見出し画像

【5月研究発表会②】森鴎外『夏目漱石論』から読み解く二大文豪と近代文学の潮流

こんにちは。アインズ1期の たむたむ です。

新年度のスタートから約2か月が過ぎ、怒涛の春学期もそろそろ終わろうとしていますが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか?
私はレポートに追われつつ、その現実から逃げるようにこの記事を書いています(世の中、現実逃避ほど楽しいものはありませんよね)。

そんな現実逃避が散見される5月末の某日、アインズでは5月2回目となる研究発表会を行いました。

題して、「森鴎外『夏目漱石論』から読み解く二大文豪と近代文学の潮流」

なんと、日本の文学(史)についての発表はアインズ初!

明治文壇の重鎮・森鴎外は、時代の寵児・夏目漱石どのように捉えていたのか? 鴎外の『夏目漱石論』を通して、当時の文学界の潮流と師弟関係にも言及しつつ、両作家の共通点・相違点も考察していきます。

以下では、発表者である私 たむたむ が発表会の概略を記していこうと思います。お時間のある人、レポートから距離をとりたい人はぜひ読んでいってください!

そもそも夏目漱石と森鴎外ってどんな人?

夏目漱石(1897-1916年)

クリックでWikipediaにとびます

夏目漱石は、明治~大正時代に活躍した日本の作家・翻訳家です。

代表作は
 ・吾輩は猫である
 ・坊っちゃん
 ・こころ

で、誰もが一度は耳にしたことのある名作を多く世に出しています。

彼が作家になるまでの人生をざっと振り返ると、こんな感じ。

帝国大学文科大学(東大文学部)卒業→教師生活→イギリス留学→帰国後、処女作『吾輩は猫である』を執筆、発表

ちなみに、漱石が英文学者であったことから、この留学は英文学研究のためのものだと思われていることが多いのですが、実は英語教育研究のためのものだったんですよ!

それはともかく。

彼の作風や、思想を表す言葉としてよく知られているのが、
則天去私」(そくてんきょし)という言葉です。

高校で倫理を学んだ人なら聞いたことがあるかもしれませんね。
読んで字のごとく、「小さな私を去って、自然にゆだねて生きること」を意味しています。

森鴎外(1862-1922年)

ドイツ留学当時の鴎外(一番右)
画像クリックでWikipediaへ

森鴎外は、漱石と同じく明治~大正時代に活躍した、作家・翻訳家・帝国陸軍軍医です。

代表作は、
 ・舞姫
 ・即興詩人(デンマークの詩人・アンデルセンの翻訳書)
 ・高瀬舟

など。教科書に掲載されている作品も多く、まさに大文豪といえるでしょう。

そんな彼が文筆活動を始めるまでの人生をざっくりまとめると、こんな感じ。

帝国大学医学部(東大医学部)卒業→軍医勤務→ドイツ留学→帰国後、評論・翻訳等を諸新聞や諸雑誌に投稿開始

作家と陸軍軍医の二足の草鞋という、非常にハードな生活を送っていたのにもかかわらず、その生涯で膨大な数の作品・論文を残しているのは心底驚嘆に値しますね。

ちなみに、彼が留学を命じられたのは、衛生学などを軍医として学ぶためであったとされていますね。

彼の文学や心の在り方をよく表す言葉としてよく知られているのは、
諦念」でしょう。

個人と社会の葛藤において、あくまで自分を貫くのではなく、
自己のおかれた立場をみつめて受け入れることを意味しています。

ここで、個人と社会の葛藤って何?と疑問に思った方もいるかもしれませんね。

長くなるのでここではあえて言及しませんが、国家の利益を個人の利益に優先させる国家主義が、日露戦争以後に疑問を呈されるようになったことを思い返してみてください。

つまり、日露戦争の勝利により明治維新以来の目標であった近代化が達成されたという実感、そして国家の興廃をかけて一丸となって戦った日露戦争において得たものが、(その被害に比して)十分でなかったことにより、国家と個人の関係を改めて考え直す風潮が社会に広まっていたんですね。そして、それは文壇においても例外ではありませんでした。

漱石と鴎外はこの問題に真正面から向き合い、膨大な数の作品を通じて取り組んでいくことになります。

さて、少し長くなってしまいましたが、本題に入りたいと思います。

森鴎外『夏目漱石論』を読む

(テキストの全文は青空文庫で読めます)

