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【復活のコアメダル】私とオーズと最後の我儘

仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル
感想blog : written by i_CHI°


オーズ完結。

ちゃんとオーズと決着つけたい思いから、誰の為でもない自分の為の感想をここに書き記す。

私の一方的な我儘である。


出来る限り全てを綴ろうと思うので、この文章はおそらく長くなるだろう。

そして、私は今から絶賛する。
勿論気に食わないところも挙げていくが、最終的には絶賛に着地するということを、初めに言っておきたい。

また「復コア」に関しては一回しか鑑賞できていない為、解釈不足に関しては大目に見て欲しい。

いきましょう。


今回の感想の3つの出来事。

1つ、
最終章に至るまでのオーズと「企画オーズ最終章」としての絶賛。

2つ、
ストーリーになぞらえながら細かい感想。

そして3つ、
「映司はいかにしてあの結末を迎えたのか」という部分にフォーカスした、自分なりの解釈。


※ネタバレ注意です。本編本作共に視聴した人用のblogになります。



最終章に至るまでのオーズと「企画オーズ最終章」としての絶賛


その昔、国民は欲望のまま狂った様にオーメダルを求めた。私もオーズドライバーは持っていなかったものの、オーメダル争奪戦には勿論参加していた。父と共にスーパーを巡り、ガチャの在庫を確認する日々。オーメダルセットを買いに、朝5時前からトイザらスに並んだ事もあった。私にとっても、世の中にとっても、最もアイテムに翻弄された一年であった事は間違いない。

そんなオーズは10年前、完結する。

当時小学生だった自分は浅瀬の理解しかしていなかったと思う。好きか嫌いかと問われれば好きと答えるが、上位に位置付けるほど好きなライダーでもなかった。なんなら、バディ物は前年やっているわけで、どこか二番煎じな雰囲気を感じていた。

その後は再放送や録画でおそらく3、4周くらいはしたが、前述のイメージが大きく変わることもなくイメージ通りのオーズを試聴してきた。
人気作故、グッズや映画などにも引っ張りだこで、電王と並んで度々顔を見せる常連組になっていったオーズ。
大きく動いたのは「平ジェネFIMAL」のあの客演だろう。ファン反響は概ね良かったようだったが、しかしながら私はあのオーズが少しばかり苦手だった。
個人的に、映司とアンクの「仲良しこよし」はちょっと解釈違いだからだ。あくまで互いを利用し合う関係、信頼はその先にしかない。究極のツンデレバディ。という認識。

テレビシリーズを経ているとはいえ、甘みが過ぎる。渡部秀が直々に脚本演出に要望を通したという事だが、「オタクの考えた最強のエモオーズ!」みたいな雰囲気を私は少し感じてしまった。
とは言いつつも、あれはあくまでエグゼイドとビルドの映画、客演という事を考えればあれで間違ってはなかったと思うし、声を上げる程の不満はなかった。というより、当時のオーズに対する私の熱量はそれ程のものではなかった。


しかし、私のオーズに対する価値観は大きく変わることになる。

2020年秋に行われた、オーズ全話YouTubeプレミアム公開だ。全話は追えなかったが後半戦を重点的に、7割程度視聴した。
そして私は、長年「映司とアンクの2人の物語」だと思っていたものが「映司とアンクと比奈の3人の物語」だったことに気づく。その瞬間、私の中でのオーズの味が大きく変動、5段階くらい濃くなり、面白過ぎて爆笑した。
辛口目の平成1期と甘口目の平成2期、その転換期に位置する「オーズ」という作品。不安定か計算か、転換期だからこその唯一無二な空気感を纏っている。初めから中辛というよりは、甘口と辛口を交互に摂取する事で中辛を保っているかのようなバランス感、ニチアサとして完璧な「明るくもあり暗くもある」を演出していた事に気づく。そして小林靖子が紡ぎ出す関係性と言葉が余りにも良すぎる。特に好きだと感じたのは、アンクと比奈の絡み。

私が10年見逃していた重要人物

物語後半戦のこの3人のやりとりは永遠に観てられる気がする。
何故この良さに10年も気づかなかったんだ、、
自分を恨んだ。

しかしながら同時に、本編終了後10年間提供されてきたオーズに対する違和感を、改めて認識するキッカケとなったことも事実。

そうしてオーズへの認識が自分の中で塗り替えられていく中、『復コア』の制作が発表される。


10周年オーズやるよー
完結編だよー
脚本小林靖子じゃないよー

10年ぶりにオーズのオリジナル作品が観れるワクワクと小林脚本じゃない不安が同時に押し寄せる。

上記の通り、本編後のオーズは個人的には味が甘過ぎる。本編で完璧だった「甘み」と「辛さ」のバランスが全く取れていない。悪いわけではないし、確かに「エモい」も大事ではあるが、根底にあったはずのシビアさが完全に何処かに忘れ去られている。
そんな先の完結編。
「きっと今回も『エモ』で固められた甘味オーズなんだろうなぁ、なんだかんだアンク復活して3人で手を取り合う大団円なんだろうなぁ」と、10年間モヤモヤしてきた自分は少し投げやりになっていた。ファンの需要的にはおそらくその方向性で間違えてないだろうから仕方ないなとも思いつつ、オーズという作品は自分の中で、モヤモヤを纏ったまま蓋をされてしまうのだろうなぁという憂鬱で、正直「復コア」を観たくないとすら思ってしまっていた。

