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沈黙の人生を歩んできて、気づいたこと。

こどもの頃から
じぶんの意見を言ったり
じぶんの気持ちを表現するのが
とても苦手でした。

いまでも、周りからは
「何を考えているか分からないね」と
言われたりします。

存在感も薄いせいか
ずっと近くにいた人に
「……いつから居たの?!」と
ビックリされることもしばしばです。


意見を言ったり
気持ちを表現するのって
たいせつなことなんだ、と
あたまではわかっていました。

けれど、
行動にうつす勇気がもてずに
ずっと「沈黙の人間」として
生きてきました。


どうして、わたしは
なにも言えないのか。


理由は単純です。
傷つくのがこわかったのです。

じぶんが傷つくのも
だれかを傷つけてしまうのも
こわくて、こわくて
なにも言えませんでした。

無意識のうちに
じぶんを守っていたのですね。


じぶんを守ること自体は
悪いことではないと思います。

ただ、
沈黙しつづけてしまうと
じぶんの「想い」は
こころの内側で
膨れあがっていきます。

だれかに話したり
なんらかの表現として
外側に出してあげなければ
決してなくなりません。


ため込んだ想いは
ことあるごとに思い出されます。

わざわざじぶんで取り出して
反芻してしまったりもします。

その結果、
どんどん膨らんでいって
逃げ場をうしなって
さいごはドカーンと爆発してしまいます。


また、
沈黙というのは
まわりの人からすると
無に近い状態だということも
わかりました。

わたしが
なにも言わないのは
なにも考えていないのと
同じだったんです。


ひとの内側というのは
なかなか見えないものです。

本人がどれだけの想いを
抱えていたとしても
周りの人はなかなか
気づくことはできません。

わたしたちは一人一人
別々の生き物ですから
仕方がないことでもあります。


だからわたしは
すこしずつ、
じぶんの想いを「音」にして
出してみることにしました。

音というのは
声や音楽だけでなく、
絵や文章もふくめ
創り出すものすべてです。

noteもわたしの音のひとつ。


どんなに小さな音であっても
きっとだれかに届くと
信じています。

そして、わたしも
だれかの小さな音を
受けとれるひとでありたいです。


音と音が共鳴しあって
つながりが生まれて
世界は成り立っています。

それぞれの音に優劣はないし
どんな人のどんな音色であっても
美しいものです。


気づくのに
だいぶ時間がかかって
しまいましたけれど、
どんな気づきにも
早い遅いはないですよね。

人生の学びの旅は
まだまだつづきそうです。


いつも、あたたかいサポートとお手紙をありがとうございます。いただくお言葉のひとつひとつが宝物です。こころをそっと照らす、ちいさな灯りのような作品をお届けできるように。これからもがんばります!^^