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エリオット・ロジャーのマニフェスト邦訳プロジェクト_パイロット版②第二章『アメリカでの成長』

マニフェストのパイロット版の続きを公開します。

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パート 2
『アメリカでの成長』 5-9才

 飛行機に乗るのは、世界をまたぐ次元移動みたいだった。僕はまったく新しい世界に飛込もうとしていた。まったく新しい生活。でも、そのときの小さな五才児だった僕の頭に、そんなことは関係がなかった。その移動のあいだのほとんどを僕は寝ていた。窓の外をみたら、眼下に広大な雲が広がっていたのをおぼえている。まるで陸塊のようなそこに降り立って駆けだしたら、どうなるだろうと考えた。すぐにすとんと落っこちてしまう事実には気がつかなかった。
 アメリカについたら、僕はへとへとだった。旅行カバンを回収してから、お父さんが借りた、あたらしいSUVに積込んだ。空港から運転して出ても、まだ僕にとってアメリカのイメージは新鮮だった。アメリカでのあたらしい生活の第一歩だったとよく思い出す。
 新居についたときの僕はすごく眠かったけど、それでも家じゅうをみて回るのをいとわなかった。新居には一部の家具が備え付けられていて、ソファとテレビがすでにあった。最初に僕たちがやったのは、映画を観ることだった。映画は『インデペンデンス・デイ』。途中のいくつかの部分で寝てしまったけど、なんとかだいたい観ることができた。
 明朝、僕はエナジーに満ちていた。勢いよく階段を駆け上がって、僕のあたらしい部屋を物色した。自分のものにしたい部屋を決めるまえに、全部の部屋をみた。お母さんに決定を伝えると、僕がえらんだ部屋は妹のジョージアのものになると決まっているといわれたので、ちょっとムッとしたけど、けっきょく隣の部屋に落ち着いた。
 家はかなり大きかった。白い壁。プールがある門付きのエリアにつづく、美しい裏庭。ウッドランドヒルズの高所得者層のための地区に位置していた。ウッドランドヒルズの町は、僕が生まれ育った町であり、人生で重大な意義がある。人生の経験の大部分が、良いことも悪いことも、この町でおこった。初めてその名前を口にしたときを思い起こすこともできる…ウッドランドヒルズ…僕のあたらしい故郷。

 素敵な新居に腰を据えてからすぐに、カリフォルニアならではの問題に悩まされた。それは地震である。お母さんが真夜中にとび起きて、僕たちは台所のテーブルの下に隠れた。実際のところ、地震は微小なものになっておわった。そのあとの余震にいたってはもっと小さかったけど、僕はまだ怯えていた。地震を体験したことが一度もなかったので、リトルフッドの映画『The Land Before Time.』でみた巨大な大地の亀裂だけが地震のイメージだった。この体験のあとから、地震を一般的なたいしたことのない障害とみなすようになった。

 そういうわけで、僕は幸せで愉快な人生を生きていく五歳の少年になって、あたらしい旅に船出した。アメリカ合衆国で成長する旅へと。その見通しに熱い高まりを感じた。僕は今や、自分は”アメリカ人の子供”だと自覚しはじめて、両親にもそう宣言した。アメリカのテレビ番組に慣れて、アメリカのアクセントを自分のものにしはじめた。あたらしい人生を楽しみにしていた。
 まもなく僕は学校に入学した。お父さんは渡米後に大がかりな学校探しをして、シュープ通りに『パインクレスト』という、小さな私立学校をみつけた。そこで僕はまず幼稚園に入ることになった。パインクレスト…そのとき五才の僕はこの場所がどれほど僕にとって重要な場所になるか、想像できなかった。人生のおおきな転回点が、ついにはそこで巡ってきた。人生を悪化させる悲劇的な展開がそこで。でもそれは後でおこる。十歳から十二歳の、僕の物語のもっと暗い章で。今は、人生を目いっぱい楽しんでいる幼稚園児だった。
 パインクレストの幼稚園は、あまりうまくいかなかった。引っ越しのために二か月も学業が遅れている僕にいらだつ、とても嫌な先生がいた。休み時間も、みんなに追い付かせるために、僕を教室に拘束して追加の課題をやらせた。両親もこの先生が好きでなかったし、両親の友だちが僕のためにほかの学校を勧めた。それは『農場学校』という私立学校で、付属している農場にちなんで名づけられた。パインクレストに入ってからたった二週間後に両親が僕をそこから連れ出して、六年後にパインクレストの中学校に行くまで、戻ることはなかった。
 農場学校での初日はよいスタートになった。二人の先生がいて、ほかの子供たちに僕を紹介するために尽力してくれた。僕のために学校の案内をさせるために先生たちが特別に割りあてた、ジョーイという男の子がいた。彼は最初は親切だったけど、すぐに目の上のたんこぶになっていつも喧嘩するはめになり、それ以来は学校で最大の敵になった。

