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お花見巡検 実施報告

こんにちは! アインズ1期の はな です。

今回は表題の通り、3/30(木)に1期の たつや さんと共同開催した【お花見巡検】の実施報告を書き残そうと思います。互いに巡検の企画は初めてでしたが、2人でやれば怖くない。怖くなかったです(往々にして、「大事なことは2回言う」べきなのです)。

桜の開花・満開が早々に到来した今年。
主催者としては、巡検当日の咲きぶりは如何にとハラハラでしたが、お花見の代名詞・ソメイヨシノをはじめ可憐な花々が美しいその姿を保っておりました。
こうして参加者一同、青空の下ホッと胸を撫で下ろし、特大春休み(約3ヶ月)の締めに相応しい特大散歩(行程約9.5km)へと繰り出せた訳であります。

それでは当日の写真も交えつつ、実際に東京の街中を散歩しているような気分で、以下お楽しみいただけますと幸いです。

1.はじめに

 春の訪れは何処に見出され、如何にして認識されるのか。その代表例が、「桜の花」・「花見」でしょう。開花情報や満開予報は弥生の世間を賑わし、標本木の下では満開日を待ち侘びる群衆の影。とりわけ東京都内には千鳥ヶ淵、隅田公園、東京ミッドタウン、昭和記念公園など数々の名所が存在し、毎年多くの人々が花見に繰り出します。例えば2017年、上野公園(台東区)にはおよそ358万人もの人手がありました(株式会社ウェザーニューズ 2018)。これは新型コロナウイルス流行前のデータなので単純には判断できないものの、桜花の鑑賞が、日本都市において熱狂と共に迎えられるイベントだということは導けます。さらに、今年は花見スポット運営側からの規制/自粛呼びかけが緩和される傾向にあり、ここ2〜3年の中では一番の盛り上がりが予測されてきました(日本放送協会 2023)。
 このように大衆を惹きつけてやまない「桜」……。その存在はしばしば和歌に詠まれてきたほか、梶井基次郎『櫻の樹の下には』(1928年初出)・坂口安吾『桜の森の満開の下』(1947年初出)等、著名な作家らによる文学作品の題材ともなっています(梶井 1931; 坂口 1989)。実はこの「桜」、日本社会における学問的思索の世界でも焦点を当てられる場面が見られ、思想史的1テーマとしての側面を有するのです。
 そこで本巡検は、都内の花見スポット(特に新宿・渋谷・目黒区)に着目し各場所の概要と優美な景観に触れつつ、桜あるいは行程上の地点にちなんだ思想史関連のエッセンスも抽出していきます。


2.明治神宮外苑

明治神宮外苑が作られた背景

 (「外苑」とはもともと、皇居や神社の外にある付属の庭園という意味)

 明治神宮外苑の歴史が始まったのは明治45年。崩御された明治天皇を偲ぶ声から、明治天皇と皇后を祀るための神社を建設する計画が持ち上がります。その神社こそ今に残る明治神宮。
 明治神宮外苑の建設も、明治神宮の建設計画に含まれる形でスタート。天皇の葬儀である「大喪の礼」が行われた場所である「青山練兵場」跡地を、明治神宮の「外苑」という形で公園として整備することが計画されました。
 聖徳記念絵画館を中心に、体力の向上や心身の鍛錬の場、また文化芸術の普及の拠点として、憲法記念館(現明治記念館)などの記念建造物と、陸上競技場(現国立競技場)・神宮球場・相撲場などのスポーツ施設が造成され、大正15年(1926)10月に明治神宮に奉献され完成されました。明治神宮外苑は創建から終戦まで国の施設として管理され、戦後は宗教法人となった明治神宮によって管理運営されています。

ソメイヨシノについて

 東京では、3月22日(水)に昨年より5日早く桜が満開となりました。東京を含め8割の観測地で、この満開の基準を示してくれる標本木はソメイヨシノとなっています(明治神宮外苑ではこの時期だとソメイヨシノに加え、大島桜や枝垂桜も咲いています)。

