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信じているものは何(8)

劇的な形で教会に出会ったわたしは、
もう一つの偶然(必然)な出来事があった。

代父
神父様とお話をし、教会に通うことになった私は
主日のミサに行くことになりました。

初めての教会でのミサで、緊張と感動が交錯し
かなり気持ちが高揚していました。

その教会は、かなりの信者数がいて、教会内は
人で溢れていました。そして一通りミサを終え
帰ろうと教会のドアを出たところで、一人の男性に
声をかけられた。その方はFさんと言います。

「はじめてですか?」

私は、
「はい、カトリック教会は初めてです」
と答えた。

そうするとその方は丁寧にその教会を案内してくれた。
でも、その方はその教会の所属ではなく隣町の教会の
所属の方でした。
さらにその方は、ODという所属修道会の会員だったのです。

OD(世俗修道会)
小一時間ほど、F氏と話した後、今度ODへ遊びに行くことになりました。
ODは、S教会の隣町のA市にあり、電車で一駅のところでした。

そこは、コンクリート建築の確か4階建てくらいだったと思います
(ちょっと忘れちゃいました。)
建物内に、会議室や休憩室、そしてお御堂がありました。

ODは、仕事をしながら(市民生活をしながら)聖性を
高めていくという考え方があり、共同生活をされてましたが
修道会のように閉ざされた環境ではなく、一般の生活ができる
環境下にありました。

この会の創設者はHMEという司祭で、Mはマリア様のMであり
マリア様を崇敬していたことで、F氏と早々に打ち解け、住居訪問
となったわけです。

そこには司祭も住まわれており、そのお御堂でミサも行われておりました。
そして、そのミサに預かることになりました。

カトリック教会では、洗礼を受ける際、代父母をつけなければなりません。
それは、肉体の両親は実際に存在するわけですが、霊魂の両親が居ない
訳で、洗礼の際は霊魂の親の下生まれ変わるということです。

その代父を、受けてくださることになりました。
代父を受けてくださる代わりに、少しODの勉強をしてほしい
とのことなので快諾した。

これも一つの偶然ですが、ODという団体は、マリア信仰を
熱心に取り入れており、ご聖体も口で拝領するという事を
推奨されてました。
なので、私は、安心してお任せすることができたのです。

ただし、なぜか私はLP運動のことは口にしませんでした。

そうして、F氏と親交を深めつつマリア信仰も、
正道ルートで学んでいきました。
S教会のK神父様と洗礼の日の相談をし、個別で
洗礼という形になりました
洗礼(改宗日)は6月12日に決まりました。

マリア様の御像を購入してからというもの
とうとう洗礼(改宗)の一歩手前まで来たのです。

夙川教会そして洗礼

前回の写真で教会の全体を少しご覧いただきましたが
改めて少し紹介したいと思います。

1912年(大正10年)宣教師B神父様により
聖なるロザリオの教会として建てられたのが始まりで
現在のネオゴシック様式の聖堂は1932年(昭和7年)
4月に完成しました。

教会は聖テレジアに捧げられ、一般的に夙川教会が通名ですが、
「幼きイエズスの聖テレジア教会」とも呼ばれています。

夙川教会には、日本最古のカリヨンがあります。
いわゆる教会の鐘です。
教会の祝日や、結婚式の時などに鳴らされます。
(多分今でも)

教会の横には信徒会館があり、そこは事務所及び司祭館
そして憩いの場となっており、2階には小聖堂があります。
小聖堂には聖櫃と祈り台があるだけで、静かに祈ることができます。
(いまでもあるかな?)

そしてその信徒会館の横にルルドの聖母像が置かれています。
ルルド像は、必ずありますね。

教会内部は撮影禁止のため当教会のHPをご覧ください。

さて、プロテスタントからカトリックに改宗する際には
前の洗礼が有効かどうかを確認します。

私の場合は、前の教会が正しいかどうか不明だったので、
懺悔(告解)をしたのち洗礼をする形を取りました。
前日(土曜日)に行いましたが、これが初めての告解。
初告解だったのです。
顔から火が出るような・・ まさにそのような
気持ちでした。

そして、洗礼式。
晴れてカトリック信徒になった日でした。
信じるものが出来た私は、この先どのような
運命が待ち受けるのだろうと、心を震わせていました。


私は個人的に人がたくさん集まる主日のミサが
ちょっと苦手で、土曜日の夕方のミサに通う
ようになりました。

夕方は人も少なく、集中できるのと、あと
聖体拝領などで、他の信徒に迷惑がかからないように
という配慮もしていたと思います。

しかしながら、やはり家からの距離もあるので
近くの教会を探してみるとSM教会があったので
そこへも通うようになりました。

でも、なぜ人の集まるところが嫌なのだろう。
人のことをあまり信用できない自分がいるのだろう。
それは、生い立ちに起因するところが多いが
それも記事にして書ければ、書こうと思います。

この時期(洗礼をした)は、信仰により信じる対象が出来、
真理を求めて更なる高みに登っていくと思っていた。

・・・。

(限定無用公開中)


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