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眠れない夜のための短いお話

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短いお話を並べています。
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#cakesコンテスト

手紙ヒコーキ:紙飛行機でささやかなやり取りをするだけの話

 たまに散歩をするのですが、途中に古びた病院があります。僕はその病院についてよく知りません。名前すら気に掛けたこともありません。  その日も病院の前を通りかかると、道端に紙飛行機が落ちていました。鮮やかな水色のそれを拾ってみると、折り込まれたところに文字の端っこが見えました。開くと几帳面な字で、「はやく家に帰りたい。いちごタルトが食べたい。病院飽きた。遊びたい」と書いてありました。病院を見上げると3階の窓が開いていて、そこからまた紙飛行機が飛び出して、風に乗って遠くへ飛んでい

火曜日のメンデルスゾーン:あの頃の友だちを思い出すだけの話

 僕は人付き合いが苦手な子供だった。中学校に入学すると、その傾向は深刻な問題を起こした。友だちができなかったのだ。  クラスでは同じ小学校の出身同士とか、席が近いもの同士で即席のグループが生まれていた。僕はどこにも所属できなかった。それでもちっとも気にしていないと思われたくて、休憩時間には窓の外を眺めたり、必死に本を読むことに集中した。  そうして自分の世界に閉じこもっている間に、僕は誰とも話さずに過ごす学校生活の日々を迎えた。  一番、気まずい思いをするのは昼食の時間だった

恋の足音を聞かないで:階段の途中で動けなくなるだけの話

 私が活字だらけの小説を読むようになったのは、高校一年生の秋からだった。漫画と映像だけで生活してきた私にとって、小説という世界はひどく小難しい。なにしろ絵がない。言葉から自分で想像をするしかないのだから、読んでいて疲れる。現代国語も古典も、私にとっては眠りの呪文を学ぶ時間だった。  そんな人間が突然、小説を読み始める理由は二つしかない。自己啓発か、恋だ。もちろん私は、哲学や思想に興味はなかった。興味があるのは三年生の結城透先輩である。彼は図書委員をしていて、図書室で貸出や返却

天使と海を見に行こう:人はなぜ海を見に行くのかを考えるだけの話

「私は天使です」  と、彼女が言った時、彼はマンションの十二階の通路から飛び降りようと、手すりに体を持ち上げたところだった。  ぽかんと見返す彼に、彼女は無表情のままで続けた。 「あなたは明後日の午前九時に死ぬことになっています。私は、あなたが死ぬのを見届けに来ました」  それから首を傾げた。首元まで真っすぐに伸びた黒髪が風に揺れるさまの、その幻想的なほどの美しさに、彼は息を呑んだ。  戸惑いながら足を下ろし、君は死神かと、彼は訊いた。彼女はこう答えた。 「間違ってはいないの

君が眠っている間に:愛を囁くだけの話

「課長、こっちこっち」  本田がきつねうどんを持って席を探していると、彼の名を呼ぶ声がした。食堂の喧噪の中でもよく通る声は、間違いなく熊谷理沙のものだった。  無視をする理由もないので、本田は手を振る熊谷の席まで行き、隣へ座った。 「聞いてくださいよ」と熊谷が言った。「こいつ、彼女に一回も愛してるって言ったことがないんですって」  そう言って指さした先に、優しげな顔立ちをした青年がいた。見覚えがあった。熊谷とは同期で、営業部だったはずだ。 「いったいどういう話になってるんだ?

ほしのかせき:寒い夜に星を探しに行くだけの話

 星がどこにもなかったから、キコは家を出ることにした。  ありったけの服を着込んで、マフラーを巻いて、ニットの帽子をかぶった。  寒い夜だった。空気はピンと張りつめていて、肌が痛んだ。キコの鼻はすぐに真っ赤になった。  街に灯りはなかった。誰も通らない道路で、信号が順番に色を変えていた。  少し歩くと自販機にたどりつく。コーヒーとタバコが売っている。  小銭を入れていた牡牛がキコに気付いた。 「やあ、こんばんは。こんな時間にどうしたんだい」  牡牛がゆっくりと言った。 「こん

夏夏冬:秋を探しに行った親父を回想するだけの話。

「秋って知ってるか」  子供だった俺は、もちろん首をふった。すると、親父は自慢げに秋について話してくれた。  思い返すと、親父との思い出は秋のことばかりだ。  いつも不機嫌そうに眉間にしわを寄せて小難しい本を読んで、小難しい論文を書いていた親父だ。そんな親父が、決まって秋の話をするときだけは、まるで小学生のガキみたいに夢が詰まった目をしていた。 「いいか、150年前まで、この世界には秋っていう季節があったんだ。夏の後に」 「夏の後は冬でしょ? 暑くて、すぐ寒くなっちゃう」 「

夕日影:母を失った少女の前にしゃべる犬が現れるだけの話

 母が死んだことが悲しくないと言えば嘘になるけれど、溢れる涙は期待できそうになかった。  長い黒髪を縛って料理をする母の背中も、笑うと右頬にだけ浮かぶ笑窪も、記憶には鮮明に残っていた。その姿を見ることは二度とないということも理解していた。それでも、私の中に満ちている感情は胸を締め付けるような悲しみではなく、ぽっかりと穴が開いたような喪失感だけだった。確かにあったものがなくなってしまったことを教えてくれる、大きな喪失感。  もうすぐ日が暮れようとしていた。  山間に半分ほど姿を