 ソメイヨシノは日本人に最も馴染みのある桜と言えます。

〜どんな花〜
 ソメイヨシノは、オオシマザクラとエドヒガンの園芸種との交配種といわれています。

ちなみに......
オオシマザクラ
伊豆半島、伊豆七島、房総半島などに分布する。花は純白で大きく香りがある。鮮やかな緑色の若葉が出てから開花する。葉も大型で毛がなく、和菓子の桜餅に使われる。サトザクラはこの流れを引くものが多い。

エドヒガン
本州、四国、九州と韓国の済州島の山地に分布する。淡紅白色の花をつけ、性質が強く、樹齢が長いことから全国各地に数百年の古木、巨木が知られている。

「盛岡石割桜」、山梨の「山高神代桜」、岐阜の「根小谷薄墨桜」など天然記念物に指定されているものも多い。

ソメイヨシノの画像
(日本花の会ホームページより)

〜ソメイヨシノの由来〜
 江戸時代(1603年~1868年)の中期に、江戸の染井村(現・東京都豊島区駒込)の植木職人らが売り出した「吉野桜」が始まりだと言われています。
桜の名所である奈良県の吉野山から命名されたと考えられますが、1900年、上野公園の桜の調査で吉野山の桜の多くはもともと日本に自生していた「ヤマザクラ」で吉野桜とは違うことがわかりました。吉野山のヤマザクラと混同しやすいので、染井村の名を取り「染井吉野」という名前に改められました。

〜ソメイヨシノが標本木に選ばれる理由(ソメイヨシノは1本の木から生まれた?)〜
 気象庁の職員による桜の開花発表の際に利用されるのが、日本全国各地にある標本木。ほとんどの標本木はソメイヨシノですが、その理由は......

①全国的に学校・公園・街路樹などで数多く植えられている

②全国のソメイヨシノは同じ遺伝子を持つクローンである
この2つです。


 そもそもソメイヨシノは、人の手によって挿し木や接ぎ木で増やされる、いわばクローンであり、全国に広まっていったのです。それまでの経緯を以下で説明します。

 ソメイヨシノは葉っぱよりも先に花だけが開き(大島桜などは、開花と同時に葉を出します)、他の種類の桜よりも花が大きく固まって咲きます。その姿が美しく、その美しさを全国に広めようとしました。

 しかしソメイヨシノの子どもは、ソメイヨシノにはなりません。
 桜の仲間は、同じ遺伝子では交配する事が出来ないから、同じ木の花では種が作れない。
 もし別の桜を交配させて種を作ったら、違う遺伝子が入るために元のソメイヨシノとは異なった桜となっちゃう。
 そこで、ソメイヨシノの美しさを残すためにクローンを作ることにしたのです。

 全国のソメイヨシノは皆同じ性質を持つため、同じタイミングで咲きます。全国で100万本以上咲くとされるソメイヨシノは、今では花前線の測定基準にもなり、私たちに春の季節感を与えてくれます。

3.明治神宮野球場

正岡子規と明治期の翻訳事情

 神宮野球場の完成は1926年のことでした(明治神宮野球場 2020)。ただ、野球という競技それ自体は、既に明治期において西洋から伝来していました(鈴木 2016)。この伝来当時「ベースボール」に熱狂した代表的な人物が、俳人・歌人である正岡子規(鈴木 2016)。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」で有名な、あの子規ですね。彼は東京大学予備門時代にこのスポーツと出会い、学友と共に興じました(鈴木 2016)。そして晩年まで野球を題材にした歌を詠んだり、新聞への寄稿の中で競技のルールや楽しさを解説したりなど、「野球/ベースボール」の普及に貢献したといいます(公益財団法人松山観光コンベンション協会 2023)。以下では、彼が遺した俳句を2点ご紹介しましょう(正岡 1901; 1985)。

春風や まりを投げたき 草の原 (『筆まかせ』明治23年)
夏草や ベースボールの 人遠し (『俳句稿』明治31年)

