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幸運の親子丼

このnoteを読み始めてくださったあなた。
今日の占い、あなたの運勢はどうでしたか?


ありがとうございました。
知るも知らぬも答えてくださったあなたは、間違いなく優しい人です。


山本英晶と申します。ひであきと読みます。
ひでまさ、えいしょう、どちらもいい読みなので、それはそれでだいじょうぶです。
妻と娘の三人で、慎ましくしたり少し贅沢したりして、暮らしています。
そんな僕には、36歳になったいまでもよくわからないことがあります。

「運」


ラッキーアンラッキーの、運です。
なんですかね、これ。
たとえばここに運にまつわる諺を並べてみますと、

思い立ったが吉日

犬も歩けば棒に当たる

人事を尽くして天命を待つ

怪我の功名

開いた口へ牡丹餅

当たるも八卦当たらぬも八卦

運を待つは死を待つに等し

運は天に在り

勝負は時の運

果報は寝て待て

言うとることがバラバラすぎませんか。

古の偉い人たちは、いままでなにをやっていたのか。
困ったものです。
冷静にそれぞれの内容を見てみると、
・行動すべき派
・待機すべき派
・どうしようもない派
そんな傾向があるようにも見えますが、どれに偏るでもなくバラバラです。
ちなみに僕は「開いた口へ牡丹餅」が好きです。
一度は出会ってみたいシチュエーションです。

#元気をもらったあの食事 の企画で審査員をされる古賀史健さんも、運・不運について、以前noteの記事を書いておられます。

"運と呼ばれるものの正体が縁であり、その縁が紹介によって生まれるものであるならば、運とはひとえに「目の前のあなた」とどう向き合うかによって決まるものなのだ。"

もっともらしく、説得力があります。
しかしみなさん、古賀さんのこちらのnoteをご覧ください。

運よくあのカレーに至った時点で、ご縁がいったんどっかいっちゃってます。


ご縁がなかったから出会えたカレー、とも言えます。
これでさらに謎が深まってしまいました。
運だけに。
うーん。

「自分は運の悪い人間だ」
そう思ったことはありませんか。僕はあります。
僕の思春期は「なんて僕は運が悪いのか」という憐憫が、ずっとついてまわりました。
科学的も何も根拠もなく、なぜそう思い始めたかも、思い出せません。
そんな地獄から、僕はあるものを食べて解放されたのです。
それは、一杯の親子丼でした。


高校2年生の時、友人二人に誘われて高知へ旅行に行くことになりました。

遺書を書きました。

友人たちの名誉のために、心中を目的とした旅行ではまったくなかったことを明記しておきます。
駅から特急に乗り、降り、遊び、帰る。それだけの旅程。
でも僕は、それくらい自分の運の悪さが恐ろしく、友人の知らぬうちに一人勝手に覚悟を決めて出立しました。
あぁ、瀬戸大橋を渡る特急の窓から見える、薄曇りの風景。暗い。
僕は不安をさらに加速させ、景色を見るふりをして、ドーンと橋が落ちたときのシミュレーションをひとり静かに繰り返しました。

命辛々(まったくそんなことはない)四万十川下流の駅へたどりつくと、「神社好きなんよね」などと適当な理由をつけ、宿への道中にあった神社に友人たちを連れ込みました。
ちゃりん がらがら ぺこ ぺこ ぱんぱん




目を開けたら、左右に友人はもういませんでした。

ぺこ

一人おみくじを引きました。
もし凶が出たら、明日から僕だけ一人宿で本でも読んで過ごそう。
そう思っていました。
が、結果はなんと大吉でした。
こんなん久しぶりに引いたぞとドキドキして中を開くと

旅行:吉日を選べ

なう。


(当時このスラングはまだない)
諦めた僕は、財布をバリバリと鳴らしてそのおみくじをしまいました。

翌朝。
前日の暗い雲は風に飛んでいき、よく晴れていました。
ならば今日は吉日だ!ということにして駅でレンタサイクルを申し込むと、三人は沈下橋へと四万十川の上流に向かって漕ぎだしました。
季節は、秋でした。
コスモスが揺れ、空は高く、それでも日差しには夏が居残っているような、そんな日でした。
川沿いの道は川と同じ形でぐねぐねとして、車どおりはほとんどなく、三人はえっこらえっこら自転車で上っていきました。
なんとかたどりついた沈下橋では、三人で子供のようにはしゃぎ、セオリー通り(なんのセオリーでもない)全員落ちかけました。
あても予定もない、大したこともやらない旅。
なのになぜかそのときは、川や木のざわめき、そして友人の話し声に耳が傾いて、不安はどこかに行ってしまっていました。
清流に落ちかけたのに。

予定を立てない旅で困るのは、飯です。
初めての地では、何がどこにあるやらわかりません。
当時はスマホなんて便利なものはなく、ガラケーの小さな画面に写るiモードのやけにパステルな色合いの地図画面とわかりやすそうでよくわからない地元のガイドマップでなんとなく見当をつけながら、腹ぺこの体を重力加速度にまかせて、行きとは違う道を下っていきました。

