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みんな誰かのことを忘れてしまうね

 一体いつから春だと言うのだろう。寒の戻りというにはいささかぬるく、しかし冬というには暖かい日々が続いている。気がつけばもう3月も末ごろで、九州では開花宣言なんかも行われているようだ。第一、開花宣言だとか前線だとかいって持て囃される花は桜ぐらいで、それはもう流石としか言いようがない。そうか、今年もそんな季節が来ましたか。

 
 去年の花の頃といえば、入院が始まったくらいで、世の中に絶望していた時期でもある。あの頃きっと1年後にこうして文を紡いでいる自分など想像もできなかったことだろう。うん、できなかった。結果的にこうして何かを書いているわけで、それはもうそれでよかったのだろうと思うしかないのだけれど、やはりなんというか、悔しさはある。生きていないと思った日々に、生きている悔しさ。きっと僕は死んでいると思ったいつかに、死ねなかった悲しさ。シニゾコナイトイウコトダ。死ねなかったのである。いっそのこと誰かが殺してくれてもよかったのかもしれないが、殺すということはそれなりの応報を伴うし、おいそれとできることではない。だからこそこの世の中が保たれているというものである。いっそのこと、こんなくだらないものなら壊れてしまってもいいのだけれど。

 
 さて、とはいえ生きてしまった以上何かしら言いたくなるというものでもある。というかお前はこの空白の期間に何をしていたのか、と気になっている方も少しいるかもしれない。何もしていなかった。文を紡ぐことがとにかくキモくて、紡がれた文など価値はないと思っていることもあった。しかしもう、やるしかないのだと決めてからもずっと書けない日々が続いて、誰も待っていない雑文など紡ぐ価値はないのに何をしているのだろうと思った。僕の文に「読者」などいないし、そこにいるのはきっと、たまたま出会ってしまった、たまたまぶち当たってしまった不揃いな、足並みを揃えることがなんとなく苦痛な、それでいて揃っているかのように見せる努力はしている/せざるを得ない人たちであると思う。おつかれさまです、疲れていませんか。ちょっとだけ休んでいきませんか。お願いだから。

 
 言いたいことは言ったし、これ以上何を求めるというのだろうと思わないこともないけれど要するに、僕の文を読みたいと思っていてくれて、たまたまぶち当たった人たちに向けてまだ何かいうことは無いのか、ということなのだと思う。大して無い。というのも僕の文を読んでいるそこの、その、ちょっと底のあなたは、きっと僕よりも全然もう、本当にうんと努力していて、ちょこっとキツくなっているんじゃ無いかと思う。そんな人に何か言えるほど僕は偉くないし、賢くもないし、箴言を繰り出せるような言語力も持ち合わせてはいない。だけどただ、なんだろうか。例えばそこに、生きるのが辛くなっている人がいて、それこそ何かの煽りで金銭的/肉体的/精神的にもう限界を迎えている人に励ましの言葉なんかきっといらないでしょう。それよりも、あなたは何をしてくれるの?と思っているかもしれないし、何もしてくれないならせめて放っておいてほしいのかもしれない。放っておくことならできるかもしれないから、放っておかれているのだと思って、ちょっと付き合ってほしい。

 
 というのも僕自身、いま金銭的に辛い。肉体的にはそんなに辛くないかもしれないけれど、精神的にはいつも辛い。だからそんな中でこの文を書いている。辛いなら立ち止まればいいなんて言われたところで現実はそんなに甘くなくて、いつでも僕達に立ち向かうことを要求するし、大抵勝てるはずもないような敵ばかり用意するし、奇跡なんて起きない。そんな中で、きっと力尽きる人も出てくる。力尽きたと判断する人も居るだろう。それでいいのだと思う。そうして欲しいわけではないけれど、そうするしかないよな、と思うこともあるだろうし、もしそうなったとて、それは貴方のせいではない。悪いのは、そうなるまで放っておいた誰かだし、誰でもない。とにかく力尽きてしまった時に、貴方が死を、あるいは絶望を選ぶのは貴方のせいでは全くないと思う。そうしないでほしいと思うのは、今死にそうな僕を含めた周りだ。

 
 周りのことなど気にする必要はない。だからちょっとだけ、息をするだけでいいからちょっと息してみようかという気にもなってくる気がするような、しないようなそんな感じがする。だけど周りは、そんなふうに立ち止まっている私たちを見て、解釈したいように「大丈夫なんだな」と解釈する。そしてあるときプツっと、絶望なり死なりを選択した私たちを、心底不思議そうに、そしてなぜか悲しそうに「そんなことになるとは思っていなかった」と弁明する。都合が良すぎるよなって。殺したのは、絶望させたのはお前たちだろって。けれどとにかく、周りは責任を取らない。だからこそ私たちは、自分の生に対してさえも、責任を取る必要はない。軽く死んでもいいのかもしれない。だけどさ、なんかこう、上手く言えないんですけど、死ぬ前に「私、死ぬよ?」って叫んでみるくらい良いんじゃないかと思う。

 
 だいたい綺麗事すぎるんだよ、貴方が死んだら私生きていけないとかいうなら、いま私が生きていけるようにしてほしいと思う。けど、そんなこともせずに、こちらに生きていることだけを期待するのだ。そんなの生の脅迫でしかないじゃないか。イキハラだよ。

 
 だからなんかこう、そういうんじゃなくて、もっとこう、ねぇ。あるでしょう。無いの?

 

 まぁ、そんなことを思ったりする春のおとずれなのだけれど、去来する温かさに人はいろんなものを擬えるのに、気候はちっともこちらを振り向いてくれなくて、人間というのはつくづく裏切られることに慣れた生き物だなぁと思う。裏切られることに慣れているから、どうしようもない茫漠に慣れているから、自分がとてもちっぽけなものだと分かっているから、誰かの生に過剰な意味を託す。そしてそれに、この人間の一生というやつはごく稀に、けれども無くはないという程度に応える場合がある。だから私たちは託すことを、それに応えてくれと祈ることをやめられない。それはそれでいい、それでいい。けれど、応えられないことだってあるし、そっちの方が多いのだから、ゆきすぎた期待はやはりするべきではないのだろうと思う。誰かの生は、誰かの生だ。それが失われたとして私たちは、すべての一生のことを悲しんでなんかいられない。だからこそ、自分の生だって誰かに忘れ去られる一生なのだし、忘却によって人類は続いていく。忘れられるために私たちは生きている。もうそれで良いのだろうと思う。だからこそ、好き勝手生きて良いし、そう、だからこそ、私たちは違いに忘却し合う存在として連帯することができる。基本的にあなたのことなんて忘れるからこそ、あなたのことを忘れられないであろう深い思い合いを紡ぐことができる。誰かにとって忘れられない、ということはそれほど奇妙で貴重なことだし、だからこそ僕はできるだけ多くの人とのことを、できればあなたとの事を忘れずにいたいと思う。自分のことを忘れないだろうなと思える人がいることを、できるだけ大切にしたいなと思うし、僕もそういう人のことを忘れずにいたいなと思う。まぁ、そんなことなわけですよ。うん。結局何が言いたかったんだろう、もはやわからないけど、でもなんか、みんなたいせつなひとのことをわすれずにいようね。まぁ、自分のことを忘れない人なんて誰もいないとしても、それはそれでいいのだろう。

 

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