正岡子規 肖像写真
出典:松山市立子規記念博物館(2023) 

 子規は、1902(明治35)年に肺結核が原因で亡くなりました(松山市 2022)。晩年の歌(上述「夏草や〜」)からは、夏の太陽に照らされながら野球に熱中する者たちを、独り病床から眺める……そんな情景が浮かび上がってくるように思われます。
 ここで、もう一度じっくり「夏草や~」の句に注目してみましょう。「野球」ではなく「ベースボール」の語が使用されている点に違和感を覚えた方もいらっしゃるのではないでしょうか。そこには、当時(明治時代)ならではの事情が見え隠れしています。
 すなわち、明治時代と言えば「文明開化」。欧米列強から莫大な規模で新規な技術・知識・物品・それらに伴う概念が流入した時期です。そして、外来の概念、つまり「外国語」の単語を日本語へ変換し理解する目的で、「翻訳」という営為の必要性が生じてきます。したがって、子規が上述の句を詠んだ頃、舶来の「ベースボール」関連用語はその訳語が開発され定着する過程にあったと考えられます。後発の訳語「野球」が「ベースボール」よりも意味を取りやすいと言えるほど流通していた訳ではなく、ゆえに上記の俳句でも「ベースボール」が用いられたと推察可能でしょう。
 なお、子規は野球用語の翻訳も数多く行っており、次のような例が挙げられます(公益財団法人松山観光コンベンション協会 2023)。

  Batter→打者
  Runner→走者
  Walk→四球
  Fly ball→飛球

 ただし、「野球」の命名者は、明治〜大正の教育者・中馬庚(ちゅうまんかのえ)という人物だったそう(朝日新聞 2022)。baseballという言葉に対応する日本語は何通りも考案されうるのですから、その無限の可能性の中から現在人口に膾炙している「野球」の語を導き出した中馬の感性には、脱帽です。

 さて、【1つの舶来語に対応する日本語は何通りも考案されうる】という言及。これは〈言語の恣意性〉と関わる事柄であり、その〈恣意性〉こそ、異なる言語間の翻訳を一筋縄ではいかないものにする根源と言えるのです。以降では、こうした言語観を提唱したフェルディナン・ド・ソシュール――スイスの哲学者――の理論に基づいて翻訳行為の原理を検討してみましょう。

ソシュールの構造主義言語学

 ソシュールの提示した言語学は、一般に「構造主義言語学」と呼ばれます。構造主義とは、個人の思考が何らかの「構造」(ここでは言語体系)によって無意識の内に規定されている、と考える立場のことです。
 彼は、言語を〈差異の体系〉――すなわち、差異の「構造」――とみなしました(ソシュール 2016)。つまり任意の言葉は、それが属する言語の中で他の言葉との対比関係があってこそ、初めて特有の意味を有するのです(ソシュール 2016)。身近な例を挙げれば、日本語の「あ」(五十音最初の音)はそれ以外(「いうえおかきくけこ……」)と異なる音を有するが故に「五十音最初の音」として話者に認識されるということですね。ですから、明瞭に「あ」が発音されなかったとしても、聞き手が「『いうえおかきくけこ(以下略)』とは違う発音だな」と判断すれば、その音は「あ」として意味付けされるでしょう。
 上の事例では差異の認識手段として、それぞれの言葉がもつ〈音〉に着目しました。ソシュールも、差異体系の生成は〈音〉に由るものと論じているからです(ソシュール 2016)。ただし彼によると、〈言葉-音〉とそれが指す物(概念)との結びつきには、必然性が無いといいます(ソシュール 2016)。これが前述した〈言語の恣意性〉です(ソシュール 2016)。例えば、英語tableとdeskはいずれも日本語で「机」と認識されますし、反対にwaterは、日本語において温度に応じ「水」とも「お湯」とも呼ばれます。「baseballに対応する日本語が何通りも考案されうる」という先ほどの記述も、これと同じ原理です。以上より、世界の切り分け(=各概念の区別と認識)は〈音〉に従属する、とまとめられるでしょう。とある物は、tableという音があったからこそtableとして理解され、「机」という音が流通していたならば「机」とみなされるのです。
 したがって、一つ一つの語が有する固有の音によって世界は分節され人間の現実認識が可能になるのだから(ソシュール 2016)、異なる言語体系に属する言葉は発音が多少なりとも違う以上、全く同一の概念を指し示す訳ではないと考察可能です。ゆえに、しばしば、諸言語間の翻訳不可能性なるものが指摘されます(西村 2020)。子規を中心に野球用語の翻訳も為された訳ですが、舶来の専門用語とその日本語訳とは、異なる音をもつため別の概念とみなされざるを得ないのです。