目星をつけていたお店はカーブを曲がっていく途中にあって、僕たちはうっかり一度通り過ぎてしまっていました。
土木事務所の敷地内で、食事の出るお店が併設されていると、一見わからなかったのです(失礼)。
その佇まいも含めて、いつもの僕であれば、街まで一気に下って何らかのチェーン店でも探そうと提案したと思います。
しかしその時は、空腹もあってか、あるいは通り過ぎてさらに下ってしまった坂道を上りなおしたもったいなさからか、そそくさと自転車を店先に停め、すんなりと店の扉をあけました。

こじんまりとして、たくさんは席のない店内。
なのに真ん中には、とても大きな水槽がどんと設置されていました。
ペットショップや水族館のように、魚名の札は貼ってありませんでしたが、釣魚図鑑を愛読していた僕には、中にいたその魚がわかりました。
アカメ
釣魚図鑑で幻の魚として紹介されていたあのアカメが、目の前を悠々と泳いでいる。
しかも一匹ではなく、三匹も。
すげーなと見ていると、友人にはやく席に着くよう促されました。
お店の看板メニューは、四万十川の鰻でした。
四万十川。天然。鰻。
Yahoo検索をしなくてもわかるおいしいやつ。
しかし、やはり高い。
それを頼めるほどの手持ちが僕にはなく、泣く泣く諦めました。
指をくわえてメニューを見渡すと、親子丼の文字に目がとまりました。
親子丼なら、そこまで旨くもなくてもまずくはなかろう。
運の悪さを補う能力を発揮して、それを頼みました。
友人二人は鰻を頼んでいた気がしますが、見えないふりをしました。

幾ばくかして、どんぶりがやって来ました。
小さくいただきますと言うと、がぱ、と蓋を開けます。
出汁、卵、玉ねぎの香りが、湯気とともにすきっ腹にすぅっと届きます。
ふわり、とろりとした卵。
鮮やかな緑の三つ葉。
固めでおいしい新米のごはんが出汁を吸えば、それだけでもう絶品でした。
そこへふわとろの卵が混ざるのです。
どうなるか。
うまい。
卵に隠れていたたっぷりの鶏肉は、噛み応えがありつつもほぐれるごとに旨味があふれます。
そこへごはんとふわとろの卵が混ざるのです。
どうなるか。
さらにうまい。
友人の鰻に目もくれず、がつがつと食べました。
「うまそうに食うな」
「やらんよ」
「鰻と交換」
「せん」
「鮎と交換」
「いつの間に頼んどん、せん」
「ずるい」
「ずるうない」
そんな僕たちに、女将さんが話しかけてくれました。
思春期をこじらせた人見知りは、その時はどこかに行きました。
「めちゃくちゃおいしいです」
「駅から自転車を借りてここまできました」
「あの魚、アカメですよね。初めてみました」
「釣りですか、あ、網で」
テンションの高い僕を受け入れてくれる、優しい女将さんでした。
あっという間に平らげ、ごちそうさまでした、また来ますと言って、僕たちは店を出ました。

帰る前にお店の外から撮った写真が、まだ残っていました。


生きてると、いいこともあるんだ。
そんなことを思いながら写真を撮ったのを、覚えています。

旅を終えた後、僕は以前のように運が悪いとは思わなくなりました。
しんどいことは変わらずたくさんあったと思います。
でも、財布のおみくじをみて、平気だと言い聞かせることができました。

そのおみくじはどこで結んだか、もう手元にはありません。
でも、時折あの親子丼を思い出して生きていけている僕は、幸運だなぁと思います。
あれから20年ほどたちますが、結局お店を一度も再訪できていません。
調べると、お店はまだあるようでした。
これも幸運です。
いつか家族を連れて、そのお店で親子丼を一緒に食べたいと思います。
親子丼だけに。
親子で。


お読みくださり、ありがとうございました。
悪いことはさらに悪いことを呼ぶ、なんていったりします。
一方で、人間は繋がりを勝手に作る習性もあります。
たとえば、音韻修復。
音楽を雑音などで途切れさせても、人間の脳はその間に鳴った音を作り出し、修復することができます。
点描画も、人間が点を無意識につなげて絵に見えるものでしょう。
不運も、そういう感覚のひとつなのかもしれません。
思春期特有の何かがそう思い込ませ、たまたまあの旅と親子丼で解除されたのだともいえます。
ですが、旅も食事も、自分でやろうと思って、選ぶものです。
「自分で選べる何か」が、自分のひどい思い込みを解いてくれるのならば、それは救いだとも思うのです。

古賀さんのカレーも、よく読めばご縁の中で古賀さんなりの最善を尽くしたのと同じように熟慮を重ねて出てきたカレーですし、僕のあの旅も、友人が連れて行ってくれたという縁があったものでした。
親子丼、わけたらよかった。
「どうしようもないものばかりだとの前提に立ち、現れた縁の前では行動できることがあるなら全力で行動し、あとは待機したらいい。そしたらたまに幸運が来る」
たくさんの諺と古賀さんの言葉を、こんな感じでひとつにうーんとまとめて、終わりたいと思います。
運だけに。
うーんと。


(了)

#元気をもらったあの食事

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