一、今日の地位に至れる径路

 政略と云うようなものがあるかどうだか知らない。漱石君が今の地位は、彼の地位としては、低きに過ぎても高きに過ぎないことは明白である。然れば今の地位に漱石君がすわるには、何の政策を弄するにも及ばなかったと信ずる。

まとめると、「漱石君の今の地位は彼の実力に相応のものであり、しかも彼はその地位を得るため、策など弄する必要もなんらなかった」とのこと。

ちなみに、今(1910年)の漱石の状況は

  • 『坊っちゃん』、『草枕』(1906年)で作家として揺るがぬ評判を得ている

  • 前期三部作の三作目『門』を発表したところ

…つまり、飛ぶ鳥を落とす勢いというわけです!

それを実力相応と言い切る鴎外。なかなかの高評価で幸先のよいスタートです。

二、社交上の漱石

二度ばかり逢ったばかりであるが、立派な紳士であると思う。

人柄に関しても高評価。
ちなみに、はじめて二人が逢ったのは
共通の友人である 正岡子規 の開いた句会であったといわれています。

正岡子規(1867‐1902年) 俳人、歌人

これは余談ですが、漱石の人柄を好意的に評したのは、鴎外だけではありません。

たとえば、倫理学者・和辻哲郎(『風土』など)は、以下のように述べています。

先生の重んずるのはただ道義的心情である。

和辻哲郎『夏目先生の追憶』

漱石は、生涯を通じて多くの人と交流していました。
その中でも彼の門下生と、彼との関係性はどのようなものであったのでしょうか。

三、門下生に対する態度

門下生と云うような人物で僕の知て居るのは、森田草平君一人である。師弟の間は情誼が極めて濃厚であると思う。物集氏とかの二女史に対して薄いとかなんとか云うものがあるようだが、その二女史はどんな人か知らない。随って何とも云われない。

森田草平は、漱石の門下生の一人で、作家であり翻訳家です。

1908年に『青踏』で有名なあの平塚らいてうと心中未遂事件を起こしたことで有名ですね。のちに『漱石先生と私』を書いたのもこの人です。
(この人のWikipedia本当に面白いのでよかったら読んでみてください!)

「物集氏とかの二女史」は、国文学者・物集高見の娘、物集芳子(大倉燁子)と和子のことだと思われます。
彼女らは二葉亭四迷に弟子入りしたのちに、彼の紹介で漱石に出会いました。

さて、話をもどします。

鴎外は、漱石の師弟関係は「極めて濃厚」であると感じたようです。

では、そんな鴎外自身の場合はどうだったのでしょうか?

ここで、当時の文壇でみられた師弟関係に話を一般化しつつ、鴎外と漱石、両名の師弟関係についてより詳しく見ていきたいと思います。

日本近代の文壇における師弟関係

山崎正和氏によれば、以下のような特徴を持つ師弟・友人関係が当時の文壇において支配的であったようです。

  • 前近代的な若衆宿の気風を受け継いでいる
    (「若衆宿」とは、部落の若い衆が手仕事をしたり話し合ったりして寝泊りする、特定の家のこと)

  • 排他的

  • 内の仲間にたいして強い心理的な拘束力を持つ

  • (仲間に対し)粘っこい、湿潤な共通感情を分け合うことを要求する

山崎氏は、このような「閉鎖的な気分に包まれた集団」の具体例として
志賀直哉や武者小路実篤らの「白樺」同人
そして、夏目漱石の「門下十傑」をあげています。

それに対して、森鴎外についてはそのようなことはなかったと。

山崎氏は、
鴎外は「思想的にも文壇的にも党派を作ら」ず、「『若衆宿』的な人間とは無縁」で、むしろそれに微かな嫌悪まで持っていたと述べています。

また、鴎外と同時代の詩人・劇作家の木下杢太郎も、
「鴎外は朋党の僻、親分気質の微塵も無い人である」一方で、
「いつもサロンの話相手を身の廻りに有している」と指摘しています。

なるほど、確かに鴎外は前近代的な「濃厚」な師弟関係を築いていなかったと推察できそうです。

その代わりに、彼は当時西洋で盛んだった「サロン」におけるような関係を人々と築いていました。

アメリカとフランスへの留学・滞在経験をもつ同時代の作家・永井荷風によれば、「サロン」とは「個人的私生涯から離れた技巧的生活の舞台」で、洗練された交流の場であり、自由な意見交換の場であったようです。