4.国立競技場

新国立競技場

 一昨年(2021年)開催の東京オリンピックのため2019年に完成した「新国立競技場」は、日本出身の建築家・隈研吾氏のデザインです。スタジアムのファサードは国産木材の質感を生かした庇の重なりで構成されており、「日本の建築が守り伝えてきた軒下の美」(隈研吾建築都市設計事務所 2023)を思わせます。
 こうした表現から、隈氏は日本の風土・景観と建造物との調和を目指していることが示唆されるでしょう。実際、「調和」は彼の理想とした〈負ける建築〉の中核的考えだといいます(隈 2004)。この〈負ける建築〉、一体どのような概念なのでしょうか。

新国立競技場ファサード
出典:隈研吾建築都市設計事務所(2023)

モダニズムを超えて

 まず、〈負ける建築〉の前提として、モダニティとモダニズム建築を挙げることができます(隈 2004)。モダニティとは、自動車、携帯電話、テレビなど多様な刺激で満たされた都市住民の経験であり、美術史家ジョナサン・クレーリーの言葉を借りれば「置き換わり廃れていく加速的なシークエンスのなかのつかのまの要素」(クレーリー 2005: 23)、すなわち、知覚対象が次から次へと現れては消える「大衆消費社会」の体験です。そこで出現した建造物のスタイルが、モダニズム建築。デザイン性よりも、大量生産――これは消費社会の特徴――に見合った合理性や機能性が重視され、鉄筋コンクリートやガラスを用いた直線/平面的でシンプルな建物が数多く立ち並びました(隈 2004)。この最たる例が高層ビルや戸建て住宅です(隈 2004)。
 そしてそれらを隈氏は、周囲の環境を圧倒する20世紀型の〈勝つ建築〉と批判しています(隈 2004)。その対極にある存在こそが、自己主張を抑え周囲の景色と調和するという意味での受動性に富んだ、〈負ける建築〉(隈 2004)。上で示した新国立競技場も、日本の風土との合致を志向する点で、「負けている」と言えるのです。


5.新宿御苑

新宿御苑の桜とそれを映す池
企画者撮影

概要

 もともとは江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地でした。 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の管理するところとなりましたが、第二次世界大戦後は一般に公開され、現在は環境省管轄の国民公園として親しまれています。

 東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保と583,000㎡にも及ぶ広大な土地を有しており、ヨーロッパ式の整形式庭園と風景式庭園、日本庭園を巧みに組み合わせた庭園が特徴的です。明治時代の代表的近代西洋庭園であり、日本における数少ない風景式庭園の名作としても知られています。

