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”自分らしく”生きる難しさは、自分の素材(原体験)を知る事から始まる料理のようだ!という話。

"自分らしさ”って皆様はどう考えますか?

・自分の生きたいように生きていきたい
・お金を沢山かせいでブイブイ言わせる
・護りたい人を護りきる力を手にしたい

人にはそれぞれこれまでの人生で培ってきた経験があります。
その経験という調味料を使って自分という生まれ持った”素材”
活かした調理方法を行い、あらゆる環境に対応して生きてると思います。

それが”自分らしい(素材)”を活かしながら社会で生きていく事、つまりは自分らしい生き方に繋がっていくのだと思っています。

それでは、”生きにくさ”を感じるのはなぜなのか?
前述したように、自分という産まれながらの素材、例えばそれをキュウリだとするならば(私がキュウリが好きだから(笑))、そのキュウリという素材を活かした調味料や調理方法を模索しながら生きていくのが人生だと思うのです。

しかしながら、そのキュウリである事を変える事を強いられる、つまりは

「お前は今からニンジンだ!」

と言われてこれまでのキュウリを止めてニンジンになろうとするから一気に生きづらさ、すなわちどうしたらいいか解らなくなるんだと感じています(T_T)/

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とはいえ自分の素材が何であるかを理解している人は少ないとは思います。それを家庭環境や、集団生活から学び自分が何者かを少しづつ理解していくんだと思うのです。それがアイデンティティという奴ですね(=゚ω゚)ノ

しかしこのアイデンティティという奴がなかなか厄介でして…
強すぎると

「俺には俺の生き方があるんだ!受け入れない社会(環境)が悪い!」

となりますし(T_T)/
逆に弱すぎると

「自分自身が何者なのかもわからない…どうしたらいいんだ…」

となってしまいます(/ω\)
この調整が非常に難しい、すなわちそれが生きにくさの根源だと思っています(+_+)

それもそのはず、地球には約77億人(2019年統計)もの人間がいて、私が住んでいる日本でも約1億2千5百万人もの人間が生きています(; ・`д・´)

この中で自分らしく生きたいと全ての人が思っていれば、価値観が統一されていないと衝突は必須な訳です…。

競争率が高い部分では選別が行われ、競争率が低いところではやりがいを見失いがちになる…。こんな環境下のなかで”日々自分らしさとは?”と自問自答、もしくは情報収集しながら生活しているんですね。

”自分らしさ”を貫きとおす為には、最低限のルールを理解し、同じように考えているグループの中で自分は何が違うのかを考え、他者との差別化をしながら自分のスペースを確保していくんですね。

これだけでもとても大変(+_+)すなわち生きていく事は決して楽ではないという事なんです(T_T)/
そこにダメ押しの「〇〇であるべき!」というべき論がきたんじゃもぅひとたまりもありません。

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私にも経験があります。
「自分は何者なんだろう?どうして産まれてきたのか?この先なにがやりたくて何ができるんだろう?」

この瞬間がまさに自分を棚卸し、つまりはアイデンティティとの対話の時間なんです(。-`ω-)この神聖な時間に土足で上がり込んでくるのがべき論です( ゚Д゚)

そりゃもうトイレやお風呂に入っているところにいきなり入り込んで来られる勢いです⊂⌒~⊃。Д。)⊃

それほど無防備な自分の心に

・いつまでも考えてないで行動しろ!(そして結果を出せ)
・学校には行きなさい!(できれば優秀な成績も)
・そんなの当たり前でしょ!とにかくやれ!(恥をかかすな)

という言葉のミサイルが飛んできます(/ω\)
ゆっくり考える時間はただのサボってる(怠けてる)というイメージでかき消され、恐ろしいスピードで変化する時代の流れについて行けと急かされ続ける訳です( ;∀;)

もはや考える事は事態が”面倒くさくなり”、その嫌な時間をスキップする為にとりあえず”従う”という嘘をつくようになるんですね。

私の幼少期はまさにこれでした…。
生まれながらに”警察官”という家庭環境で育った事で、自分の将来はそうであるというアイデンティティを形成し、その道にそぐわない考え方や生き方は真っ向から否定され”恥ずかしい”という刻印を刻まれる。

何をするにも”目的”が必要で、それが無ければ考える間もなく兄がやっている事をなぞるようになり、比べられることで劣等感を抱く。

こうして私は、自分を造り物にして育ち、唯一あった”警察官”という道も、先天性の障害という予期せぬ事態で絶たれ空っぽになりました。

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ここまで”偽”を貫いてきてしまうとここからの進路変更は容易ではありません(/ω\)
何せ原体験そのものがもはや見えていません。ライトもつけずに猛スピードで高速道路を走っているようなもんです(; ・`д・´)

運転の仕方も、そもそもどこに向かっていたのかも、なぜ運転しているのかさえも解らなくなり止まろうとしても、時代の流れはそんなに優しくなく、常に恐ろしいスピードで流れ続けていくんですね(/_;)

例えそこに一時、気が休まる場所があったとしてそれすら永遠ではなく、いつかはそこも離れて自分の力で生きていく事になります。

本当の恐怖はそこから始まるのですが、休めている間はあまりにも心地よ過ぎてそんな事は考えられないくらいになっています。

そんな状況からでもいきなり自走しなくてはならなくなる、、人生はまさに絶叫マシンのようですね(+_+)

こんな環境の中で”自分らしさ”を追求する事は、本当に難しい事だと思います。

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難しいのであれば、いっそのこと”自分らしさ”の追求を止めて、原点に戻る事が今の生きづらさから抜け出すカギになるかもしれません。

私自身も、警察官という道が途切れその後もさんざん蛇行運転しましたが、結果として今では”警察官”になってなくて良かったと思うのです(=゚ω゚)ノ

なぜなら”偽”で固められた自分らしさや夢で生きていたなら、今もきっとその状態からは抜け出せていないと思うからです(; ・`д・´)

”偽”で彩られた環境がある内は気付けないのですが、その拘束されていた鎖が断ち切れた時(環境の変化)、本当の意味で自分を失くしてしまっていたんじゃないかと思うと恐ろしくて震えます( ゚Д゚)

産まれ持った”素材”が本当は何だったのかを知る事は、その調理の仕方(見せ方)や選ぶ調味料(経験値)すらも変わるキッカケちなります(=゚ω゚)ノ

冒頭の話に戻りますが、素材がキュウリであるならば、そのキュウリをどのように美味しくできるか、最初は自分にとって、そしてそれは関わる人にとって、調理方法や調味料を変えればいいだけなんですね(。-`ω-)

これは八方美人でも何でもありませんよ( `ー´)ノ
素材は”キュウリ”のまま、例えそれがキュウリが嫌いな人であっても唸らせる調理と味付けをする。そうする事でトリコにする事だって出来るんです(=゚ω゚)ノ

私にとって”自分らしさ”とは、素材をどのように活かしていくかの旅だと思っています( *´艸`)

その為には、やりたい事なんて答えのない旅にでるよりも、まずはあなた自身の”素材”と出会う事が重要なカギ(原体験)になると思っています(*^^)v

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