そう、これは完結編。ただの続編などではない。何が起こっても今後一切救済措置を施せない確定事項となる、その怖さがじわじわを私を蝕んでゆく。

そんな私の憂鬱をよそに、
容赦なく上映は開始されていくわけなのだが、どうやら様子がおかしい。賛否の両論が巷で発生しているっぽい。

私は突如蘇った最後の希望を胸に、ネタバレを踏まない程度Twitterを覗いてみた。

「衝撃の結末」と「MEGA MAXのアンク」

その文節だけを見た。
なるほど。


「映司死ぬな?」


正直確信だった。いや、確信に変わったと言った方が的確かもしれない。何故なら、続編をやる意義を満たす為にはその道しか無い事に気づいてしまったからだ。

MEGAMAXにて未来でアンクが復活する事は確定している。メインキャラ2人の別れと再会。その再会を前作の「W」では描いているが、オーズ本編では描かなかった。描き切らない事を「オーズ」は選んだのだ。ならば、そんな決まりきった大団円を10年越しに改めて描くなんて事は流石に野暮なのではないだろうかと思ってしまう。
しかしとして、「いつかの明日」は確実に訪れる。だとしたら大事なのは「いつかの明日」の定義だ。

気づいたことがある。

何故、私たちはこの10年間ずっと「いつかの明日」でアンクが復活し映司と再会すると思い込み疑わなかったのだろうか?
確定しているのはアンクがいつか蘇るという事象のみなのに。その時に映司や比奈達が生きているとも限らないのに。

もし、これが10年間のミスリードとするなら、そこには大きなドラマが生まれるだろうし、続編としてその真実が提示される意義は十分にあり得ると、妙に腑に落ちてしまった。

こうして憂鬱と希望の狭間に這い上がった私は、ようやく「オーズの完結編」と向き合う覚悟を決める事になる。



ドーンと「復活のコアメダル」鑑賞。

オーズが終わった。
紛れもなく終わった。
面白かったのかは全くわからない。
例えるなら「シンエヴァ」のような、壮大な何かが幕を下ろす。全てを補完し、肯定し瞼を閉じる。まさに劇中の映司のように、私たちのオーズは我儘と満足の元、息を引き取った。

鑑賞後。
私の感情の最前列に居たのは「嬉しい」だった。映司の死に対する「悲しい」を超えて、オーズという作品に対する「嬉しい」が溢れ出していた。

本編終了後から10年間の数々の軟派オーズと均衡を取るように、圧縮された硬派オーズがドッと押し寄せる。辛口だから、大人向けだから絶賛しているわけではない。用はバランス。10年間のオーズ全てをもって中辛になるように清算してきやがった、そのクソ真面目な姿勢が何よりも嬉しかったのだ。そこまでやるか?と。
まぁ実際私はもっと硬派でも味わえた気はするが、そこはしっかり軟派へのアプローチ、抜け道も仕込んであってバランス一応取ってるなと思った。(軟派の感想見る感じは全くバランスとれてないっぽいけど、初見時の私はとれてると思ってた)

本編後10年の甘さと均衡をとってくれた事で、私はようやくあの本編オーズの世界へと戻って来れた気がする。これで、本編終了後のオーズともちゃんと肯定的に向き合える。最後の最後まで、自分の好きだったあのオーズであったと自信を持って幕を下ろせる。それが何より自分の中で大きかった。とてつもない大きな安堵が体の中を巡っている。

上記の通り、私は「映司の死」を予感していた為に、死に対する驚きやショックは正直少なかった。それよりも「まさか本当にやるのか?」という運営の覚悟に対する驚きが強く感情を支配していた。
絶対「みんなで仲良く大団円」にした方が楽だし評判良いのもわかってた筈なのに、茨の道を選んでまで切実に真面目に続編の意義に向き合ってくれた事が、とにかく嬉しかった。

いやー嬉しい。

勿論、気になる部分はある。あり過ぎるくらいにある。だがその殆どが「尺と予算」に収束してくると感じている。(尺も多分予算のせいなのでほぼ予算)予算に関しては正直どうすることもできない。10年も前の子供番組の続編単発映像作品に大した予算が回せない事くらいは直感で理解できる。せざるを得ない。なのでそこに関する説得力不足に関しては仕方が無さ過ぎたと折り合いをつける事にしたい。