どうして多くの桜があるのか

 新宿御苑には約65種1000本の桜があります。
 そんなに桜があるのはどうしてなのか?
 新宿御苑の桜の歴史は、明治時代に始まった皇室行事「観桜会」(後の「桜を見る会」)をルーツとしています。
 観桜会は、明治14年(1881年)に国際親善を目的とした皇室主催の桜の鑑賞会「観桜御宴」として吹上御所ではじまり、毎年4月に催されました。
 この頃の新宿御苑は宮内省の所管で、皇室献上用の御料野菜や果物の栽培を行っていました。宮中晩さん会の装飾花として、洋ランなどの温室植物の収集、研究、改良が行われたほか、桜や菊など日本の代表的な花き栽培にも力をそそぎました。
 観桜会は、明治16年(1883年)から大正5年(1916年)まで浜離宮を会場としていましたが、明治39年に皇室庭園「新宿御苑」が完成すると、大正6年より新宿御苑で催されることになりました。その後、昭和13年(1938年)まで新宿御苑で観桜会が行われました。
 新宿御苑では観桜会に向けた事業として、大正7年(1918年)より園内の在来種や日本各地の桜の調査を行いました。その後、調査結果を踏まえ、全国各地の県知事に宛てて、各地域の特産品種を中心に桜の注文を行い、大正9年までに約188種1140本の桜が到着しました。
 庭園の誕生から110年以上が経過しましたが、園内には皇室庭園時代ゆかりとされる古木もあり、今も新宿御苑は八重桜が彩るお花見の名所として、国内外の幅広い世代の人々に親しまれています。

新宿御苑の桜のベストシーズン

 新宿御苑の桜のベストシーズンは八重桜が咲く頃と言われています。新宿御苑には約65種1000本の桜がありますが、そのうちのおよそ3分の1が八重桜です(2019年の情報)。約20種の八重桜がありますが、その中で植栽が一番多く新宿御苑の八重桜の顔と言えるのがイチヨウです(日本庭園などで見れます)。

新宿御苑の八重桜
(新宿御苑ホームページより)

イチヨウ(一葉)とは......

オオシマザクラ系統に属するサトザクラの代表的な品種。西日本にはあまり普及しておらず、一般的な知名度は高くないが、関東地方では数多く植栽される。平成31年(2019年)まで総理大臣が毎年主催してきた「桜を見る会」の主役は、このサクラ。

名前は、花の中央にある黄緑色の雌しべに由来する。雌しべは普通1~2本で、花の中から葉っぱが1枚突き出るかのように見えるが、雌しべがまったく見えない花もある。

花は直径4~5センチほどの大輪で、花弁は20~35枚もあり、いわゆる八重咲きになる。枝から垂れ下がるように咲くが、全体に縮れて見えるのが特徴。


★日本庭園と「詫び」・「寂び」

 新宿御苑は日本庭園を擁していますが、こうした庭園を眺め「『詫び』と『寂び』を感じるなあ」と呟きたくなる方もいらっしゃるのではないでしょうか。せっかくですからこの機会を利用して、「詫び」と「寂び」が如何なる概念か、確認してみましょう。
 前者の「詫び」は、千利休が大成させた「わび茶」(茶道)を通して、明確化されました(神津 2015)。無駄な装飾を一切省いた簡素さ・閑寂さの内に見出される美が「わび茶」の肝です(神津 2015)。したがって「詫び」とは、物質的不足の中で感じられる精神の充実を示す語なのです。
 続いて後者の「寂び」は、時代が下って江戸時代、かの有名な俳諧師・松尾芭蕉により重んじられた考えだといいます(向井ほか 1998)。孤独の最中に包まれる安らぎこそ「詫び」です(向井ほか 1998)。
 換言すれば、「詫び」が〈物質の欠如〉へ焦点を当てるのに対し、こちらは生きた人間存在の有無、つまり〈他者の不在〉に着目すると言えそうですね。

新宿御苑内の日本庭園
出典:一般財団法人国民公園協会(2023)


6.国立能楽堂

 能楽と言えば、観阿弥と世阿弥!そして能楽書と言えば『風姿花伝』! 実は、この『風姿花伝』、今回のお花見巡検で触れるに相応しい、〈花〉にまつわる議論を行っています(世阿弥 1958)。
 世阿弥は、演者が観客に与える魅力を〈花〉と表現しました(世阿弥 1958)。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」との一節は有名でしょう。なぜ花が「秘する」かと言えば、それは散った後であっても季節が廻れば再び咲くため、見る人を驚かせるから(世阿弥 1958)。その観点で能楽者も花のように、美しさ(技巧や身のこなし)を奥深く隠しておき、ここぞというときに――舞台上で――発揮すべきだというのです。これは、幽玄――神秘的で深みある美しさ――の論理だそう(世阿弥 1958)。演者は幽玄の境地へ入ってこそ、観客を感嘆させ評価を得られる、と世阿弥は考察したのです。