 アメリカでできた最初の親友はマディ・ハンフリーズという女の子だった。皮肉じゃありませんか?アメリカでできた最初の友だちが女の子だったなんて!彼女は僕に今までできた一人目の女友達であり、最後の女友達になるだろう。マディと僕は農場学校でいっしょに遊び始めた。やがて、僕の両親は彼女の親とすごく仲がいい友だちになった。マディのお父さんは有名な英国のミュージシャン、ポール・ハンフリーズであり、お母さんはモーリーンといった。僕たちはたんに”モ”と呼んでいたけど。彼らはヒドゥンヒルズでいい家に住んでいて、僕たち一家はよくいっしょにバーベキューと夕食をごちそうになった。
 僕はおない年の女の子と遊ぶ五才の少年で、ほかの普通の少年のようにしていた。人生を楽しんでいて、世界を愛していた。幸福で、この世界で僕の将来が女の子たちのせいで暗黒と不幸に落ちていく現実にまったく気づいていなかった。僕の友だちだったこの少女、マディ・ハンフリーズはやがて、僕が憎んで目を背けるすべてを象徴するようになる。僕に敵対するすべて、そして僕が敵対するすべてを。すべての子供が遊ぶのと同じように、僕はこの少女と無邪気に遊んだ。いっしょに風呂にすら入った。それは同い年の裸の女の子をみた、人生で一度きりの機会だった。彼女との友情のなかで体験したことをかんがえると、すべての子供たち、少年少女が同じところから出発する事実に不吉な思いを抱かせる。僕たちは無邪気に、そしていっしょに出発する。成長の経験と状況をとおして、僕たちは別れて漂流し、忠誠を形成して、敵として対面する。それは戦争が始まるときであり、人間の本性が地表で鎌首をもたげるときである。人生のこの局面にあたって、もちろん僕の戦争はまだ始まっていなかった。始まるまで長い時間がかかる。世界について心配せずに人生を楽しみ、僕の楽しみのすべてが塵になって失われるように運命づけられていると知らなかった。

 農場学校での幼稚園時代は刺激的な新しい体験に満ちていて、成長途上の少年にとって健康的だった。友だちがいて、プレイデート(playdate 訳注:子供同士が遊ぶ約束をしていっしょに遊ぶこと。児童にたいする親の管理が厳しい米国では、保護者同士の手配と監視のもとで実施されるプレイデートが一般的におこなわれている)をして、ジョーイと何度も衝突しながらも、ほかの少年と学校で社交して。休み時間にほかの男の子と揉めて校長室に送られたことが一度あった。学校でそんな騒動に巻き込まれたことはなかったので、緊張と恐怖に圧倒されて一時間も泣いたのをおもいだす。芸術と工作の時間がとくに楽しかった。クラスで学校の農場に行くのも大好きだった。
 明るく楽しい学年を終えて卒業するときが来た。式典で角帽をかぶりながら、誇りで胸をふくらませた。学校がとても大好きだったので、そこを去るのが哀しかった。幼稚園が終わってすぐに、僕は小学校に入ることになる。
 六つの誕生日がまもなく来た。お母さんが僕をよく連れていった遊戯施設でディズニーをテーマにしたパーティーが準備されて、農場学校のみんなを招待したら、ジョーイを除く、すべての男の子と女の子が来た。学年の間中に僕にした意地悪への報復として、わざとジョーイを省いたのだ。そうすることで満足を覚えた。
 パーティーは盛上がって、魔術師マーリンに扮した男が祭りを主催していた。魔術師の帽子をかぶりながら、誕生日の食卓の端に僕は座っていた。誕生日ケーキが僕にささげられると、息でろうそくの灯を吹き消して高揚と歓喜でいっぱいになった。人生はすばらしかった。