逆に時間不足対策として本編を遠慮なく引用しまくる所に私は感心してしまった程だ。
正直、この作品はオリジナルの筋というのを完全に諦め放棄していると思う。バカみたいなテンポと情報量で容赦なくグイグイ前進していく本作、しかしながら、ほぼ全ての要素において、最終回を筆頭にオーズ本編の引用によって形成されている。視聴者の知っている知識の説明はすっ飛ばし、当時の状況や感情を擬似的に思い出させるように紐付け誘導し、視聴者に根付いている感動を揺さぶってくる。オーズを知っていれば知っている程、直感で構造が理解できる仕組みになっていて、1年間オーズを観てきた恩恵を受けている感覚に陥る。60分しかない戦場で、かつて積み上げた1年間をこれでもかという程利用する。なんとも無様な、しかしながら見事なやり口。

そう、決して綺麗ではない。
映像作品としての完成度も高くはない。
だが今作の目的は「クオリティの高い映画」をつくることではなく「オーズを10年振りに復活させ、そして完結させる」事なのだ。そのタスクを達成させる為ならば、その他の要素を容赦なく妥協する。それだけの覚悟を持って「オーズ完結」と向き合い戦う。
冷静に考えて「1年間かけて紡ぎ上げた作品を、10年後の60分で完結させる」なんて企画はそもそもクレイジーが過ぎる。だとしても「10年振りにオーズが観たい」という欲望が叶うなら、それはもう戦うしかないだろう。

運営は戦い抜いたのだ。戦い抜いてくれたのだ。その試行錯誤の跡を感じることが出来ただけで十分過ぎるほどお腹がいっぱいだ。

ありがとう。
その勇姿に私は拍手を送りたい。

さて、長々と語ってしまったが、どうだろうか?何故私が今作を絶賛しているかというニュアンスくらいは何となく理解してもらえただろうか?

私は「企画オーズ」との10年を改めて整理できて勝手に1人満足している。

完全にひと段落して普通ならここで筆を置くべきなのだろうが、残念ながら私のオタク度合いはこんなもんじゃない。
もし人生の時間に猶予がある方は、もう少し私の我儘にお付き合いいただければと思う。



ストーリーになぞらえながら細かい感想


「15分くらいCMあるから間に合うよなぁ~」
全然ギリギリで座る前に始まるオーズ
「セーフ、、、」

最終回の映像が挟まりつつ懐かしさに浸る。


レジスタンス
レジスタンスの設定も描写もクオリティが低過ぎて予算の少なさを感じさせる。「終わったかもしれん」と思ったが、まぁいうて想定内なので見ないふりをした。もしかしたら初めに予算の少なさを提示し納得させる事で、後半のストーリーを楽しむ上でのノイズを軽減させたのかもしれない。(都合の良い解釈)
比奈ちゃんが岩爆弾ぶん投げるとことかは嫌いじゃない。岩出てきた瞬間に察して笑ってしまった。

アンク復活
早い。「あの予告の爆発のシーン冒頭かい!」と全員が思った。超あっさり再会するやん?と。でも、なるほど、これは「ただアンクを復活させる」という作品ではないんだなと、ワクワクさせられた。良いぞ始まったぞ、と。
なによりアンク目線でストーリーが展開していくのめっちゃええやんとなった。

映司?
続いて映司が気持ち悪い。
後から考えれば、映司本人ではないという絶妙なバカ上手演技が炸裂しているのだが、初見時は「数年経って渡部秀の演技が変わったんかな」と思ってしまった。それもまた面白いミスリードなのかもしれないが。(都合の良い解釈2)

即席クスクシエ
クスクシエがめちゃくちゃ雑。
まぁMEGAMAXでクスクシエのセットは解体してるので、仕方ないわなくらいとしか思わなかったけど、その為のレジスタンス設定だったのかと思うと少し勿体無いなと。(だいぶ勿体無い)

オリキャス勢揃い
次々とオリジナルキャストが勢揃いしてきて、10年ぶりにオーズを観れていることに感動を覚えた。全然変わってない顔ぶれの中、里中さんだけ少し印象変わっていて「ん?キャスト変わったん?」と登場一瞬焦ってしまった。勿論変わってなかった。多分髪型。

揃いすぎ

ハッピーバースディ鴻上から古代オーズの復活などが語られる。アンク目線なので違和感なく説明セリフが吐かれていくわけだが、説明めっちゃ少なかった。勿体ねぇ。ほぼ復活した事実くらいしか話さんやん。

映司死んでる?
映司の消息不明が明らかになり、視聴者はさっきの映司が偽物である事を理解する。というのが脚本の意図なのだろうが、私は今作「最終的な映司の死」を予想していたので、冒頭既死パターンの可能性に首を傾げた。それは確かにおもろいけどどうやってタジャニティなるん?とそれが気になって仕方なかった。アンクにしか見えない亡霊パターンとか?いやそんな急にオカルティックな事はせんよなぁとか思いながら映司アジトのシーンなり、比奈ちゃんも目視していたのでその線は無くなった。

