やりやがったな米津玄師。情緒をめった刺しにされたオタクの「カムパネルラ」考察



 もはや「米津玄師」とは誰かを語るまでもないし、8月5日に公開されたこの曲「カムパネルラ」が良い曲であることを反論する者もそんなにはいないだろう。

なんでこんな皆が良いと言うだろう曲の話をわざわざしだすのか。それはこの曲の事を語った米津玄師のインタビューにある。

カムパネルラに対して歌っている曲ではあるんですけれど、歌っている人はジョバンニではなく、どちらかというとザネリというイメージです。ザネリはいじわるな子で、カムパネルラが死ぬ直接的な原因になってしまった人。
(~中略)
いろんな選択が誰かの死の可能性につながっている。ザネリはそれを目の当たりにした人間だと思うんです。カムパネルラの死に直接的に関わってしまって、それを引きずりながら生きていく。それが自分の性質としての自罰的な部分とリンクしたというか。


ザネリか~~!!ジョバンニではなくザネリときたか~~!!!

もう、こういう所が【米津玄師】という感じがするんである。それも初期の頃、【ハチ】名義でなくなりはじめたころの米津玄師の感じが。大衆ではない、少しハズれた少しスレた少しグレたところの少年感というのは過去の曲でいうならば「リビングデッド・ユース」であるとか「駄菓子屋商売」であるとか「しとど晴天大迷惑」であるとかなんかそんな辺りから『米津玄師ってそういうとこあるよね』感が漂うものがあった気がする。「カムパネルラ」は意外と、米津玄師回顧勢にとっても馴染むナンバーなのではないだろうか?

ザネリをイメージして歌ったというこの「カムパネルラ」、深読みしようとするとマジで深い。これはもう、深々とオタクの情緒をブッ刺して、ザネリとカムパネルラが落っこちた川など目じゃないほどの水深で引きずり込まんとしてくる1曲、なのかもしれないんである。その事を滅茶苦茶語りたくなったけど同じノリで一緒に盛り上がってくれる人がちょっと周りにいなさそうだったのでこうして衝動でキーボードをガタガタいわせている次第だ。それではお聞きください。


"あの人の言う通り"の「あの人」はおそらくジョバンニなのではないか

 というのも、『銀河鉄道の夜』という物語は川へ落ちたザネリを助けて飛び込んだカムパネルラはついぞ見つからず、カムパネルラの父である「博士」から自分の父がもう今日にも帰ってくるだろう、と知らされそれを伝えに母の元へ行こうと走って行くジョバンニの描写で終わるのだが。

これが物語でなく現実であったならばこの後もジョバンニを含めた人々の日々は続いて行くことになる。すなわち、『カムパネルラの死・喪失』を突きつけられたまま生きて行かなければいけない、という事だ。その無情な事実に対して"いつになれど癒えない傷"を抱えるのはカムパネルラの父母もジョバンニもザネリも他の学校のクラスメイトも多かれ少なかれ同じではあるが、"あの人の言う通り"とザネリに言わせる相手はやはりジョバンニであるしかないのだ。最期に2度と経験できそうにもないうつくしい列車旅行を共にした善き友は、自分の父をネタにして自分をからかってくるような奴を助けて結果、死んでしまった。となれば良くも悪くも凡庸な少年として書かれたジョバンニがザネリをその後責めるだろう事は想像に難くないのだ。

"あの人の言う通り わたしの手は汚れてゆくのでしょう"とあるように、「おまえがカムパネルラを殺したのだ」くらい言ったかもしれないのだ。ジョバンニは。だって彼もザネリも学校に通うような年頃の少年であり、学友が亡くなるなどという出来事はまだ年若い柔らかい心にそりゃあ深々と傷が残って当たり前だ。

そのジョバンニの言葉を受けて、この「カムパネルラ」におけるザネリの時間軸が何時かは定かでないが、自分の軽率な行いでひとを1人死なせたという結果を噛みしめ、悔い、それを背負って生きていく。まさにザネリの自罰を示すフレーズである。強いて救いがあるとすれば、この曲の中におけるザネリはこうして"黄昏を振り返り その度 過ちを知るでしょう"と言える人間であるという点だろう。

自らを省みて何かしらの糧にしていくのであれば、カムパネルラの死にはせめてものの意義を持たせられ、ジョバンニも許しはしないまでも、"終わる日"までのいつかには何か区切りであるとか昇華できるかもしれない。少年たちの幼い感情らしき部分をチラつかせつつも、そういう希望を持たせる歌詞になっているのが、どことなく米津玄師らしい。


いやしかし歌詞を読み解いていくほど『遺されず残された』ザネリの視点がつらい

 「カムパネルラ」とくれば当然あのジョバンニが同乗した夢のようにうつくしい銀河鉄道の描写の数々が浮かぶわけだが、この米津玄師の「カムパネルラ」にちりばめられたいくつかのモノは絶妙に銀河鉄道の情景を歌っているようでそうではないように見えるんである。それによって『この曲はジョバンニの視点ではないよ』というのを歪曲的にも示しているのだ。

最も『これはジョバンニの視点ではない』ことを示しているのは"タールの上で 陽炎が揺れる"というフレーズだろう。

「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。
「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。

石炭を焚かずに走る汽車にカムパネルラと乗ったジョバンニであるならば、彼の心情を歌詞に書き起こす中で「タール」が出てくるのはいささか不自然である。

だから、"リンドウの花"も"真白な鳥"も"歌う針葉樹"も、これらは学校に通う最中に巡る四季の中でカムパネルラも含む学校の仲間らと共に見たザネリの思い出であると推測でき、その後に"波打ち際にボタンが一つ"と続くように、幻想的な曲調とは裏腹に面影や思い出のイメージはとても現実的なものであったりする。