title->六才

 人生のこの歓喜の時期で、日中のお気に入りの時間は公園の午後のおでかけだった。たとえばセラーニア公園。この公園はきれいで緑が多くて、芝生をコンクリートの小道が貫き、僕たち子供がたわむれる遊び場があった。
僕はいつも滑り台に熱中して、ときどきブランコのところにいった。お父さんが僕を押してあげなければいけなかったけど。僕より年下なのにブランコに一人で乗れる少年たちにジェラシーを感じたのをおぼえている。それは自分の身体能力の欠如にきづいた二度目だった。その自分の欠点にうっすらと気づいた一度目は、ドーセットハウスでの惨憺たるサッカーの試合だった。
 最終的に、ブランコをどうやって自分で漕ぐか、お父さんが教えはじめた。いくらかの練習を経て、僕はできるようになった。それ以来、セラーニア公園の遊び場のそのブランコで、黄昏の時間までいつも上へ下へと飛んでいた。

 僕は年齢に比して、とても小さくてチビだった。このことを、幼少期のはじめにはまだ重大だとしていなかったけど、僕たち一家がユニバーサルスタジオに遊びにいった日に、現実が完全に明らかになった。そのころの僕は恐竜に夢中で、取り憑かれていた。ちょうど『ジュラシックパーク』の映画を最近観たばかりで、『ジュラシックパーク』をテーマにした乗り物がユニバーサルスタジオにあるのに気付いた。僕は乗るのが待ちきれなかった。列に並んで一時間も待った。僕たちの番がくると、スタッフが測定棒を僕に当てたが、僕は要求に満たなかった。僕の年頃のほかの男の子たちは乗れたのに、僕は小さすぎたので拒否された! テーマパークであんなに楽しみにして焦がれていた乗り物が、僕には禁じられた。すぐに僕が泣いてかんしゃくを起こしたので、お母さんが慰めなければいけなかった。
 身長のせいでアミューズメントパークの単純な乗り物への入場が拒否されたのは、ちっぽけな不正のようにみえるかもしれない。でも、その時の僕にはおおきかった。小さなことだったと今の僕は知っている。この不正は、僕が将来、身長のせいで拒否される数々の事案にくらべれば、ほんとうにとても小さなことだった。
 僕たちは『E.T.』の乗り物に挑戦しにいった。そっちは僕を乗せてくれるから。しかしながら、行列に並ぶエリアの暗い雰囲気と、たちならぶ機械仕掛けの宇宙人の像がこわくて僕を地獄に叩き落したので、悲惨な時を過ごすはめになった。乗り物にやっと乗れるころには恐怖で泣いていたけど、乗り物は最後までのどかで気楽なアトラクションだったので、やがて落ち着いた。

 ハンフリー家と集まるのはいつも楽しかった。この集まりは生活で一般的な出来事になった。マディは僕のとても親しい友だちになった。彼女は、農場学校を卒業してから会い続けるたった一人の友だちだった。彼女の家は広大な裏庭を持っていて、僕と彼女は二人で冒険に出かけた。彼女もリトルフットの『The Land Before Time』を観て育っていて、続編がリリースされるたびに僕たちはいっしょに観た。彼女の家に行くとほかの女友達もそこにいることがあって、その子たちともいっしょに遊んだ。その年齢のころは女の子と交流することに問題がなかった。驚くべきことですが。六歳の自分は、女性の性が人生の後半にもたらす恐怖と悲惨さを知らずに、少女たちと遊んでいた。今日においては、この少女たちは僕を地面のくずのように扱うだろう。でもあの頃は、僕たちはみんな平等だった。なんて苦い皮肉。

