表現することの定義
「あなたはどんな人ですか?」
こう聞かれて、スッと答えが導ける人になりたいと思う。一方で、ひとことで言い表せるような人間は薄っぺらいんじゃないかと思ったりもする。
だって、自分の顔だけは一生、自分の目で確認することができないんだよ。
同じように、心は毎日動くけど1ミリも見えなくて、その見えないなにかに突き動かされて喜んだり、泣いたり、忙しい。それが人間であり、つまり生きてるってことらしい。
飽きっぽいわたしは、極めたなにかというものをほとんど持っていない。けれども、断言できることがあるとしたら
「わたしはスーツを買ったことがないし、これからも必要ない人生を歩んでいくと思う。」
という、なかなかどうでもいいことだった。
スーツを買ったことがないわたしは、当然ちゃんとした「就活」をしたことがない。そんなわたしが今、30代なかばにして何度目かの転職活動に苦戦しているのは言うまでもない。
「私服勤務」「フレックスタイム」「朝10時以降出勤」
今まで敢えて希望したことはなかったし、望まなくとも、それは自然と与えられるものだと認識していた。
けれども、みずからを一般の”市場”に置いてみたとき、見る角度によってそれは「手の届かないところにあるキラキラしたなにか」に変わってしまうことを知った。
”市場”または、”ふつうのものさし”で見たときの自分ほど惨めなものはない。
たぶん、これって世の中の多くの人に当てはまることなんじゃないかと思う。けれど、それを惨めなものと捉えるか、自分には価値があるのだと信じることができるのか。
日本でいう、いわゆる”大人”にとって、その後者はばかげたおとぎ話と認識される。
けれども、わたしは「大人」だからこそどちらを選ぶか、決めることができるんだ。
矛盾してる?
「大人」だから”大人”になるか、「自分として胸を張って生きていくか」を選択することができるってこと。
わたしは、ずっと自分として胸を張って生きていくために、表現をしたかったのかもしれない。
だから、また、文章を書き始めて見ようと思ったんだ。
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