国立能楽堂での公演の様子
出典:文化庁(2022)


7.代々木公園

代々木公園・桜の園にて
主催者撮影

 現在代々木公園がある場所は、明治時代から戦後日本がGHQに占領されるまで、練兵場として使用されていました。しかし、1964年の東京オリンピック開催が決まると、競技場からほど近いこの地域一帯は選手村として利用されることに。そして、オリンピック終了後はこの場所を「東京唯一の森林公園」に改造する計画が持ち上がったのです。
 計画は1966年から本格化し、5年をかけて植栽運動が行われました。公園外周や内部の中央広場には多くの広葉樹が植えられ、さらに季節ごとの美しさをみせる桜、イチョウ、ヒノキなども植えられました。こうして都内有数の規模を誇る代々木公園が完成。桜の名所となったのもこの頃といえそうです。

 代々木公園は、A地区とB地区という2つのエリアに大きく分けられます。
 A地区には広大な中央広場を中心に、豊かな自然に囲まれた広場が点在。B地区には陸上競技場やサッカー場など、スポーツやイベントを行う施設が集まっています。お花見だけでなく、散歩や運動など様々な楽しみ方ができるのは、規模の大きい代々木公園ならでは。

 代々木公園には約700本もの桜が植えられています。ソメイヨシノを中心に、サトザクラ、ヤマザクラ、コヒガンザクラなど種類も実に様々。これだけの種類の桜があると、満開の時期も少しずつ異なるので、お花見を長い期間楽しめそうです。


8.西郷山公園

西郷山公園の桜
差し込む夕陽が、花弁と幹とのコントラストを際立たせる。
主催者撮影

 西郷という名前がつくだけあって、西郷家とゆかりがあります。明治時代に政府から離れてしまった西郷隆盛を連れ戻すために、弟の従道が現在の西郷山公園がある土地を購入しました。隆盛は薩摩から離れることなく、西南戦争で命を落としてしまい、従道が別宅を建てて暮らしていました。
 従道が住んでいた別宅は壮大な洋館が建ち並んでいました。この別宅は現在は愛知県にある明治村に移築されました。別宅があった跡地は、公園として整備されることになり、1981年に西郷山公園という名前で新たな公園が誕生しました。

 ちなみにこの西郷家、目黒川のところでも出てくるので頭の片隅に入れておいてください。


★本居宣長による国学と、象徴としての「桜」

 ここまで「お花見巡検」と題し都心の花見スポットを概観してきましたが、そもそも季節関係なく日本の代名詞として、「桜」の花が引き合いに出される場面も多々あるでしょう。海外からの観光客向けに作成されるパンフレットやWebサイトには桜のモチーフがあしらわれがちですし、日本の「国花」は慣例的に桜とされているそうです(公益社団法人やまなし観光推進機構 2013)。それほどまでに「日本」と「桜」が結びつけられるようになった一因には、江戸時代に始まる国学と、本居宣長の存在が挙げられると推察されます。

 国学とは、江戸時代中葉に登場した、外来思想(儒教・仏教)を受容する以前の”日本固有”の精神的在り方を探求する学問/思想運動です(芳賀 2017)。その大成者が、『古事記』や『源氏物語』分析に注力した学者・本居宣長でした。彼は自身の研究に基づいて、〈もののあはれ〉に文芸活動・人間性の本質を見出しました(芳賀 2017)。物事に触れたとき沸き起こるしみじみとした感情こそが、〈もののあはれ〉です(本居 2013)。これは、『小倉百人一首』に選出されるような歌を詠む歌人の心情を思い浮かべると、把握しやすいでしょうか。
 さらに宣長は『古今和歌集』・『新古今和歌集』収録の作品群を踏まえ、〈たおやめぶり〉という歌風を定義しました(芳賀 2017)。これは優美で繊細な詠みぶりのことを言い、揺れ動く人間の感性に基づくそうです(芳賀 2017)。この感性が、そのまま〈もののあはれ〉――外界のものに対して感じ入ること――へ繋がると考え得るでしょう。