 最初の学年がはじまるときになった。両親は僕を、セラーニア公園のすぐそばのセラーニア通り小学校に入れた。けれども、この学校には長く留まることはない。数週間のうちに、両親はトパンガ小学校に転校すると決めたから。
 セラーニア通り小学校の子供のほとんどは、すぐ近くのタフト高校にいくようになるだろう。将来の僕に大いなる苦しみをもたらす場所に。セラーニアの僕のクラスの子供の何人かは、タフトで僕をいじめる奴らになるのかもしれない。僕のクラスの子はだれもタフトで思い出せなかったので、その答えを知ることは決してない。考えるのがすこぶる鬱陶しいことだ。
 セラーニアでほんとうに短いあいだ楽しんだ。両親はときどき、授業がおわってから一時間くらい学校に僕をとどめた。僕が友だちを作りやすくなると両親が図ったのだと信じている。この放課後の遊び時間は有意義な体験だったと記憶している。ほかの子供たちと遊べる機会がかならずあった。こういうわけなので、セラーニアに落ち着いてからたった二週間で別の小学校に移されると両親から聞いたときはすこしムッとした。その怒りはすぐにやんだ。なぜならば、トパンガ小学校で過ごした年月は人生で最高の時期になったから。のんきな子供でいられる最後の時期。

 トパンガに引っ越す準備をする二週間前に、トパンガ小学校で最初の学年をはじめた。トパンガはサンタモニカ山脈を貫く峡谷を囲む、人里離れた山岳地帯のコミュニティであり、サンフェルナンド谷とパシフィックコーストハイウェイのあいだに位置していた。僕たちは、浜辺に遊びに行ったときに数回ここを通過しただけだった。特有の粗削りな美しさがあった。
 トパンガ小学校での初日に、僕はとても緊張していた。第一学年がはじまってから一か月くらいたっていたから、僕は学校で”新入りの子”になるだろう。お母さんが学校に通じる急な道を運転して連れていってくれるときに、緊張が体をわしづかみにしたのを覚えている。僕たちが中庭を歩いていくと、僕のあたらしいクラスはちょうど一日を始めるために整列しているところだった。僕の先生のマツヤマさんは、とても親切で理解がある人だった。お母さんがさよならをいって、僕はほかの生徒といっしょに並んだ。僕が最初に会った子供はブライス・ジェイコブスという名のぽっちゃりした少年で、不思議そうな目で僕をみつめていた。
 クラスにつくと、マツヤマ先生は僕を案内して学校に慣れさせるために、生徒の一人を手配した。この生徒こそ、フィリップ・ブロウザーに他ならなかった。フィリップはいつも、年相応の分別があって、初日に僕に良くしてくれた。彼はトパンガ小学校で最初の友だちになった。
 その日はおおいに楽しい一日になった。授業はそれほど退屈ではなく、たのしい美術と工作の活動をした。休憩時間とランチタイムには、上級生の遊び場と下級生の遊び場とがあった。一年生と二年生は下の遊び場に行き、三年生、四年生、五年生は上に行った。下の遊び場はちいさかったけどいい設備があった。とくに側面にある傾斜した丘では、その丘の上にあるホコリのようなゴミで僕が即席で創造した”ホコリ蹴り”をやりながら上へ下へと走るのがたのしかった。お母さんが僕を連れ帰るためにきても、あまりに楽しくて帰りたくなかったのを思い出す! それが初日である。以前には、学校で過ごした後は早く帰りたがっていた。
 送り迎えのドライブは長かった。あるいは、少なくとも六つの僕には長く感じられた。ドライブ中のお気に入りのパートはトパンガから谷への急降下だった。最後の丘を越えると、僕たちの前にひろがる広大な谷の眺望は息をのむほどだった。あたらしい家に引っ越すまえの数週間、トパンガキャニオンの曲がりくねった道を毎日そうやって往復した。あるときはお母さんが迎えに来て、あるときは乳母が迎えに来た。彼女は短い間しかいなかったので、僕はこの乳母の名前をおぼえていない。