甘辛のアンク
映司とアンクのいつも通りのようなやりとり。でもどこか違和感なやりとり。激甘な映司に対し、基本否定姿勢なアンクに私は安心する。

映司の記憶では少女は死んでいる
映司の違和感は続く。確かに映司っぽくはあるのだが、映司を上部だけで解釈したモノマネの様な映司に全身が痒くなる。そんな中、少女の生死を問われた映司は「死んだよ、仕方なかったんだ」と答える。全身に寒気が走る。劇場全体の温度が下がるような空気感。映司がそんな事を言う筈がないという確信と裏腹に、そう言う世界線もあり得たかもしれないという妙な説得力に心が痛くなる。後から思えば、映司の記憶を有しているゴーダが何故わざわざ疑われる様な発言をしたのかという疑問に対しても、映司の性格の不安定さが反映された結果なのだろうと納得がいってしまう。また、映司の記憶の中では「少女は死んでいる」認識になっている提示という意味でも、このゴーダの発言はかなり重要な役割を担っている。

オーズへの変身
今作最初の変身なのに全くワクワクしない。カッコよくない。「わざとなのは分かるけどぉ」という気持ち。まぁ、タトバへのカッコいい変身は「平ジェネFINAL」でやったからいいけどさぁ(ああゆう通常変身を丁寧に描写してくれるヤツ大好き)

平成ジェネレーションズFINALにて

ほんで、予算無いくせにガタキリバはやるんかい
同属性のメダルはオーズの方が劣勢ちゃうっけ?ウヴァは相変わらずおいしい立ち回りさせてもらってるな
メダル素手で割ろうとすな(プトティラ以外無理だろ)
みたいな事を思いながら初戦終了。

アンクの比奈ちゃん化
後藤らが映司の違和感に対して指摘してくる。
映司の異変に気づいている事に対して、アンクは「当たり前だ」と返答するが、頭がキレる主張というより、映司好き好き主張に見えてしまって可愛い(あとほんで比奈ちゃんも気づいたれ)
指摘を受けたゴーダは本性を表す(ほぼ電王。小林靖子リスペクト?)

そして、ゴーダから映司の死が告げられる。
その瞬間「してやられた」と思った。
「まさかここにきてのアンクの比奈ちゃん化か?」
その通りだった。
ゴーダを否定すればする程、かつての自分を否定する事にもなるという、なんとも皮肉な構造。
ここから徹底的な反転構造が始まっていくわけだが、劇場の私は「なんだこれ楽しいぞ!」と心躍らせていた。
一つ悔しかったのはこの段階になってもタジャニティの変身プロセスに気づけなかった事。(Twitter見てる感じ皆んなこの辺で気づいてたっぽいので)

比奈ちゃんパート
アンクと比奈のやり取り。本編とは全く違う関係性になっているのがまた面白いなぁというシーン。2人きりのシーンがまた見れて嬉しい反面、比奈ちゃんがしっかり描かれてるのがこのシーンくらいなの物足りないなと。今作はゴーダの登場によって、比奈ちゃんが蚊帳の外に追いやられてしまっている。尺の関係上仕方ないとはいえ「映司とアンクの2人の物語」になってしまっているのは、「復コア」の1番の不満かもしれない。(序盤に述べた通り私は3人の物語に価値を感じた人なので)
あと全員思っただろうけど誰か信吾さんの心配したれや

王とグリード
唐突にしてグリードたちの出番が終了する。
「てかそもそも王様なんでそんな強いねん」みたいな事を思いながらも物語の収束をメタ的に感じ始める。どうやら小説版では描かれているらしいけど、アンクと王のやりとりももっと見たかったなぁという印象。

伊達さんの「見切り発車と現場対応」ってセリフは伊達さん過ぎて安心したけど、後々「東映の現場の言葉」みたいなのを見かけて「お、おう」ってなった。

アンクとゴーダ
2人の関係性が絶妙過ぎる。互いが気に食わないながらも、目的の為に利用し合う関係。かつての映司とアンクのような不安定な関係。もう最早この2人の関係性で一年観たいまである。そんな2人の協力戦で古代王に立ち向かう。
良い。戦いのバランスがいい。誰が誰のために戦っているのか?というチグハグさ加減が観ていて楽しい。ラトラーターもやってくれる。

強過ぎるプトティラ
ほんでここで物議を醸しているプトティラ。MEGAMAXで坂本監督が「プトティラ出したかったけど最終回で割れちゃったので諦めた」的な事を言っていたのになんで今回出てきてんだという事だが、なんでなんでしょうね?
一応最終回を見返すと、映司側の7枚は割れてる描写あるものの、真木側の3枚は割れてる描写なかったので多分それかなぁ的な。(都合の良い解釈3)
ほんでプトティラ強過ぎて好き。ちゃんと最強フォームの風格を見せつけてくる。完全な最終回のリフレイン。未知の力に耐性ゼロの古代王。
本編も真木がいなかったら案外さらっと終わってたんかなとか思ったり。

グランド・オブ・レイジ

さぁ、プトティラの後はあれですね?あれやるんですよね?でもどうする?どうやって変身する??