 前述の通り和歌集の研究にも取り組んだ宣長は、自ら歌を読むことがありました。例えば、以下のような歌が遺されています(本居宣長記念館 2023)。

しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花

(宣長の『六十一歳自画自賛像』に賛として書かれた歌。賛とは、絵とともに書かれた 文/詩/歌のこと)

 「しき嶋の」は「やまと」の枕詞です。また、この歌は「画でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい、と言う質問があった」(本居宣長記念館 2023)という設定の下認め(したため)られており、現代語へ訳すなら――「訳す」と言うと、本巡検冒頭で述べた翻訳不可能性が頭を過るものの、それは一旦置いておきましょう――、次が一例(※巡検企画者による意訳)です。

日本人である私の心の真髄は何かと問われれば、それは朝日に照り輝く山桜の美しさに 感動を覚える、そのありのままの感情だと答えよう。

 上記では、宣長はあくまで自身の所感を述べています。しかし、国学者の筆頭として現代まで名を馳せる彼が「大和心」の核に「桜」を見た点・第二次世界大戦/太平洋戦争期にかけて国家主義の文化的支柱として国学や彼の言説が持ち出された点(三枝 1958)を考慮すると、「桜」の日本的モチーフ化の背後には国学と本居宣長の影響が認められるのではないでしょうか。


9.目黒川

目黒川の桜並木
水面に流水文を描き出すのは花筏であった。

主催者撮影

 目黒川は、東京都世田谷区、品川区、そして目黒区を流れ東京湾に注ぐ約8キロの川で、上流は世田谷区三宿で北沢川(北沢上水)と烏山川(烏山上水)に分かれ、多くの支流も注いでいます。江戸時代には「こりとり川」と呼ばれていたそうです。こりとりは「垢離取り」の意味で、目黒不動尊に参詣に行く際、川の水で身を清めていたのがその名の由来と言われています。

 池尻大橋から目黒新橋を過ぎて亀の甲橋まで約3.8キロの川沿いにソメイヨシノが植えられています。これが目黒川桜並木です。

 そんな目黒川沿いの桜の植樹は昭和2年に始まったとされています。
 川幅が狭く、水深が浅かった目黒川は大雨が降ると川が氾濫するなどの被害が多かったことから、護岸工事が繰り返されてきました。大正期のはじめには治水とともに船が運航できる運河にするための工事が始まり、昭和12年に運河として完成します。この工事によって曲りくねった川の流れは、現在のようにほぼ真っすぐになったとのこと。
 そしてその護岸工事のたびに、地元の有志が工事の記念として桜を植えたのが、今の目黒川の桜並木を生むきっかけとなったそうです。実は最初に桜を植えた際に中心となったのが、西郷従徳(西郷隆盛の甥)なのです。西郷家との意外なつながりがここから分かりますね。
 なぜ護岸工事の際に、桜を植えたのか?それは桜を人々に見に来てもらうことで、踏み固めてもらい、丈夫な堤防を作るためと言われています。
 護岸工事の植え替えでは、 初代が昭和16年、二代は昭和36年、三代目は昭和62年に植えたそうです。
 現在では、約830本ものソメイヨシノが植えられているとのことです。

 ソメイヨシノの寿命は70年ほどなので、樹勢の弱くなった古木から目黒川の桜も順次植え替えをしています。
 目黒区では「目黒のサクラ基金」という寄付を受付し桜の保護や植え替えの事業に活用しているそうです。


