマが今後制作される事も十二分に考えられるのだ。

 この方が新人作家という事を考えたら、これほど示唆のある問題提起のされ方は無いのでは?と思いながら劇場を後にした。そして、実は次の作品はもう読まなくても良いかなと原作を読んだ時に思っていたこの作家の次作を読んでみようかなと思っている自分がいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?