低解像度の美学

「究極のヴァーチャル・リアリティ」を想像してみよう。最先端のハードウェアは、私たちが住む「現実」と見紛うクオリティの高画質・高音質を実現するだけでなく嗅覚や味覚、触覚までも表現するだろう。接続された最先端のソフトウェアは複雑な物理演算を難なくこなし、その仮想世界独自のマテリアルを描画する。アーティストがその世界に初めてログインし、地球最先端のヴァーチャル・アートワークを創造する記念すべき瞬間が到来する…。

そのアーティストの行為は、地球に生まれた人類が地球の「土」を用いて器を焼くことと、一体なにが異なるのだろうか?

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そこには解像度の「ギャップ」が存在する。仮想世界の解像度は一見「現実」と見分けがつかないレベルかもしれないが、しかし「現実」そのものとなることはできない。それはあくまでも「現実」のうちから限られた資源と技術によって生成された「近似値」にすぎないのだ。

「バーチャルは,リアルと感じさせる要素そのものなんですね。リアルと感じる≒リアルと等価と扱えるものがバーチャル,つまり同じではないけど同じ役割を果たすというものがバーチャルであり,そのエッセンスがなんだろうということを探すことこそが,VRの研究なんです」− 頭部への電気刺激で重力,そして視覚や味覚まで「本当に感じる」VRの世界へ

この永久に解消できない「ギャップ」こそ、ラスコーから連綿と続く美術史が描き出してきた「美学」ではないだろうか。いかなるメディアであろうと、敏感なアーティストは鈍感な世間に対してメディアと「現実」との「ギャップ」を、サディスティックあるいはマゾヒスティックに突きつけて来た。

「低解像度の美学」は写真にふさわしい。カメラの機能とは「現実」の「解像度を落とす」ことなのだから。これは画素数がどれだけ上がっても変わらないテーゼである。デジタル・カメラはビットマップ化によってその光景を管理可能にし、「グリッド」の質感を端的に露わしている。

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カメラは「脳」のメタファーを描いている。「思考」を担う「脳」もまた、「現実」の「解像度を落とす」ために人体に備わった「道具」なのかもしれない。円周率の果てを想い描いてほしい。そこにどんな数字が書いてあるか、あなたは読み取ることができるだろうか?この問いの前では最も優れたコンピューターもあなたと同じ立場となる。頂点は空間中には存在している。計算すればするだけ数字が掘り出せるのだから。しかし「グリッド」を通して頂点に達することは永遠にない。表示されるのはあくまでも「代わり」の「近似値」に過ぎないのだ。

データの数値化にあたっては量子化を行い、整数値(すなわちdigit)で表現するのが一般的である。例えば、上昇中の位置では、階段の何段目かがデジタルで、坂道中の位置がアナログである。整数で表現するか、実数で表現するかの違いがある。デジタルでは、データ量を離散的な値(離散量)として表現することになり、それらの中間の量は誤差を含んだ隣の離散量で表現する。− Wikipedia - デジタル

「思考の外側」にその空間は広がっている。解像度が落ちる前の割り切れない「現実」が。私たちの「身体」はその空間に属していて、そこに「グリッド」を越えるもうひとつの「美」があるとしたら?


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