ゴーダの暴走
ちゃっかり体取り戻すアンク。マジで一瞬だけやったけどスーツ見れてよかった。
ゴーダの欲望が暴走し、古代オーズのメダルを全て取り込み変身する。(まさかプトティラに変身したから暴走した?)

バースX
う〜ん、活躍少な過ぎるけどネット版あるからしゃーないなぁ。ダブル変身観れただけでよしとするかぁ

アンクと映司の融合
その瞬間「それだぁぁぁあ!!!」と心の中で大叫びした。確かにそれやってなかったわ!何故気づかなかった自分?それしかなかっただろ!
もう全部やってくれるやん。完結編としての満足度が募る。

映司本人
そしてここにきてようやく、本当の映司が登場する。が、思ったことが一つ「映司の演技のトーンやっぱちょっと高ない?」ここまで完璧だった渡部秀の演技に亀裂が走る。正直この演技の違和感で、重要過ぎるこのシーン集中しきれなかった。ぴえん。まぁいい、10年振りにアンクと再開したんだ、そりゃあ声も明るくなるだろう。(後々本編見返したけど感情的なシーンは割とトーン高かったかもしれん)
ここのシーンでアンクが泣くのも、オーズにしてはやはり甘過ぎるけど、最終回で命を手に入れたからこその人間らしさなのかなと思ったり。またアンクの涙をここまで温存してたのもずるいなと。

そして、タジャドルコンボエタニティへと向かう。唐突のオーズドライバーとあのメダルの登場はご都合過ぎるなぁと思っている。というかそもそもオーズドライバーが複数出てきてるの何?
一個のはずだろが

ダジャドルエタニティの画質いい画像見つからん

最終回のオマージュ
最終回の映司と同じ言葉を今度はアンクが投げかける。この再演も好き嫌いが分かれているようで、自分も安直な本編再現には結構冷めるタイプなのだが今回は割と好印象。
かつて自分がそうしたように、映司から全てを託されるアンク。あの時と立場が逆転しているという事は、アンクは今の映司の気持ちが誰よりも理解できる訳で、そんな中で放たれた言葉は、最終回と同じ言葉でありながらも、かつて映司から投げかけられた言葉へのアンクなりのアンサーだったのではないか。かつての映司も今の映司も、更には自分さえも肯定する言葉はあの言葉しかなかったのではないか、と。
そう考えると、最終回のアンクは映司の言葉聞こえてたんだなという解釈もできてまた。

そして変身音のボイス。
あれは僕も別に好きではない(というか最終回のやつもそもそも好きじゃない)けどまぁやるよなと。さらに、映司の幻影アタック。これに関しては正直やってんなぁという感じもしたけど、個人的にはギミックとしてアイデアが面白いなぁという方が勝ったので良し。

あと普通にライダーキックのエフェクトがカッコよくて好こ。


映司の最期
映司は最後、アンクを突き放す。どこまでも本編の反転構造。アンクと融合し続ければ延命出来たのでは?という事に関しては次のトピックで詳しく話すとして。3人で手を繋ぎ、少女の無事を知って満足した映司は、目を開けたまま息絶える。妙に迫力のある、説得力のある描写に圧倒される。希望にも絶望にもせず、そこにある事実として死が形容される。アンクは映司の瞼を下ろそうとするが、自分の右手じゃ出来なくて、信吾さんの左手を借りて閉じさす。アンクと信吾さんの関係性が間接的に透けてくる。
最終回の空を見上げる映司と比奈に対比するように、夕日を見上げるアンクと比奈で終劇。

「エニシンゴー本気出して~」

パンツ墓跡とゆったりAnything Goes
しんみり終了するかと思いきや、

「ズンッタカタカタカタカタカタカタカッ ユーカンザメダルスワンッ!ツーエンスリー!」OP映像と共に通常Anything Goes!が流れる。

いや、テンション上がるかぁぁぁーー!!