視界に入った瞬間にあたらしい家が大好きになった。トパンガの大半を占めるバレービュードライブから道を上ったところにある、うつくしくて丸い木造の家。二階建てで、水泳プールと、緑豊かな山々が望めるすてきなデッキがあった。僕はすぐに”ラウンドハウス”と名付けた。ウッドランドヒルズに行くためにこの家を出るのが哀しかった。僕たちの、アメリカで最初の家。マディやほかの友だちと遊び、プールで泳いで、のんきな幼年時代をワクワクしながら長い時を過ごしたセラーニア公園に近いそこで過ごした、すばらしい時間を惜しむ。それでも、僕たちのトパンガのあたらしい”ラウンドハウス”は、ふさわしい代替品に取り換えられた。
 ラウンドハウスでの僕の部屋は、前の部屋とくらべるとちょっと狭かったけど、とても居心地がよかった。引っ越してすぐ、アー・マーがイングランドから訪ねてきて、僕が大好きなピーナッツクッキーを焼いてくれた。そこでの生活の駆けだしに、とても幸せなときを過ごした。
 お父さんのあたらしい監督のキャリアもまったくもって順調に進んでおり、一流企業のコマーシャルの監督をするためになんども家を離れて、母と乳母に僕の世話を任せた。この生活のただ一つの欠点は、お父さんが僕の生活から欠席したことだが、にもかかわらず、僕は彼を頼りになる立派な男だと尊敬した。

トパンガでのあたらしい環境になじむのは、僕にとってじつに容易いことだった。とりわけ、学校が非常に楽しくなってからは。僕はいまやトパンガの子供だった。学校の休み時間のときに、僕みたいにほこりを蹴って遊んでいる、すこし長めの金髪の少年に気づくようになった。彼に会うまえに、彼のヘアスタイルのせいで王様みたいな風貌に、心の中で”アーサー王の子”とあだ名をつけていつも呼んでいた。僕たちの”ホコリ蹴り”の遊びがたがいに出くわすのは時間の問題だった。それから僕たちは、組んでいっしょにこのゲームをやりはじめた。長くて興味深い友情のはじまりがこれである。この少年の名前はジェームズ・エリス。人生の次の十四年間のあいだ、最高の友だちになった。
 ときには、僕たち二人はフィリップ・ブローザーとほかの少年たちと混じって、ハンドボールや戦争ゲーム、鬼ごっこをしてたのしんだ。
 まもなく、ジェームズ・エリスと頻繁にプレイデートをするようになった。彼の家は僕の家から丘を下ったすぐのところにあった。ジェームズのお父さんの名前はアルテで、お母さんの名前はキム。二人とも、僕のお母さんの最高の友人の一人になった。

 クリスマスがあっという間にきて、僕はプレゼントとして初めてのゲーム機をもらった。それはニンテンドー64! これまで僕は、ビデオゲームについてあまり知識がなかった。ビデオゲームが何であるか、ほとんど知らなかった。お父さんこそが、それを僕に教えこんだその人である。ニンテンドー64といっしょに、お父さんは『Star Wars: Shadows of the Empire』と『Turok: Dinosaur Hunter』というソフトを買った。このあたらしい形態のエンタテインメントに僕は夢中になり、お父さんと僕はビデオゲームの遊びをとおして絆をはぐくむことになった。
 もちろん、こういうビデオゲームをやっているあいだ、無邪気で幸福な僕は、ビデオゲームが僕の人生の大部分ではたす重要な役割を知らなかった…そして、この世界の残酷さにたいして、そういうゲームがやがて僕に聖域を提供することを。今のところは、ほかの一切のおもちゃとおなじような娯楽の一形式にすぎなかった。

ラウンドハウスでの生活はうまくいってたけど、まもなく僕は、お母さんとお父さんがよく口げんかをするようになるのを目撃するはめになった。そのときの僕は、彼らがなんで言い争っているのか理解するには幼すぎて、けど彼らがうまくいっていないことには気づいた。それは実際、まったく大した心配の種にはならなかった。なぜならば、僕の生活のほかの面はすべて素晴らしいものだったから。
 毎週ジェームズ・エリスとプレイデートをした。僕たちは近所に住んでいたから、ジェームズが放課後に訪ねてきて驚かせることもあった。彼の弟のジェフリーにも会った。フィリップの母親も、僕のお母さんといい友だちになった。フィリップは、僕たちの家より道を上がったところの、トパンガ山脈の驚異の眺望を提供するデッキがある、かっこいい家に住んでいた。