鴎外がサロン的交流を重視したのには、彼のドイツ留学時代を考えれば納得できると思います。

それでは、漱石の方はどうでしょうか。先ほどの話によれば、鴎外とは違い閉鎖的な関係性を築いていたように思われますが…。

しかし、結論から申し上げると、漱石もまたサロン的交流を行っていたと私は考えております。以下ではその根拠となるいくつかの文献を見ていきましょう。

漱石は毎週木曜日に邸宅にて来客者と面会をしていたのですが、この「木曜会」で門下生と多くの自由な交流を行っていました。

その木曜会に参加していた門下生の一人・哲学者であり評論家の阿部次郎は、漱石の門下生との関係について、以下のように書き残しています。

若し門下生とは、先生と正式に師弟の約を結んだ者を意味するならば、自分は先生には門下生なるものが全くなかったと云ひたい。固より先生の周囲には多くの若い人達が集ってゐた。先生と此等の人達との間には、先輩及び後輩として、今日の日本の文壇では他に見られないほどの親しみがあった。併し此等の人達は、先生がその道を伝へるために、特に簡抜された人達ではなかった。(中略)先生は唯その寛容な心を以て、自然にその門に集って来る青年を接見して、之と話をしたり、その相談に預かったり、時としてはその世話をされたりしたに過ぎなかった。所謂先生の門下生となるには、唯先生の風を慕って、木曜日にその家の客となれば足りたのである。先生と所謂門下生との関係は最初はこれほどの意味に過ぎない。(中略)先生はいつも独立を重んぜられる人であったから、所謂門下生に対して自分の意見を強制するやうなことは殆んどないやうに見受けられた。さうして実際先生と所謂門下生との間には、随分激しい意見の扞格があった。

阿部次郎『夏目先生のこと』

これを読めば、漱石と門下生の関係が閉鎖的なものだったとはいえないでしょう。

また、門下生の一人である和辻哲郎は、
木曜会について「フランスでいうサロンのようなもの」であり、
そこに行きさえすれば「楽しい知的饗宴」を享受できると書き記しています。
 
さらに彼は、木曜会を「サロン以上のもの」と称しています。
その理由は、以下の文章によく表れています。

人々は漱石に対する敬愛によって集まっているのではあるが、しかしこの敬愛の共同はやがて友愛的な結合を媒介とすることになる

和辻哲郎『漱石の人物』

また、以下の文章からも、漱石が先ほど取り上げた従来の師弟関係とは異なる関係を門下生たちと築いていたことがわかります。

(木曜会で)古い連中が圧制的だと感じたこともなかったし、また漱石に楯を突く態度をけしからぬと思ったこともない

和辻哲郎『漱石の人物』

これらを踏まえれば、鴎外だけでなく、漱石の師弟関係もまた文壇で支配的であったものとは異なる性質をもつものだったといえるでしょう。

あえて両者の違いをあえてあげるとすれば、関係性の「濃厚」さではないでしょうか。

四、貨殖に汲汲たりとは真乎

 漱石君の家を訪問したこともなく、またそれについて人の話を聞いたこともない。貨殖なんと云った処ところで、余り金持になっていそうには思われない。

当時、漱石がお金儲けに必死であるという批判があったのでしょうか。
しかし鴎外はそうは思わなかったようです。

その理由はズバリ、「あまりお金持ちになっていそうには思われない」から。…庇っているのか馬鹿にしているのか、非常に微妙なラインです。

(個人的には、鴎外は他者を批判することも多いですが、かといって他者を公然と侮辱するような下品さは持ち合わせていないと思っています)

でも、時の寵児・夏目漱石がそんなにお金持ちになっていないって、本当ですかね? 

松岡譲『漱石の印税帖』を見て確認してみましょう!