照明は上がり、見事お通夜劇場の出来上がり。
私たちは帰路に着いた。



少し脱線してもいいだろうか?
ここで、本編とMEGAMAXの話もしておきたい。

ただの思い出話なので「復コア」との決着をつけたい人は思いっきり飛ばしてくれて構わない。

MEGAMAX
まず私は「復コア」を観た後、MEGAMAXを観た。みんな観たか?是非オーズパートだけでいいので観て欲しい。
この映画、映司の時系列で言うと本編後なのだが、アンク目線だと「復コア」後になっているのだ。それがちゃんと反映されているように見えるのが凄い。いや、そう見えるように逆算して「復コア」を作ったのだと思うがそれが凄い。作中アンクが復活について言葉を濁しているのも、おそらく最終回を霞ませない為にあえて未来を提示していないのだと思うが、「復コア」の事があったから、に見えてしまう。何より綺麗なのは、「いつかの明日」という言葉が生まれた本作こそが、実は本当のいつかの明日であったという着地を見せる所だ。毛利さんは小林靖子から受け取ったバトンを、ちゃんと小林靖子に返しているのだ。誰よりも小林オーズをリスペクトしていて、独りよがりな完結にしなかった。うん、上手い、上手すぎる。
ただ「アンク復活の時に映司が死んでいるかもしれない」という想定は当時からあったのではないだろうかと私は思っている。勿論、小林靖子的には描くつもりは全く無かっただろうが、想定として、考えられる可能性だったというのが、私の勝手な見解だ。

あとこれは「復コア」全く関係ないのだが、オーズパートの冒頭10分ポセイドン戦が面白すぎる。導入として完璧なオーズ詰め合わせ、流石の小林靖子。アンクの「悪いなぁ、コイツがないと始まらないんだよ。オエイジ!」はオーズ過ぎる一文。そして唯一の坂本監督オーズ。アクションの爽快さと、スカのBGM、超合う。
とにかく「復コア」を観たならMEGAMAXを観ましょう。(復コア観てなくても観ましょう。めちゃくちゃ面白いので)

冒頭のポセイドン戦ではない

小林オーズ本編
あと、一応オーズ本編も軽く見直したんですよね。30話以降をさらっと。
個人的には40話くらいから最終回前47話あたりが好きなんですけど、特に挙げるなら、40話、42話、46話なんですね。

40話は、映司とアンクと比奈の3人のやりとりが本当に良い。河川敷のシーンは特に3人の関係性の不安定さが現れてるんです。
そして比奈の

ただ一緒にいる時間が積み重なっちゃったのかなって、嫌いとか好きとかより前に

という確信をついたモノローグですよ。優勝。
ラトラーターで敵を倒すのもポイントが高い回(プトティラ無双期なので)

これは43話だけど好きなので載せた。同じ河川敷


42話はアンクロストとの決着回。都合のいい神様にしちゃいけない回ですね。映司が比奈に対して「ごめんね、でもありがとう。」とただただストレートな言葉を伝えるのが個人的にはやられました。また因縁の敵アンクロストとの決着も「コンボソング→必殺技ドーン」とかではなく「暴走→しんみりしたピアノ曲→通常攻撃でメダルドーン」なのちゃんとこだわって作られてるのが伝わってくるんよね。


46話は映司とアンクの海での殴り合い回ですね。ここのやりとりはみんなご存知名シーンなのですが、個人的に好きなのはアンクがこっそりクスクシエに帰ってきて比奈と対峙するシーン。「この体俺によこせ」私はこのシーンを観て、オーズはアンクと比奈の関係こそ至高だと悟りました。あとはWバースのガメル戦。伊達&後藤の台詞回しも最高なんですね。

なんかテンション上がり過ぎて文調が「ですます調」になってしまった。失敬、失敬。

ちなみに、裏設定の話や、挿入歌のコンボソングが楽しい話、コンボという最強フォーム並列システムとメダル争奪戦システムが一年番組の最適解過ぎる話など、まだまだ話題は無限なのだが、余談はそこそこに。今回はこの辺にして「復コア」の話に戻ろうと思う。(好きなコンボの話とかもしたいねぇ〜)


そんなこんなでここまで「オーズ」結末を語ってきたわけだが、では「火野映司」個人としての結末はどうだったのか、というのを最後に考えてみたい。



「映司はいかにしてあの結末を迎えたのか」という部分にフォーカスした、自分なりの解釈


全てが決着し、映司はアンクを突き飛ばす。

本作最大の問題。この映司の行動の解釈によって、この作品の良し悪しが変わってくると言っても過言ではない重要なジャンクション。
簡単に言えば「アンクが映司の中に居れば、信吾さんの時みたいに復活するのでは?」という疑問。あのデカ過ぎる欲望を持った映司が、少女を助けたくらいで満足するのか、アンクの為に命を捨てたならそれは本編で指摘されたはずの自己犠牲なのではないのか?という疑問。

確かに、違和感が残る。
私たちの中にある映司像では解決しきれない部分があるかもしれない。現に作品絶賛派の私すら幾度となく解釈を上書きし続けている。
そんな考察の中、私は「オーズがもたらした映司の変化」を再度分解したいと考えた。その解釈を紐解く為、改めて一度、映司の死までのルートを整理してみる。

まずは、本編中と本編後の映司の差異をおさらいする(単純に作中における変化)

「楽して助かる命が無いのは、どこも同じだな」

本編映司の台詞だ。今作の映司の死に対する解釈として挙げられているのをよく見かける。それに対して「1話の台詞を引用するのは適切でない」という意見も見かける。その通りだ。映司はあの一年で良くも悪くも変わったのだ。