ある時点で、両親が別れる可能性を僕は知った…離婚…もう一緒に住まないこと。その見通しは、僕のちいさな心を途方に暮れさせた。外のデッキにお母さんといっしょに座って、お母さんとお父さんはいつか離婚するのと聞いたことがある。そんなことはおこらないわといわれた。そして、僕が心配することはなにもないの、と。それで僕は安心した。僕はほとんど知らなかった。それはたった数か月のうちに起ることを。

 僕の一年生は上々でおわった。二、三人の継続する友だちができて、トパンガ小学校で愉快に過ごした。僕は自分のことを善良でお行儀がいい生徒だとかんがえていたので、何回かトラブルに巻き込まれたときにちょっと失望した。僕のクラスには、悪いことをした子は緑のカードを黄色のカードに替えられて、さらにいたずらをすると赤いカードに替えられるシステムがあった。僕は自分がカードを交換されてしまうことはけっしてないと信じていたのに、些細なことで何回か黄色のカードに替えられた。一年生が終わったとき、二年生ではぜったいにカードを交換されてしまわないようにしようと決意した。
 学校の最後の日のあとは、一年の一番好きな期間、ながい夏休みを楽しみにしていた。。両親が僕をサマーキャンプに参加させたときに、ちょっとがっかりさせられた。お父さんは仕事のためにずっと出かけなければならず、お母さんは赤ん坊のジョージアの世話をするために時間を割く必要があった。サマーキャンプはそれほど悪いわけではなく、僕はいくらかたのしめた。四学年のうちの一年生で構成されていて、いろいろなゲームをしたり映画を観たりしてあそんだ。

title->七歳

 両親が一緒にいた最後の記憶は、僕の七つの誕生日だった。僕はいつでもその記憶を大事にしている。七つの誕生日のためにパーティーは開かれなかったけど、小さなランチの集まりがあった。マディとハンフリーズが僕たちの唯一のお客さんだ。その頃の僕のお気に入りのレストラン『Gladstones』でお祝いした。パシフィックパリセイズの砂浜のすぐそばにあって、僕は大好きな食べ物、ロブスターにありついた。
 僕たちみんなにとってとても幸せな日だった。僕は七つになった。僕のちいさな心には大きな数だ。この最高に面白い世界で七年もすごして、人生はよいスタートを切っていた。僕には愛すべき両親がいて、ともに遊べる友だちがいて、学校も楽しくて、小さな少年が欲しがるおもちゃが全部あった。知らない人がこの七才の少年をみたら、心配事がない、最高の人生を眼前で生きているとおもうだろう。いかにも、心配することがあるべきではなかった…それでも僕はただの子供だった。この”最高に面白い世界”が、現実にはいかにねじれていて残酷かを最終的に見出すまで、無邪気で祝福されたままで人生を楽しむことができる数年がまだ用意されていた。
 両親はその日、たのしそうにみえた。彼らが笑ったりして愉快に過ごしていたのをおぼえている。それが、彼らがいっしょに幸せに過ごしていたのを思い出せる、最後の日になった。ほんとうは愉快でなかったのかもしれない。僕の前でとりつくろっていただけなのかもしれない。それで僕は誕生日が楽しめた。両親が別れる可能性を察することすらできずに。

