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【礼拝ノート】「原罪」とは何か:創世記3章8~13

最初に

この記事は礼拝で聞いた話を個人的に解釈したものですが、私はキリスト教徒でも神学者でもありませんし、神への信仰心は小指の爪の先ほども持っていません。また、私はイエス・キリストを「神の子」とは考えておらず、一人の人間であり哲学者であると考えています。
そのため、ここに書かれていることはキリスト教の教義やキリスト教的な解釈とは異なるものである可能性があります。
というか「イエス・キリストは神の子ではなく、ごく普通の人間の哲学者」と考えている時点で正統派キリスト教の観点からは「異端」なので、キリスト教のスタンダードな考えではないとお考えいただく方が良いと思います。
「聖書を元ネタにしたなにか」という感じでゆるーく受け止めてください。

創世記について
創世記は聖書(旧約聖書)の最初に掲載されてるセクションです。天地創造から始まり、人類創造、失楽園、カインとアベル、ノアの箱舟、ソドムとゴモラの滅亡など、有名なエピソードが盛りだくさんなので「聖書を読んだことはないけれどその話は知っている」という方も多いでしょう。
創世記の内容はマンガやアニメなどの元ネタとしても使われることも多いので、聖書のなかでは日本人にとって最も身近な存在といえるかもしれません。

聖句

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

創世記3章8~13

前後や背景

神によって作られた最初の人類アダムはエデンの園と呼ばれる楽園に住み、その地を耕し守るようにと言い渡されます。その際、エデンにある全ての木から実を取って食べてもよいと言われますが、唯一「善悪の知識の木」からは決してとって食べてはいけないといわれます。
その後神は、アダムの肋骨から「女」を作り出して彼の連れ合いとします。二人は裸でしたが、それを特に恥じることもなく、楽園で暮らしていました。

というのが創世記2章の話で、3章はこの続きです。
3章ではいきなり「蛇」が出てきます。2章の最後から3章の間までどのくらい期間があったのかとか、女が作られた後の二人の生活はどんな感じだったかみたいな記載は特になく、唐突に「主なる神が造られた~」です。いきなりだなぁ、オイ。
内容は蛇が女に「YOU! 知識の木の実食べちゃいなYO!」と話し、女が「でも~」と言いつつも食べ、アダムも女に誘われるままに食べ、裸であることを恥じるようになったり神を恐れるようになったことから善悪の知識の木から食べたことが神にバレます。

この後、神は女には産みの苦しみを与え、アダムには生涯食べ物を得ようと苦しむと宣言し、罪を犯したアダムと女を楽園から追放します。
キリスト教では、すべての人間は生まれながらに「原罪」と呼ばれる罪を背負っているとされていますが、この「原罪」が生れたのがまさに創世記3章8~13の部分です。

責任転嫁という罪

私は当初、原罪とは「神の命に背いて知識の実を食べたこと」だと思っていました。神というと「ソドムとゴモラ」「ノアの箱舟」などでみられる「教えに従わぬ者を罰する存在」というイメージがあったからです。
このイメージは一面では正しいと思いますし、同様のイメージを持つ人は多いのではないかと思います。ただ、礼拝で牧師の話を聞きながら聖書を読んでいると「どうやらそうではないのではないか」という気がしてきました。

そう感じたのは、このエピソードの中に繰り返し出てくるモチーフが「責任転嫁」であることに気づいたからです。
もっともわかりやすいのは、神の質問に対してアダムは「女が木から取って与えたから食べた」といい、女は「蛇が騙したから食べた」という部分です。
確かに、女がとって与えなければアダムは食べることはなかったかもしれないし、蛇が女を誘惑しなければ女も食べなかったかもしれません。しかし、蛇は女に食べることを強制したわけではありません。「食べなければ死ぬぞ」といったのなら「騙された」と言えるでしょうが、蛇の言ったことはむしろその反対で「食べても死なない」であり、実際に女は食べても死ななかったので蛇は女を騙したとはいません。
また、一文ですまされているのでどのような状況であったかはわかりませんが、女もアダムに食べることを強制したわけではないと思います。
つまり、きっかけは蛇であり女であったけれども、最終的に食べることを選んだのは自分の意志です。何と言われようと「私は食べません」と言えたはずなのに、自ら選んで食べたのです。

