性転換手術と性別変更

先日、ツイッターのフォロワーさんがスペースで「日本では性転換手術(つまり、外性器を取る手術)をしていないと戸籍の性別を変更できないのですがわこれをどう思いますか?」という話をされていた。
デリケートな話題であり、場合によっては炎上しかねないトピックなのだけど、私のようなネットの海のプランクトンに絡んでくるのはよほどの暇人くらいだろう……ということで、個人的に思うことを書いてみようと思う。

私の「性」について

トランスジェンダーやセクシャルマイノリティについて語るなら、まずは自分がどういう立ち位置にいるかを説明すべきだろう。

まず、生まれながらの性別。つまり、持って生まれた体の性は一応「女」だ。小柄で地味で華があるというわけでも取り立てて美人というわけでもない、普通のどこにでもいる女性。
では、性自認、心の性とやらはどちらかというと、ぶっちゃけ「どうでもいい」と思っている。私にとって性別とは「体の型」を分類したものに過ぎず、認識や心といった形のないものに適応すること自体がナンセンスだという感覚だ。「心は男」とか「心は女」とか、主張するのは別にいいけど、それって何をもって定義しているのだろう。そもそも「心」の定義すら曖昧なのに、さっぱり意味がわからない。

おそらく、社会が定義する「男らしさ女らしさ」であったり、それぞれの性別が形成する社会に馴染めない、違和感があるというところから自分の性別に疑問を感じるのだろうと思う。
例えば、ピンクの小物やレースやフリル付きの服、ひらひらのスカートに興味がなく、お人形遊びやままごとよりも野山を駆け回ったり目覚まし時計を分解したりしている方が楽しい、恋バナよりもゲームやスポーツの話がしたい、女の子よりも男の子のほうが話しやすい……というような要素があると、「私は本当に女なんだろうか」と疑問を感じやすいだろう。
だが、それは単に「社会と個人のミスマッチ」にすぎないと思う。「現在その場所」の価値観やマジョリティと自分がズレているだけの話だ。
時代によっては、赤やピンクは男性的な「闘争の色」だったし、フリルやレース、リボンといった小物は男性貴族を華やかに飾ってきた。民族衣装などを見れば男性が着るスカート状の衣服はたくさんある。
文化や価値観は流動的なものだが、性別いつの時代でも男は男で女は女だ。リボンやレースで自らを飾り、かかとの高い靴を履いて美脚を披露するルイ14世を見て女性だと言う人はいないし、彼はトランスジェンダーだと言う人もいないだろう。(実際のところはわからないが)
興味関心や趣味嗜好、人間関係に関しても同じようなものだ。社会全体が漠然と持つ男性像や女性像のようなものと体の「型」が一致しているかしていないかという、それだけの話だ。
というか、社会と自分の違和感を元に「自分の性別は〇〇ではない」なんて言っていたら、人間社会に馴染めない私は人外ということになってしまう。いや、それでも別にいいけどさ。

心には明確な形がない。心には子宮もペニスもない。社会が持つ「らしさ」という感覚は流動的で根拠としては曖昧だ。だから私は自分の心に性別を定義しない。というか、定義しようがない。
なので、「あなたの心の性別は?」と聞かれたら、私は「どちらとも言えないし、どちらとも言える。私はただの私です」と答えている。
服装や振る舞いに関しても、私は性別の区別をつけていないし、商業的に「男性向け」「女性向け」とされているものに関しても、身体構造上区別しなければならないもの以外はただの「商品展開の話」くらいにしか思っていない。
例えば、私はよく「メンズスーツ」を着る(それこそ、就職活動でも着る)が、私はこれを「男装」とは思っていない。ただ、私が私のスーツを着ただけなのだ。言葉として「男装」というのは、単に細かいことを説明するのが面倒くさいし、説明する必要性も感じない。他人に認められたいとか理解してほしいという欲もないので、どうだって良いのだ。

恋愛対象や性愛対象も、実のところ性別はどうでも良かったりする。そもそも、人を見る時に男性か女性かを気にしていないので、好きになるときも性別を気にしていないのだ。
私は結婚して子供もいるし、交際歴を見ると相手は男性ばかりなので、見た目上は異性愛者の女性になる。だが、これは単に「関係成立したのが男性だけだった」に過ぎない。実際、女性に惹かれたこともあった。ただ、相手が男性であれ女性であれ、告白しても受け入れられないだろうと思ったら基本的にはなにも言わないことにしているので、思いが成就しなかっただけなのだ。

