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理屈の壁と感情の壁

理だけを重視すると相手の感情が理解出来ない、感情を重視すると相手の理が理解出来ない、理のみを使用する説得も感情を優先した相手に対する思いやりも、相手側が壁を設置してはその理を感情を攻撃だと認識する。

その壁は互いに見えないようになっている。


感情の壁

感情に支配されると理がとてもチープに感じ、人の心を持っていないとして憤怒しては感情の壁を設置する。相手の気持ちに立てば通常理攻めすれば傷つくに決まっているとして敵視される。

理は感情に支配されている者には理解出来ない、寧ろ理は馬鹿が使うとまで思われてしまう、慰めの言葉に理屈がいらないのはこの為だ。


理屈の壁

悩みというのはその個人で重みが変化する、借金を100万円つくってしまったとして首つりを行う者もいるし、かといって負債額が1億を超えても飄々ひょうひょうとしている者も存在する。

勿論その1億の負債は相当なダメージである訳だから、その人が強いとわかるが、そもそもがそれだけの負債は感覚が麻痺する、ここまで来ると大きい悩みが故にそれに集中できる。

普段から悩みが無いとどうでもいいような内容で傷つき、数々の小さい悩みに支配されるし、普段から大きい悩みがあるとその悩みが一本化されて数々の小さい悩みなど視界に入らない。

普段から収入が数万円に満たない世界から見れば100万円の負担は大きいから死に至る、普段から大きく稼いでいるなら1億の借金を背負ってもどうとでもなると出来る。

しかし、負債額1億でも飄々ひょうひょうとしていたのに、例えばその者が痴漢という犯罪行為を行ったとして、それが露呈して恥だと感じて自殺することもある。普段から責任のある仕事をしているからそうなっているとも捉えられるが死ぬ必要は無く、1億の負債額よりも圧倒的に大きい悩みでもない、寧ろ小さな悩みでしょう。100万円の借金から自殺した者はその痴漢が露呈したぐらいでは死なないことの方が多いでしょう、これはたいして責任問題が発生しないとも捉えられるが、かといって100万円の借金から死ぬ必要も無いでしょう。

理から入っているのか感情から入っているのか、その悩みの内容は似ていても捉え方が違う、それは環境にもよるし悩みの構築のされ方によって変化する。

もし失恋で深く落ち込んでいる者に対して慰めるときに理屈はいるのかというと人による、少なくとも理を持って慰めるにしても気晴らしに何処かに出掛けようと提案するのは理では無い。

それは逃避しようと提案しているから受け入れられたりもするが、その手前に理でもって慰めようとすると「こいつ上から語りやがって」と反感を買うことにもなる、その慰めている側が普段からモテているなら嫌味にも聞こえる。

そうして気晴らしに何かをしようと提案しても受け入れられない。


感情が先に入るのかあとに入るのか

比較的男性は理屈が先行しやすいとされている、これは男女の脳の違いにあって、その違いは僅か5%以下とされていて大差ない。

これにも個人差はあるがおおよその思考はこのように展開される。

男女の思考の違い
・男性脳
理屈からスタートし次に感情が入る。
『理屈→感情→理屈→感情→以下繰り返し』

・女性脳
感情からスタートし次に理屈が入る。
『感情→理屈→感情→理屈→以下繰り返し』

大きく違うように感じるが、その流れはまったく同じになっている、スタート地点だけが違い、その思考の流れはまったくもって同じだ。

感情から入るとその時感じた内容からスタートし次に理屈が出来上がる、理屈から入ると次に感情が出来上がる。SNSにもその特徴が良く出ていて、この相手は気持ち悪いとしながら〇〇であるから○○なんだとする者、これは感情から入っている、この相手は○○であるから○○なんだ、だから気持ち悪いとする者、これは理屈から入っている。

感情から入ると次に理屈が来る、理屈から入ると次に感情が来る。

これは比較的男性と女性の思考の違いを表しているだけで、男性であっても女性のように感情から入る人も存在するし、その逆も存在する。


トラブルからその思考傾向がみえる

仮に駅のホームで友人同士2人横並びでペットボトル飲料を飲んでいたとして、そのペットボトルを線路に落としたときに感情から入る人であった場合はこのように発言する。

「うわ、落ちた」「うわ、落ちちゃった」

理屈から入る人であった場合は次のように発言する。

「うわ、落としてしまった」「しまった、落としちゃった」

感情から入る場合、私は俺はこのペットボトルを落としたのではなく勝手にペットボトルが落ちたんだ、と主張する。理屈から入る場合は私は俺はこのペットボトルを落としてしまった、とする。

一見して感情から入ると人は愚かに見えるし、SNSでの発信もこのような発言だと問題となるが、実際はこれといって対した問題でもない。何故なら感情から入ったとしても次に「ああ、落ちたから駅員さんに知らせないと」と言っては理に適った行動を取ることもある。

これは感情→理屈といった思考の流れ。

これに対して理屈から入る人であとから感情的になった場合は「ああ、落としてしまった、まあどうでもいいか面倒だし」という感情をあとから持ってきては俺は私は悪くないとして無かったことにしようとする思考に入ることもある。

これは理屈→感情といった思考の流れ。

あえて悪い例を出していったがどちらともこれといって思考の全体の流れに大差ない、感情が先か理屈が先かの違いだけである。

感情から入る人をみるとその最初の段階で「この人頭おかしい」となるし、理屈から入る人をみると次の段階で「この人やばいやつだ」となる訳だ。

ここに理屈の壁、感情の壁が存在し、その壁は互いに見えないようなっている。

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