『漱石の印税帖』より、発表者撮影

これによれば、1910年(明治43年)時点の
5年間(明治39年~43年)の漱石の印税収入はなんと・・・

32996円

このサイトで現在の貨幣価値になおすと

その額なんと 117,209,194円

年収にして2000万円を優に超えています。

これを「お金持ちじゃなさそう!」って言えちゃう鴎外さんの方が規格外なのだと思います。

五、家庭の主人としての漱石

前条の通りの次第だから、その家庭をも知らない。

鴎外は漱石の家庭の事情を詳しくは知らなかったようですね。

ここでは詳しく紹介しませんが、家庭での漱石を知ることのできる代表的な本をご紹介します。

(漱石の奥さん)夏目鏡子『漱石の思ひ出』
(漱石の二男)夏目伸六『父・夏目漱石』

内容を少し見てもらえればわかると思うんですけど、
家庭での漱石は頗る評判が悪いです(例. 「気違いじみた癇癪持ち」)。

先ほど見た通り、外の人に対してはそれとは対照的にものすごく評判が良いんですけどね。

漱石という人のこの矛盾については、和辻哲郎が随筆『漱石の人物』で詳しく考察していますので、気になったひとはお手に取ってみてください。

ちなみに、鴎外は家庭内での評判もすごくよかったようで、ご家族の出した本ではたいてい「愛情深い」人としてべた褒めされています。当時の文豪としては珍しいですね。

六、党派的野心ありや

 党派という程のものがあるかどうだか知らない。前に云った草平君の間柄だけなら、党派などと大袈裟に云うべきではあるまい。

ここでの「党派」とは、文壇において主義・思想を同じくする人々の集まりです(ちなみにこの当時、文壇で勢いがあったのは、人間社会をありのままに描き出そうとする「自然主義」の一派でした)。

鴎外は漱石が党派を形成しようとしているとは思わなかったようですね。

実際、先ほど引用した阿部次郎の随筆においても、「(門下生は)先生がその道を伝へるために、特に簡抜された人達ではなかった」と述べられていることから、漱石にはその意思がなかったとみるのが自然でしょう。

七、朝日新聞に拠れる態度

 朝日新聞の文芸欄にはいかにも一種の決まった調子がある。その調子は党派的態度とも言えば言われよう。スバルや三田文学がそろそろ退治られそうな模様である。しかしそれはこの新聞には限らない。生存競争が生物学上の自然の現象なら、これも自然の現象であろう。

漱石は朝日新聞の文芸欄を目をかけた新人(森田草平ら)を出す場としていました。
すると当然というべきか、漱石の影響を受けた作家が多く紙面に登場することになります。

これは当時問題になり(「紙面私物化問題」)、反自然主義の論陣を張っていた「朝日文芸欄」という批評スペースは1909年に廃止されることになりました。

この項は、それに対する鴎外の反応ですね。
まとめると「党派的ともいえるけど、それによってスバルや三田文学が衰退しているのは、自然の摂理だと思う」と述べています。

ところで、スバルとか三田文学って何?って方もいますよね。
ここで当時の文壇における党派を見てみましょう!

(「世界の歴史まっぷ」というサイトに分かりやすい図がのっていたので、引用させていただきます。)

「スバル」は石川啄木が編集・発行していた雑誌で、ロマン主義の雑誌『明星』の跡を継いだ新ロマン主義調の詩歌を中心に発表していました(「ロマン主義」については一枚目の真ん中らへんを見てください)。
森鴎外が後援していたことで知られています。

「三田文学」は、東京都港区三田にある慶應義塾大学文学部の機関誌として、永井荷風らにより創刊された文学雑誌のことで、反自然主義である「耽美派」の色彩が濃厚でした(画像一枚目の下、画像二枚目の上から三段目)。
こちらも、森鴎外が顧問を務めていたことが知られています。

(自分の関係している派閥が追い詰められているというのに、「自然の現象」と言えてしまう鴎外の泰然自若っぷりには驚かされますね…)

鴎外と漱石の属していた党派はそれぞれ、

鴎外:ロマン主義→高踏派(それぞれ図の一枚目参照)
漱石:余裕派→高踏派

余裕派とは、正岡子規や夏目漱石に代表される、反自然主義的・彽徊趣味的な作品を特徴とする文芸の一派です。

わかりやすくいうと、現実に対して一定の距離をとる心の「余裕」をもった作家のことです。

話を戻しますね。

このように、鴎外と漱石は両者とも高踏派に分類されているのですが、
最終的に至った境地はそのような党派の枠に収まるものでは到底なかったことは、あえて述べる必要もないことでしょう。

八、創作家としての伎倆(ぎりょう)