ジョバンニは銀河鉄道に乗ってカムパネルラと最期に過ごした時間がある(その真実性はともかくとしてジョバンニの主観としてはそうである)。近い未来にそのことでかえって苦しむ時期もあるかもしれないが、あの途方も無くうつくしい旅情に浸り、縋る余地がジョバンニにはあるのだ。

しかし、ジョバンニ以外の全ての人間にはそれが無い。もちろんそれはザネリも同様に。ザネリからしたら何一つ幻想が挟まる隙間は無く、川へ落ちた事件直後に彼が記憶できるものといったら【自分を助けようとしたカムパネルラの、己を押した手の感触】くらいのものだ。なのでザネリがカムパネルラに対してできる最大のことは"終わる日まで寄り添うように 君を憶えていたい"くらいのものでしかないわけだ。

「カムパネルラ」という曲がまとうやりきれなさ、どこか滲み出る辛さは其処にある。美化さえもし切れない現実的な思い出を再生する中にしか、ザネリのカムパネルラは存在していない。「銀河鉄道の夜」をメタ的に知っているからこそ、知っていればいるほど、この『ザネリの知らなさ』の落差にものすごく叩き落とされる心地がするというわけだ。ジョバンニの視点だったらもっと幻想的な美しいものへと歌詞の言葉は変換されることだろう。でもそうはならない。そうはならないんだ。だから辛くてしょうがない。


「カムパネルラ」はぶっちゃけ米津玄師の「銀河鉄道の夜」二次創作と言っていい(よくないかもしれない)

 ……さて少し話を戻して。歌詞の中にある情景は、重ねて言うが『一瞬それっぽく見えるが絶妙に「銀河鉄道の夜」からハズれている』のである。

これ、よく考えるとちょっとおかしいんである。だって普通に考えたらザネリは銀河鉄道を知らないのだから。なのにどうしてこう、"リンドウの花"のように同期する箇所がありながらも"歌う針葉樹"のようにズレが発生する(「銀河鉄道の夜」に『音と樹』の描写はあるがあちらはリンゴ=落葉樹の樹であると思われるため)箇所も存在するのか?これに対しひとつの仮説が浮かんだ。

ザネリの頭の中で、知ってる限りのものを代理であてはめて「銀河鉄道の夜」を再現しようとするとああなる、という事なのではないのだろうか?

―――この「カムパネルラ」のザネリは、ジョバンニから「銀河鉄道の夜」のあの旅路を聞かされているのではないか?

経緯がどのようなものだったのかはわからないが、多分親しみを込めた思い出話というよりは、「これほどのうつくしいものを遺してカムパネルラはいなくなってしまった」という痛みをぶつけるためのものだったような気はする。個人的に。

 もうずっと前から「米津玄師ってとんでもないな」という事を理解している人は多いことだろうが、「カムパネルラ」はそれを再度思い知らせてくる1曲だ。4分ちょっとの楽曲というとてもコンパクトな形で、文学作品のおしまいのその後、その解釈のひとつ。カムパネルラという仲立ちを喪ったジョバンニとザネリの間に在るものとそれらを経てのザネリの胸の内を描きあげてしまうその鬼才ぶりに物書きのはしくれとしては【米津玄師このやろう】と嫉妬するしかないんである。

近年、なんか学校教育の分野では教科書に載っているおはなしの「その後」を書いてみよう!などといった指導があったりするらしいが、その際この「カムパネルラ」を用いてはどうだろうか。模範解答だと思いますこれ。


結局のところ「カムパネルラ」を人類皆視聴してってことなんですよ

 今までも米津玄師はすごすぎるので「とりあえず曲を聞いておいて損はないよね」くらいのものではあったのだが、「カムパネルラ」はそれを越えて「とりあえず聞いた方が何かしら得るものがあると思うので聞いておけ」という曲になったのではないかと思う。それこそ『生きてるだけで褒めてくれる』『自己肯定感』といったものに心の癒しを求める人にとっては、そこが癒しになるだけの「なにかに肯定されゆるされていたい」という無意識でうっすらとした自罰感に対して、寄り添い同調したうえで「背負って、それでも生きていていいんだ」と支えを与えるような、そういう希望を抱かせる曲である、のではないだろうかと感じている。

カムパネルラ。

曲の最後、呼びかけるようにして歌われるこの6音に込められた感情の量があまりに膨大すぎるのもまた辛い。何が辛いってこの曲はザネリを歌っているのでカムパネルラを呼んでいるのはザネリなわけだが、これだけのものを込めて呼んだところで、多分ザネリの脳裏にカムパネルラの姿が浮かんでなさそうな気がしてしまったからだ。これがジョバンニだったら「銀河鉄道の夜」で描かれたどこかしらのカムパネルラの顔が浮かぶのだろう。でもザネリの中のカムパネルラはとびっきりの特別の無い、日々の中のカムパネルラだけが在る。応えは返らない。だからひとりで抱え、消化していくしかないのだ。 とてもつらい。もう「カムパネルラ」の感想はこの一言に収束してしまうんである。とても、つらい。


 こんだけ書いたけどやっぱり当分「このやろう米津玄師。米津玄師このやろう」という感情からは逃れられないっぽいなという気がしました。感情をかき乱されたオタクより、感情をかき乱されたいオタクへ「カムパネルラ」はいいぞ、とお伝えしたい。それを今一度主張してこの〆としたいと思います。ありがとうございました。

やっぱ米津玄師って、いいよな。

えっサポートしていただけるんですか?ほんとぉ?いいの? いただいたサポートはものを書くための燃料として何かしらの物体になります。多分。