LGBT界隈では「なんとかセクシャル」とか「なんとかジェンダー」という言葉でその人を定義、分類している。あえて自分を定義するとしたら
ノンバイナリー、パンセクシュアル、パンロマンティック
といったところでしょう。要するに「あらゆる面で性別を意識していない」という感じですね。

やっと本題

前フリが長くなりましたが、本題。性別変更に性転換手術が必要とされている件についてはどう思うか……なのですが、そもそも私は、どうして性別変更したいのかわからないのです。同性パートナーと結婚したいが今のままでは結婚できないからというのならわかるのですが、特にそういうわけでもないなら変える必要ないのでは? と思うのです。

私にとって、性別とは「体の型」でしかなく、性自認や心の性や性指向やらとは全く無関係なものです。なんというか、萩焼と備前焼は別物だけど、どちらの器に入ろうが水は水ですよね。体の型がなんだろうと、あなたはあなたでしょう? 的な。
書類上の記載と性自認が揃ってないのが嫌だと言われても、「まぁ、箸の色が揃ってないと気持ち悪いよねー」程度の共感しかできません。というか、書類上の性別がどうなってるかなんて他人には見えないし、結婚以外のことでなんか実害あるのかな〜と考えしまうのです。特に問題ないのなら、法的な手続き云々をやるより「こんなもんは単なる形の分類にすぎない、心の在り方とは無関係だ」と割り切ったり、他者に自分の性自認を認めさせるとこに大した意味はないのだと認識を変えたほうがよっぽど楽で現実的だと思います。

まぁ、どうしても性別変更したいという人がいるのは事実ですし、そういう人を否定する気もありません。そうしないと結婚できない相手がいる以上、そうするしかないですしね。
性別変更に性転換手術が必要とされていることについては「書類上の性別表記は体の型を表しているので、表記を変えるなら型変更は当然では?」と考えています。
目録に「備前焼」を「萩焼」と記載したり、「鉄の水差し」を「刀」と主張したりする人はいないでしょうということです。萩焼だ、刀だと主張したいなら、ちゃんと萩焼や刀にしてください。私は男だ、女だと主張したいなら、ちゃんとその「型」に変更してください。

というか、普段目に見えない「書類上の表記」が性自認と一致していないのが嫌で嫌で仕方ないのに、どうして普段から目に見えている自分の体が性自認と一致していないことに平気でいられるのかがわかりません。
性別変更したいけど性転換手術はしたくないという人の気持が全く理解できないです。

したくない理由があるとしたら、結婚を望んでいるパートナーは「女性の体を持つ性自認男性のあなた」を好きだったのに、性転換手術をしてしまったらそれが失われてしまい、法的に結婚できるようになっても関係が壊れて結婚できなくなるかもしれないという点かなと思いますが、このケースの場合はシンプルに「同性婚を認める」だけで解決なのですよね。性別変更しなくても結婚できれば、性転換手術も必要ないでしょうと。

トイレや更衣室、浴場などを性転換手術しない状態で利用したいのでしょうか?
心と体の性が不一致であることに違和感があるのに、わざわざ一致していない体を見せに行く、もっというと、「性的な目で見られる可能性がある場」に行きたいと思うのはおかしくないでしょうか。心身の不一致に悩む人が最も望んでいない状況になると思うのですが……。


ということで、性別変更と性転換手術について思うことはこれで終わり。まとまりがない感じではありますが、要するに「書類上性別表記は単なる形の分類でしかないから、性自認と揃えることにこだわらなくてもいいんじゃないかな」ということと「体がどうだろうと、あなたはあなたであり、それで十分愛されるし、そのままの自分を愛したらいいんじゃないかな」ということですかね。
自分の体や心に向き合うことは悪いことじゃないし、「こうありたい」という願望を持つことも悪いことじゃない。
けれど、それを縛られて苦しむくらいなら、こだわりなんぞ窓から投げ捨ててヒゲダンスでも踊ったほうがずっと楽しいし有意義だと思いますよ。

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