10.おわりに

 新宿~渋谷~目黒区と、都心を散歩しながらの「お花見巡検」。
 ソメイヨシノが満開の時期に合わせた開催とはならなかったものの、飛花や花筏、遅咲きの桜、はたまたビル群の狭間に突如出現する公園の緑などなど、参加者の方々にとって表情豊かな自然を堪能する機会になっていればと思います。また、桜と関連するのかしないのか定かではありませんが、所々思想史にまつわる小噺を差し挟ませて頂きました。哲学成分を多少なりとも摂取してもらえたのでしたら、主催者としては嬉しい限りです。
 花見にしては歩きすぎ(?)の向きもありましたから、参加者各位には本行程の締めとして自然でも哲学成分でもなく、ぜひ美味しいものを、堪能して、五臓六腑をフル活用して摂取してほしいなと、願ってやみません!!!

以上、主催者でした。

巡検参加者の集合写真
道中、新宿御苑にて。


参考文献

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正岡子規、1985、『筆まかせ 抄』岩波書店。

松山市、2022、「正岡子規は、いつどこで生れて、いつどこで亡くなった(何歳で、何の病気で)のですか」、松山市ホームページ、2023年3月14日取得。

松山市立子規記念博物館、2023、「正岡子規について」、松山市立子規記念博物館ホームページ、2023年3月15日取得。

明治神宮、2023、「明治神宮とは」、明治神宮ホームページ、2023年3月15日取得。

明治神宮野球場、2020、「球場史」、明治神宮野球場ホームページ、2023年3月14日取得。

本居宣長、山口志義夫訳、2013、『源氏物語玉の小櫛 物のあわれ論 現代語訳本居宣長選集   源氏物語 4』多摩通信社。

本居宣長記念館、2023、「敷島の歌」、本居宣長記念館ホームページ、2023年3月15日取得。

向井去来・中村俊定・山下登喜子、1998、『去来抄――影印/解説/校註』笠間書院。

三枝康高、1958、「新国学と戦争責任の問題」『日本文学』7(1): 63-72。

坂口安吾、1989、『桜の森の満開の下』講談社。

鈴木康史、2016、「明治野球の〈遊〉と〈聖〉」『スポーツ社会学研究』24(2): 21-39。

吉本隆明、2020、『改訂新版 共同幻想論』KADOKAWA。

世阿弥、野上豊一郎・西尾 実編、1958、『風姿花伝』岩波書店。

「【明治神宮外苑】を楽しむならココ! おすすめスポットやイベントを紹介」
(https://thegate12.com/jp/article/383)

明治神宮外苑外苑便り「桜が満開になりました」(http://www.meijijingugaien.jp/gaien-news/2022/032915.html)

「日本で最も有名な桜「ソメイヨシノ」ってどんな花?」(https://livejapan.com/ja/article-a0004907/)

新宿御苑「華やかな八重桜がみごろ♪ 御苑の桜のベストシーズンです」(https://fng.or.jp/shinjuku/2018/04/05/post_1085/)

「桜の開花宣言に使われる標準木とは? ソメイヨシノが標本木に選ばれる理由!」
(https://www.1gardening.net/someiyosino-sakura/)

新宿御苑「まもなく御苑の桜のベストシーズン♪ ふわふわポンポン、八重桜が咲き進んでいます」
(https://fng.or.jp/shinjuku/2019/04/11/post_1458/)

新宿御苑「新宿御苑について」
(https://fng.or.jp/shinjuku/gyoen/)

「【代々木公園】で桜を楽しもう! オススメお花見スポットや見ごろを紹介」
(https://thegate12.com/jp/article/364)

「西郷山公園は桜の名所でも有名なおすすめスポット! 見どころやアクセスも紹介!」
(https://travel-star.jp/posts/21401)

東京GOOD!#109 「目黒川を彩る桜の歴史」
(https://youtu.be/J99itCUeF8g)

「目黒川の桜って何故植えられるようになったんでしょうか?」
(https://www.anfang.co.jp/2018/09/593/)

「春の目黒のランドマークとは? 今や「桜」が代名詞となった目黒川へ」
(https://jonan.i-nest.co.jp/364/)


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