命を懸けるとはどうゆうことか、その事に対して本編中盤、映司は伊達から指摘を受けている。「お前は命すら懸けていない。前はちゃんと懸けてたのに」

映司はかつて、命を懸けて本気で世界を救おうとしていた。どこまでも届く腕、力が欲しいと願っていた。でも届かなかった。少女を助けられなかった事をきっかけに映司は乾いてしまう。

そうして本編の映司には、死に対する危機感が備わっていない。ただの助けるbotとして、死ぬつもりなく戦場にズカズカ踏み込んでいく。まさに都合のいい神様。無条件に助けてくれる神様。そんな神様に映司は成りかける。いや、もう成っていたのかもしれない。

しかし、最終回でアンクに手を離された映司は天から堕ち、みんなの手を取ることで、神様から人間になった。欲しかったはずの「どこまでも届く腕、力」は、誰かと手を取り合うことでどこまでも届く可能性に気づく。命をちゃんと懸ける映司になっていく。

少女を助けられなかった後悔は拭えた訳ではないが、かつての莫大な欲望はもう映司にとって絶対的な物では無くなっているのかもしれない。
素直に欲張る。普通に欲張る。
本編中盤「人が人を助けていいのは、自分の手が直接届く所まで」と言っていたが、またあの頃とは少し違った境遇で手の届く範囲に手を伸ばそうとする映司になっているのではないだろうか。



さぁ、今作の映司を見ていく。

「助けられるんだったら手を伸ばすだろ?」
映司は目の前の少女を守ろうとする。命を懸けて守ろうとする。仮面ライダーならそうするだろう。力があろうと無かろうと、きっとそうするだろう。

そして自身の死を悟る映司。
序章より、アンク復活の方法のヒントを得ていた映司は、何かしらの方法でアンクを復活させる。アンクにバトンを託す。アンクなら古代オーズを止めてくれると信じて。

もちろん、映司にとってアンクを復活させることが1つのゴールになってしまっていたところはあると思うが、この場においては最善の手を重ねた結果のアンク復活であると私は捉えたい。
あくまで死を悟ったからこそ、アンクの復活を実行に移した。

ここで映司は死んだ。少女を庇って死んだ
延命後色々あるが、結局これが全てだと私は感じている。前述の通り、映司は普通の人間になったのだから、条件が重なれば普通に死ぬ。そこに理由も何もない。命を懸けて戦っている以上、いつ死んでもおかしくないに決まっている。生き延びて当たり前という思想は些か都合が良過ぎるだろう。

ここからは想定外のゴーダによる延命。
ただの延長戦。
映司自身、既に死んでいる認識で他者と接していく

アンクと一体化し、アンクとの本当の再会。
少女を助けられなかった後悔等抱えているだろうが、アンクが復活したこと、それが嬉しくてたまらない様に見えた。映司自身、叶えたかった願いが叶った事を告げている。


そして映司はアンクを突き飛ばす。
少女の無事に満足して目を閉じる。


整理し直してみたがどうだろうか、
ごちゃごちゃ並べてしまったが、複雑そうに見えて意外と答えは単純で、多分「映司はオーズを通して人間に成り、アンクを好きになり過ぎた」だけなのだろうと、私はそう思った。

「とにかくみんなを救いたい」その願いは変わっていないだろう。映司としてのアイデンティティは何も変わっていない。ただし、そんな願いの上に「アンクを救いたい」という願いが出来てしまった。「みんな≦アンク」になってしまった。映司らしからぬ思想かもしれないが、この私情による欲望の順列、もう紛れもなく人間である。めちゃくちゃ人間である。ただただアンクを救いたかった、それが叶った、それはもう大満足であろう。

「やっと届いたんだ、俺の手が」
少女を助けられなかった所から始まる「オーズ」の物語は、少女に手が届く事で幕を閉じる。届いてしまったが故に幕を閉じる。
最終回を踏まえるなら、差し伸べられた手を掴み、手を取り合う事で少女に手が届くプロセスが描かれていればより納得感は高かっただろうが、レジスタンスという設定が映司1人で戦っていない事の象徴なのだとしたら説明はつく。



やりきったのだ。すべて。

最終回、空を落ちる映司はアンクに「目覚せ!死ぬぞ!」と起こされ、こう返す

「あぁ、いいよ、もう無理だ」

役目を終え、死を悟る。
最終回で映司は同じ選択をしているのだ。

アンクの中に居ることもできたとして、
重荷になってまで足掻きたくない、という今際の際最後の我儘。
もうめちゃくちゃ勝手なのだ、我儘なのだ。
疑いなく「オーズ」なのだ。

だからそんな映司に文句を言える筈がない。
あの火野映司が超個人的な欲望を持つことができて、それを叶えて満足して、人間として旅立てたのだから、これ以上の決着はない。

