2021/09/11 晴れ

人と人が近くなる時に多用される手段に「好きなものの共有」があると思う。私はあれの開示がひどくが苦手だ、苦手というか怖くなる、男女問わず相手が近くなればなるほど。
布教と共有は違う。布教は押し付けなので別に嫌われたって鬱陶しがられたって構わないという気合いで臨んでいるので大丈夫だが、共有というと些か及び腰になる。何度かはやるけれどすぐに諦めてしまう。好きが伝わってないという感覚は何故あんなにもありありと辛辣なのだろう。私自身の感性にすら自信がなくなってくる。ただ好きなだけなのに。ただ、好きの横幅をぐいっと伸ばしたいだけなのに。ああ、ほら、その苦笑いが決定打となり私はそこから一切を言わなくなる。空振りしても尚バッターボックスに立つ事が出来るその勇気にその心意気にその覚悟にその愛に私は辿り着く事が出来ない。
宝箱は歳を追うごとに拡張され開いて中を見るといつもクラゲ水槽にも似た眩さで私を抱いてくれる。
その中にあなたもあなたもあなたもあなたも招待したいけれど、各個人にそれぞれ向けた花束を手向けることは難しい。だから私はこうやって不特定多数に向けて大きな生け花を作る。私の感性が今日も変わらずにここにあるという証明。素通りされることがほとんどだろう。でも、もし、今あなたが足を止めてくれたのであれば私はそれでもう胸がいっぱいになって生きていけるようになるのだ。