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学校が最悪の状態にあるとき、全員に全く同じ順序で教える。では、最良の状態のときには?

「自由進度学習」といった個別最適な学びを促す授業が注目されています。しかし、これが方法論になってしまっている状況も散見されます。「自由進度学習をやること」が目的になっている場合です。本来、「自由進度学習」は手段であり、達成される目的があるはずが見失ったり、そもそも目的をもっていなかったりする場合も考えられます。
そんな時、「そもそも論」で考えることは重要だと考えます。

学校は最悪の状態にあるときには、学級の仲間全員を同じ部屋に集め、(数学、公民、および字などを個人差を無視して)全員に全く同じ順序で教えるのである。学校が最良の状態にあるとき は、個々の生徒は、いくつかの限られたコースの中から一つのコースを選択することが許される。 しかしとにかく学校では、教師の目標を中心に、同年齢者の集団が形成されるのである。 それに対して望ましい教育制度の下では、一人一人の活動が特殊化され、その活動のためにそれぞれが仲間を捜すというようなものになろう。

「脱学校の社会」 イヴァン・イリッチ

この指摘は、学校関係者には胸が痛くなる方も少なくないと思います。いわゆる一斉学習が、「最悪の状態」だと指摘されているからです。一斉学習が多くなっているという自覚がある先生は、「少しでも減らさば…」「個別最適な学びや自由進度学習を取り入れなければ…」と思うかもしれません。
ただ、このイヴァン・イリッチの書籍が発刊されたのは、1977年です。つまり、今になって始まった指摘ではなく、50年ほど前からの課題であるものの、変わっていない・変われないところがあるということです。
このことに関連して、次のような指摘もあります。

その目的の実現のためのシステムが設定されると、目的到達そのものよりも、それを達成する教授手段の体系の調整の見事さに重点が移動されてしまうのである。助教の号令のもと大量の児童が分団をなしたり、解体したりして活動する際の整然たる行進、競争試験に立ち向かう活気、出席点呼と応答、着席と起立、解答発表のための挙手、賞の発表と受領等々の公立学校風の所作の精密なマニュアルこそが、観察する人の眼を驚嘆させるのである。

「近代英国初等学校における「3R’s」教授システムの成立過程について」 齋藤新治

これは19世紀の状況です。この頃の学校の目的は、いわゆる読み・書き・そろばんといったものでした。しかし、その目的に到達することよりも、教師の教授手段の見事さに注目が集まったという指摘です。
これは私の中でも少なからず心当たりがあります。
特に研究授業は、その分かりやすい例かもしれません。
子どもが何かを身に付けたということにはあまり注目されず、教師が何をして、集団全体の動きがどうだったかに参観者の眼がいくことが多いからです。
その理由が、数百年前の課題を解決していないまま今に至っていることだと考えると、自分一人の問題ではないようにも思います。

とは言え、同書において、次のような指摘もあります。

「 教師中心のつめ込み教育と ドリル教育で,子どもたちを画一化し創造姓を奪い去っていた.」

「近代英国初等学校における「3R’s」教授システムの成立過程について」 齋藤新治

VUCAと呼ばれる、先が見通せない時代を子どもたちは生きていきます。AIの台頭も著しいものがあります。そういった中では、過度な正解主義や同調圧力の文化で学べることは乏しいでしょう。人間が、そして一人ひとりがもつ創造性を発揮することができる環境が不可欠だと考えます。
数百年間積み上げたものを組みなおすのは簡単なことではないでしょう。でも、誰かがいつか始めないと、いつまでたっても変わりません。最悪の状態を脱するためにも、まずは選択肢を与えることくらいは誰でも、どこでもできるように思います。
そこから始めてみませんか。

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