 少し読んだばかりである。しかし立派な伎倆だと認める。

伎倆とは、技量のことです。
相変わらず、漱石の作家としての腕に関しては高評価ですね。

そんな鴎外が漱石の『三四郎』(1908年)の影響を受けて執筆したといわれている作品が、『青年』(1910年)です。

両方とも明治40年代の東京を舞台にしているためか、
鴎外と漱石の作風を比較する際にまずあげられる作品です。

内容としては、前者が恋愛小説、後者が思想小説とかなり違うものではありますが。

九、創作に現れたる人生観

 もっと沢山読まなくては判断がしにくい。

先ほども述べた通り、作品にあらわれる漱石と鴎外の人生観としては
漱石:則天去私
鴎外:諦念
が知られています。

しかし、ここでは別の視点から彼らの人生観を見てみましょう。

人の生き様は、その死に様によりおのずと際立ちます。

ですから、ここでは両者の死に際に残した言葉を取り上げようと思います。

漱石:「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」、「何か喰いたい」

ここ、というのは胸のこと。

和辻哲郎により、作品や生き様にあらわれる「生死に対する無頓着」を指摘された漱石の最期の言葉は、意外にも生に執着しているようにも捉えられるものでした。

しかしそれは、生への執着というより、当時執筆途中であった『明暗』を書ききることへの執念とも考えられます。

鴎外:「墓は森林太郎墓の外、一字も掘るべからず」、「馬鹿らしい」

森鴎外が一人の石見人「森林太郎」として死のうとしたことは、よく知られている話ですね。

注目すべきは、「馬鹿らしい」という言葉です。

この言葉を取り上げた記事で、大変興味深いものがあるので、
僭越ながらそれを引用することで、私自身の考察に代えさせていただきます。

子供の頃から一族の期待を一身に背負ってきた男は、ままならない人生に、ある時期は苛立ち、ある時期は諦観を抱いて生きていた。周囲の人間が、みんな馬鹿に見えた。馬鹿は同じ人間とは思えないから、むしろ優しくできた。だから、慕われ、尊敬され、ついには偶像化されるまでに至った。
 そんないびつな自分を、鴎外は受け入れる他なかった。ごく一部の人間を除けば、だれもがまんまとごまかされてくれた。
 だが、それは嬉しいことだろうか。(中略)
理性が力を失っていく中で、心中に強く浮かび上がってきたのは、家族のため、一族のためにひたすら我慢してきた人生への悔恨だったのではないか。

門賀美央子「文豪の死に様:第4回森鴎外―死の床で「馬鹿らしい」と叫んだ人」

十、その長所と短所

 今まで読んだところでは長所が沢山目に附いて、短所と云う程のものは目に附かない。

これに関して、何か付け加えることは野暮でしょう。

まとめ:『夏目漱石論』からみえる、鴎外の漱石観と両者の共通点・相違点

森鴎外は夏目漱石の作家としての実力を高く評価していたものの、両者はそこまで深く交わっていなかったことがわかりました。

共通点、相違点としては以下のようなものがあげられます。

共通点

  • 師弟関係(サロン的雰囲気)

  • 文壇における独自の存在感

    • 両者ともに反自然主義の立場

    • 日本の近代社会に潜む矛盾や葛藤を扱っている

    • しかし、国粋主義にも欧化主義にも社会主義にも属さない


相違点

  • 師弟関係の「濃厚」さ

  • (家族との確執があるか否か)

参考資料

(人物の画像はWikipediaより)

  • サライ.jp 「夏目漱石、親友・正岡子規の自宅で森鴎外と初めて出会う。【日めくり漱石/1月3日】」(https://serai.jp/hobby/38840)

  • 坂部恵 編『和辻哲郎随筆集』「夏目先生の追憶」

  •  『阿部次郎全集』13、「夏目先生のこと」

  • 山崎正和『森鴎外 人と作品―不党と社交』

  • 木下杢太郎『森鴎外』

  • 永井荷風『新帰朝者日記』

  • 『和辻哲郎随筆集』「漱石の人物」

  • 松岡譲『漱石の印税帖』

  • 世界の歴史まっぷ(https://sekainorekisi.com/japanese_history/%e8%bf%91%e4%bb%a3%e6%96%87%e5%ad%a6/)

  • Wikipedia「夏目漱石」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3#cite_note-24)

  • 小泉浩一郎『夏目漱石論:<男性の言説>と<女性の言説>』

  • 門賀美央子「文豪の死に様:第4回森鴎外―死の床で「馬鹿らしい」と叫んだ人」(https://43mono.com/series/writer/writer04/)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?