さらに、女が知識の木の実を食べようか悩んでいる部分には「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」とありますが、この時点ですでに責任転嫁と言い訳が始まっています。
木は動いたり話したりしないのだから、自分を食べるように唆すことなんてできません。自分の中に湧き上がってきた欲望を正当化するために「木が唆した」と考えているのです。女の方が重い罰を受けた(ように思われる)のは、女の方が責任転嫁、自己正当化の罪を犯した回数が多かったからかもしれません。

「原罪=責任転嫁」ではない

では「原罪とは責任転嫁をしたことなのか」というと、これはちょっと違います。私の考えでは、責任転嫁は単なる結果であって、責任転嫁そのものが原罪ではありません。

創世記2章では、アダムと女は裸であったが互いに恥じることはなかったとあります。「ありのまま」の自分を受け入れ、愛し、相手の「ありのまま」も受け入れていたか、ありのままでいることが正しいのだという価値観でいたからこそ、それを恥じることなど無かったのです。
しかし、知識の木の実を食べた後は「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあります。
知識の実を食べる前のアダムと女は別に目を閉じていたわけでも盲目だったわけでもありません。このことは「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」という記述からわかりますから、この「二人の目は開け」は物理的に目が開いたという意味ではなく「目覚めた」とか「悟った」のような言葉で表される「認識の変化」を表していると考えるのが妥当でしょう。つまり、ヘレン・ケラーが「ウォーター!」と叫んだ瞬間のような凄まじい変化がアダムと女に訪れたのです。

認識が変わると価値観も大きく変わります。
例えば、虫や爬虫類を生き物として認識していなければ、それを捕まえて羽や脚をもぐことに何の抵抗も感じませんが、生き物であると認識すれば命を粗末にしてはならないという考えが芽生え、そのようなことはしなくなります。虫や爬虫類の在り方自体は変化していないのに、人間側の認識が変わっただけで彼らの価値が変化したのです。
知識の木の実を食べて認識が変化したアダムと女は「ありのままの自分」を恥じるようになり、それを覆い隠すようになりました。自らの価値を認めず自己否定するようになったのです。

また、アダムは神に対して「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と答えています。知識の実を食べたという罪悪感、身を隠してしまえば自分の罪も隠せるのではないかという思い、ありのままの自分を受け入れてはもらえないだろうという考えがにじみ出しています。偽ることや見栄を張ること、疑うことを覚えてしまったのです。

原罪とは

人間はなぜ責任転嫁をしてしまうのでしょうか。
「そうすることで自分の価値が下がるのを防ぐことができる」と考えているからでしょうか?
しかし、それは間違いです。何でもすぐに部下に責任転嫁する上司と、決して責任転嫁せず自らの責任を取る上司がいたらどちらの方が好ましいと感じますか? どちらの上司についていきたいと思いますか? ほとんどの方が後者の上司だと答えるでしょう。責任転嫁をしない上司の方が、責任転嫁する上司よりも人間的な価値が高いからです。
「自分だけはいくら責任転嫁しても価値が下がらない」なんて、そんな都合のいい話はありません。責任転嫁をすれば誰でも価値が下がります。時々、自分だけは特別だと思っているのではないかという人がいますが、それは大きな勘違いです。責任転嫁は、すればするほどその人の人間的な価値が下がります。

このことは少し考えればわかるはずです。
ですが、自己評価が低くて自分に自信が持てない人、プライドが高い人、自分は他者よりも優れていると見せたい人は、自分の意志・行動の責任を引き受ける覚悟と勇気をもって生きた方が良いという真理から目をそらして責任転嫁に走ってしまうのです。それが間違いであるとわかっているにもかかわらず——。

原罪とは、こういった心の動きなのではないでしょうか。
知識の木の実を食べたことで芽生えた「自己否定」「虚栄心」「偽りや疑いの心」に縛られ、目先の欲や執着に振り回されてしまうこと。
すなわち、仏教でいう「煩悩」に支配される人間の弱さこそが、人が生まれながらにして持つ「原罪」なのかもしれません。


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