おれが俺がの「が」を捨てて、おかげお陰の「げ」で生きよ。

社会人一年目のときに、直属の上司から頂いた一言。
一方的に、「感謝が本当に足りないんだよね。すべてが当たり前だと思っているから駄目なんだよ」

と一方的に言われたときは全くわからなかった。言葉とかその背景はかなり理解ができたけど、本当に意味がわからなかったんです。

社会に入るときは、自分をプレゼンスすることを中心に生きて来てて、そこから急に入社して二ヶ月目、「感謝の気持ちが足りなすぎる」と怒られる。
本当に意味がわからなかったので理解できなかった。笑

「おれがおれがのがをすてて、おかげおかげのげでいきよ」
かなり深いと思う。
他の人の行いを観たときに、この人は人に親切にしているけれども、結局は「自分が自分が・・」で生きている人なんだとか、あの人は勿論自分の事を大事にしているけれども、それと同じくらい人の事も大事にしているし、「おかげおかげ」で生きている人なんだと。

こう考えた時、私はどっちで生きているのだろうか。
そして、個人の力が大事になるこの時代でどうのように生きていいくのだろうか。そんな問いが自分にかけるようになった。

流石に25年を生きてきて、もう一人で生きてるなんて思わない。楽しい経験をすることも、悲しいこと経験も、嬉しいことも、悲しいことも、流石に一人で生きているなんて思っていない。

だから、自分は何もできない生き物である。つまり、仲間の力を借り協力してもらって始めて生存できるのが人なのである。
「自立し、人を敬い、仲間と協力でき、きちんとコミュニケーション」
出来る人に成長するように関わることが教育の目標であると共有している。

「おかげ」だからこそ周囲の人の生活にどんな貢献が出来るのかを考え、逆に自分への協力に感謝せねばならない。自分も主張するけれども、他者の話もきちんと聴ける人でなければ、仲間との協力関係は生まれないのである。

ここまで考えを進めると必ず突き当たるの
「自分はどのように生きているか」
ということである。人に貢献は求めるが自分は人に貢献出来ているのか。
自分の我を人に押し付けてはいないか。
心の底から「おかげさま」と言える自分がいるのか。
考えれば考える程、自分の「業」に唖然としてしまう。
「人様のことを観て言っているくらいでは、まだまだ真理が分かっていない自分がいる」
ということを自覚した瞬間、
「おれがおれがのがをすてて、おかげおかげのげでいきよ」
と言葉が頭がよぎる。

俺が一番という考え方はもう持つことはできない。私が一番幸せなのが、一人勝ちではないことがかなり理解できる。その分、理不尽な一人負けもいやなのだ。別に社会主義が好きなわけでも、資本主義が好きなわけもないのだけれども。
私は多くの人の思いを受け継ぎ、多くの人に還元ができる。そういう人間でありたい。

そして、この言葉をくれた先輩は現在どのような仕事してるかわからないですが、いつまでも最高で不器用な先輩でした。本当に意味がわからなかったのですが、いまではかなり好きな言葉の一つです。
ありがとうございます!


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