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映像ディレクションの作法(13)/続・ナレーションとは何か

ナレーションについて考える、続編です。

テロップVSナレーション
ある場面で、テロップとナレーションが共存している場合を考えてみましょう。
テロップもナレーションも同じ「言葉」ですが、視聴者にとってどちらが優先されるのでしょうか?

テロップとナレーションとでは、視聴者が有線するのはどちらの情報なのでしょうか。ちょっと変な例ですが、下記。

いかにも暑そうな夏の海水浴場の映像に下記のテロップとナレーションが入ります。

テロップ「気温32度」
ナレーション「この日の気温は34度でした」

テロップとナレーションが食い違っています。

この場合、視聴者はどちらを「間違い」と感じるのでしょうか。
もちろん、どちらもありえますが、感覚的にはナレーションが正しくテロップの方が間違えていると感じるのではないでしょうか。みなさんはどうでしょう?

一般的に肉声で発せられた言葉による情報のほうが、文字で見せられた情報より信憑性を感じるのではないでしょうか。

もともと、人類が文字を発明したのは最近の(といっても大昔ですが)の事です。それまでは肉声の言葉しかありませんでした。現在でも一部の民族は文字のない言語で生活しています。肉声の言葉のほうが遙かに歴史が長く、言葉以前の「音声のコミュニケーション」にいたっては、話し言葉のまたさらに古くからあるでしょう。
肉声の言葉のほうが、人類にとってはなじみが深く本質的で、文字は新参者なのです。それゆえ、肉声の言葉であるナレーションの方が、単なる文字でしかないテロップよりも、より信頼性が高く、説得力があると感じられるのではないでしょうか。

それと、一つ前の投稿の中で考察したように、ナレーションは映像情報によりそう独立した存在です。片やテロップは映像に焼き付けられた付属物に過ぎません。情報としての「格」が大きく違うのです。

ナレーションの方がテロップよりも上位にある。なので、ナレーションとテロップが共存している場合には自ずと役割分担がなされます。ナレーションが本筋を語り(重要な意味の担い手となり)、テロップはその理解を助けるための「補足情報」を担うのが一般的であり、自然なあり方だと思います。

演技の問題
天の声であり、信頼性の高いナレーション。情報の担い手であると同時に、そこには「誰が語っているのか」「どう語っているのか」というもう一つの大きな要素がからんでいます。ナレーターの技量やディレクターの演出力の問題です。

同じナレーションでも、コンピュータの合成音声で読むのと、うまいナレーターさんが高い技術で読むのでは説得力がまるで違ってきます。朗読やモノローグの場合を考えるまでもなく、ナレーションには「演技」「演劇」の要素があります。というより、見方によってはそれが本体だとも言えるでしょう。

天の声、陰の声、といった匿名的な存在のナレーションであっても、卓越した技術や演技力が発揮されていれば、出演者の一人になります。特権的な役割担うナレーションが、上手な語り、味のある語り、など、意味を伝える「機能」を超えたより高度な役割を担うわけです。

実際、肉声による語りは、何を語っているかよりも、どう語っているかで説得力が違ってくるのではないでしょうか。そこには「情報」が「芸」に昇華する瞬間が存在します。

#今回のまとめ
・ナレーションはテロップよりも上位に立つ
・テロップとナレーションの役割分担を考える必要がある
・ナレーターの技術や演出により、ナレーションは単なる情報から芸に昇華する