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複製されたものが本物に影響を与える

古代哲学というのは残されたものは書物しかなく、その解釈が人によって変わり、そのオリジナルは生存していない為に確認が出来ない。

これは生成AIにも似た原理が働き、複製されたものが本物に影響を与えて意味合いを強くしたり弱くしたり、無い要素が付け加えられたりもするが、生存しているオリジナルがその要素を利用できるのでその元となっている存在にも影響を与える。


レビュー

本の書評や映画のレビューなど、作者の意図では無い解釈をされても、その解釈がその作者にも影響を与えることがある。それは「間違っている」という怒りから新たに創作されるものに繋がったり「そういう解釈があるのか、勝手に深みを増してるな」といったオートに仕組みが出来上がっていくこともある。

その作者の意図を理解出来ていないにも関わらず、例えばこれは趣があるとして社会の風刺だと勝手に解釈をされてはそれが広がりを見せたときに、制作者が不在の場合にはその嘘の意思が受け継がれていき、当時評価されなかった作者が再評価されては社会に影響さえ与える。


箱の中の猫

シュレーディンガーの猫の思考実験では、中にいる猫の生死は確認出来ず開けた瞬間から確定されるとある。これは箱が開くから確認が出来るのであって、そもそもがその箱が開かない状況である場合、確認するまでは生も死も同時に存在が肯定されているとこの思考実験であるように、制作者不在の作品は作者の意図も残りつつ他者の意図も入り込む。

箱の中の猫|ekkusii (note.com)

その猫は何処からか新たに侵入するかもしれない、その作者不在のオリジナルが他者の介入によってその制作者の意図さえ動かす。


生成AI

これによって今ある技術の最も美しいと過半数が感じる要素として生成されるのは、過去にあった既存のデータから行われている複製されたものから現代に置き換えたものだから、これはどれかの作者に似ているがそのどれかがわからない。全ての創作者は複製したりされているからこそ、そのオリジナルが影響を受けてしまう。

そうしてそこにライブ感が無い、アウラ(オーラ)が無いとしたときに問題とされ、更にはそれが複製されてはネットに拡散され、拡散した側の利益となってオリジナルが風化した。

これは作者に対してマイナスの部分での影響を受けている、こういった形で複製は何かしらオリジナルに影響を与える。

カイジのスピンオフは別の作者が描いているし、同人誌界隈でもその複製は常に行われてきた。音楽に関してはジャズが現代の音楽の起源だとされているが、そもそもが音楽の起源はと辿っていけば自ずと原始的な分野に入る。

複製は良いとされたり悪いとされたりする。


車輪の元

車輪は何を参考にされて作られたという話は無いが、原始的な時代から想像するに石の転がりから作られたと考えられる。人なり木なりが丸形の石に乗ったときに見せたその挙動からその石を車輪に見立てたと想像できる。

このことからも現代の音楽はジャズが起源というが、そこには民族性も加わっているだろうからそうと断言出来ないし、ジャズが起源であるとするのは最もらしく聞こえるが"現代の日本の音楽のルーツ"はアンパンマンの音楽であると考えることもできる。

ほぼ全ての家庭はアンパンマンの音楽や映像を子供に見聞かせしている。幼稚園ではお遊戯のBGMとして流れ、その文化は未だに継続されていて生まれてから小学生になるまでひたすらに刷り込まれる。

その現代の日本のチルな音楽も、エモいBGMも、デスボイスでえげつない歌詞を歌うその歌手も、そのルーツはアンパンマンが土台にあって、そこから様々な要素を取り入れながら制作されていると捉えることもでき、更にその起源を辿っていくと音楽の元は喋り声や笑い声、奇声や叫び声、くしゃみや咳、屁、足で蹴る、踏む、体を手で叩いたり手と手を合わせて行うクラップの動作、こういったものにあるでしょう。


絵画

絵というのは写真が無い時代にとって重要だった、犯罪者の情報は今のようにカメラに収めて記録することが出来ない。複製の歴史は手書きの時代から存在し、その手書きの絵は誰かによってまた複製されては別の町に配られる、そうして絵の技術が高まると抽象画といった分野にまで広がりを見せては贋作がんさくといったものまでも増えていった。

そうして絵を動かしたい欲求によって漫画という描写からもっともっとと欲しがってはアニメになっている。

学業もタブレット化され、動画なら何度でも学習出来るから良いとなっている。そうしてそこにライブ感、アウラ(オーラ)が必要であるから個人で家庭教師なり専門的なレッスンを受け、その一度きりしかないという緊張感からも覚えやすいという考えもある。タブレットで読む本は知識として入りにくいから書物を読むというのも同じでしょう、その両方が肯定されている場面はまだある。

クラシックメタルやクラシックロック、シティポップなど過去のものが再ブームとしてなるのはそれを複製しにくいから、あるいは複製されていないかその数が少なくなったから、仮に今後文章が書けない時代が来れば書道は淘汰されるのかというと断定出来ない、かなり先の未来では新しく感じるかもしれない。

何故か書道はあらゆる時代で妙に取り上げられる、ビートルズが評価したり、芸術として評価されたりしている。それは日本に対するイメージを良くする為の意図も含まれているのかもしれない、箱の中にいないはずの猫が何処かから侵入しては介入するようなもの、それはわからない。

無料コンテンツと供給過多|ekkusii (note.com)

しかし、多様に文化やコンテンツが増えたことによって再評価されてもすぐに流れていく、その速度は倍々ゲームのように日々加速している。

オリジナルというのは常に原始的な分野になる仕組みの始まりな訳で、スタート地点だからこそその道のりが長ければ長いほど意味合いが増えて当然なんだ、生成AIもその使い道があらゆる場にあってそれはオリジナルに影響を与えている、そうして創作者は今まで積み上げてきたものは何だったのかとなるがそれは科学者にもいえる、それは一見して関係の無いように感じるものでさえ多岐にわたる。

複製の歴史が生成AIにまでなるとは当時の画家は誰も想像しなかっただろうが、飛脚が自動運転があればもっと楽が出来るのにと想像したに違いないから、だからこそ馬を利用してきた訳だし、車などの開発がされた訳だ。

こうやって時代は常にドミノ倒しのようにあらゆる分野のオリジナルが複製されたものによってある段階に入った瞬間から本質を変えている、これはどの時代でもそうだ。

複製されたものが本物に影響を与えている。

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