それをアンク達も分かっていた。
だからこそ、映司の我儘を彼等は受け入れる。
映司は愛されていたのだ。
これは映司の最後の我儘であり、最後の罪。

映司は確かに変わった。人間になった。
でも「自分が生き残る事がアンクやみんなの為になる」という考えには辿り着けなかった。彼に「成長」という安直な称号は与えられなかった。
結局映司は自分がどれだけ愛されていたか、最後まで気づけなかったのかもしれない。

これらが、私の「映司の死」に対する現状の解釈である。


こうしてまとめて改めて、まだまだ解釈の余地があると思わされる。
全くもってまとまっていないし、反省しかない。
まぁ1回目の視聴でここまで綴れた事に関しては良しとしたい。
キャラクターを振り返ってしまったので改めて「復コア」を観るのがしんどい所ではあるが、少し時間を空けて向き合っていけたらと思う。(普通に視聴する手段が無い)



最後に

本編オーズが「欲望」を明日への希望として提示しているのに対して、今作は「欲望」を負として捉え過ぎているという意見を見かける。確かに明るくはないし爽快感もない。だが、希望が欠落していたとは解釈したくない。
そもそもヒーローものの時点で、一般人だろうが誰かが被害を被っている。最終的にヒーローが勝とうと負けようと、完全にハッピーエンドなんてものは存在し得ない。しかしそんな事を言い出してはキリがないのも事実。だとすれば、主人公視点で考える他ない。死んだ本人が満足していたのならば、それはある種のハッピーエンドでもあるだろう。少なくともバッドエンドな訳がない。人はいつか死ぬのだから、満足して逝った映司の死をバッドエンドと称してしまうのはどうも悲しすぎる。人生というものに救いが無さすぎるから。だから私はこの結末を前向きに捉えたって構わないと、考えているのだ。

とは言いつつも、映司を殺した事に対する怒りも肯定したい。死んでほしくなかったと嘆くのもまた欲望。明日を求める欲望。明日を作る活力なのだから。

「今日という日を明日にすることさえ欲望だ」

賛否両論、喜怒哀楽。この作品を受けて渦巻くこの欲望の混沌こそまさにオーズ「復活のコアメダル」そのものなのかもしれない。


まぁねぇ、たしかにね、
将軍と21のコアメダルみたいにバカみたいな欲望で圧倒するオーズも見たかった。明日のパンツに明日の希望を見たかった。爽快なあのオーズをまた見たかった。分かる、全くその通りだ。

しかし、オーズの続編を作るならこの道しかなかったと私は思っているし、だったら「そもそも続編などやらない方が良かった」という声も聞こえてくるが、それに関しては10年経ったからもういいんじゃないかと言ってあげたい。

「蛇足でしかない?」
うん。そりゃそうだ。だって最終回が良過ぎるんだから。靖子オーズが良過ぎるんだから。もう間違いなく続編決定の時点で詰みだったのだから。
でも、リアルタイム勢の一方的なエゴで言うなら、あの爽やかな未来に希望を残したオーズは10年間十分味わった。
蛇足だろうと10年ぶりにオーズが観れるなら、ちゃんと結末も受け入れようと。そう思えた。

これは10年経ったからこそ許せる蛇足。
言うなれば「めちゃくちゃ満足度の高い蛇足」だった。



賛否両論あったのかもしれないが、絶賛している人がこうして存在している事、運営に届いていればいいなと思う。
今回の世の反応を見る限りは少し難しいかもしれないが、今回のような作品作りをまた見せてほしいと私は心の底から願っている。

という事で、私とオーズとの戦いはここで一区切りだ。

長々と綴ってしまって本当に申し訳ない。
15000文字、もう論文だ。舗装されていない砂利道論文だ。後半戦なんて特に壊滅的な文節だったであろう。
そんな足場の悪い戦場を生き抜き、もしここまで読んでくれた猛者がいるのならば、それはもう是非友達になって欲しい。いや、なってくれ、飯を奢らせてくれ。
いや本当に、私のただの自己中に付き合ってくれた事、感謝の形に変えさせてもらいたい。

ただ、こうやって綴ってみて「自分が思ったよりオーズが大好きだった」という事に気付けた。それが嬉しい。
なんだ、もはや「嬉しい」を勢いでただ羅列しただけの文章じゃないか。
「そんなにオーズが好きになったのか、自分」

私はまだ「復活のコアメダル」を一回しか視聴していない。今後の視聴によって解釈が塗り変わる可能性も大いにあり得る。
また、序章も未視聴。さらにはバースもまだ控えている状況。

少し間をあけて、もし私の心情に変化があるようなことがあれば、その時また改めて追記できたらと思う。



では、また。




あ、最後に一つだけ、

アンク復活の代償が映司の命なら、キャストの為とはいえ他のグリードがほぼ無代償で蘇ってるのは本当に良くなかったと思う。マジビンタ


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