 七つの誕生日からあっという間に、ニュースが来た。お母さんとお父さんが離婚していると僕に告げたのは、たしか母だった。たった数か月前にそんなことはおこらないと僕にいったお母さんが。僕は完全にあきれて、腹を立て、そのうえ打ちのめされた。
 お父さんはラウンドハウスにとどまり、お母さんはトパンガのいまより小さい別の家に引っ越す。僕と妹はふだんお母さんと暮らして、週末にお父さんの家にいくよう決まった。
お父さんが子供の養育費をお母さんに支払うよう命じられたので、彼女は僕たちを養うことができる。
 僕の生活はこのあと永久に変わることになる。僕が育った家族は半分に分割されて、それ以来僕は二つのことなる世帯で育つことになる。泣いたのを覚えている。僕が自分のお母さんとお父さんと家族として過ごした、幸せな時間は去っていって、記憶にのみ残るのだ。それはとても悲しい日だった。ちょうどアメリカへの引っ越しのように、全くあたらしい生活があたらしいルーチンではじまるのだ。

 家族を半分に割ることで味わった最初の悲しみとは裏腹に、あたらしい生活の状況はそれほど悪いものでなかった。お母さんとお父さんと別々の家で暮らしているのに、実質としてはいまだ同じ生活だった。
 お母さんのあたらしい家は小さくて、色が赤かった。トパンガキャニオンのブールバードから急な私道を上ったところにあって、”レッドハウス”と僕は呼んだ。その時点で僕が住んだ家のなかでは一番小さい。寝室が二つしかなくて、妹のジョージアと部屋をシェアしなければいけなかった。二段ベッドを用意して、上の段に僕が寝た。もっと大きな家で自分だけの部屋を持つことに慣れていた僕は、この変化が最初はいやだった。それでも、お母さんの優しさと愛情がこれを埋合せて、そこで暮らすことを僕が楽しめる面白い環境に家庭をかえた。
 お母さんの家ですごす一週間目のあと、お父さんが週末に僕と妹を連れていくためにきた。ジョージアはこの週のあいだにお母さんにずいぶん懐いていたので、車で出発するときにワッと泣き出した。僕も毎週家から家へ移らなければいけないことが少しつらかったけど、すぐに慣れてしまった。
 ラウンドハウスは、お母さんがそこにいないとだいぶ違った。入ったときに、お母さんとお父さんが一緒にいたときの生活を思い出したので、忍び寄ってきた悲しみの波におそわれた。家が思い出に満ちていた。過去に失われた、幸せで明るい記憶。お母さんがそこにいないと、荒涼とした喪失の感覚がその場所にあった。お父さんは僕を元気づけるためにベストを尽くした。彼も、最近の出来事にとても悲しんでいたにちがいない。
 お父さんはまもなく、ラウンドハウスの部屋の一つを親友のダン・ペレリに貸した。ダンは、アメリカでお父さんに最初にできた友人の一人である。財政問題に見舞われるまで、僕たちの家の近くのウッドランドヒルズに前は住んでいた、というのは、彼がお父さんの部屋を借りはじめるに至った理由を僕が推測している話である。僕はいつも彼のことを”ダンおじさん”と呼んでいた。これ以来、ダンおじさんは数年間、僕たちの同居人としていっしょに暮した。

 二年生がはじまる時がきた。あたらしい先生の名前はミセス・ワイスバーグといって、非常に親切な人だった。クラスの生徒のほとんどは一年生と同じで、一人か二人の生徒だけがあたらしく別の学校から転校してきた。
シェーンとトミーのような、あたらしい友だちが何人かできた。
 ジェームズ・エリスが二年生ではトパンガ小学校に来ていないのに気付いて、とてもがっかりした。事実、彼の家はトパンガを出て、パシフィックパリセイズに引っ越していた。彼らの友人、レメルソン氏から家を借りて。

 お父さんがラウンドハウスに留まったのは束の間だった。離婚にくわえて一時的な経済的困難に苦しんだので、彼はオールドトパンガキャニオンのより小さい家に引っ越すときめた。とても急な引っ越しで、僕は二度とラウンドハウスにいくことができなかった。ある日、お母さんのところから僕と妹を迎えにきたら、あたらしい家に連れていった。それでおしまい。
 その家は小さくて、トパンガ山脈のより田舎のほうにある二階建ての家だった。二階部分は寝室と浴室しかなくて、そこはダンおじさんに貸されていた。家の外の周りには、とても小さな丘と山に続くハイキングコースがあった。”ビッグロック”と呼ばれる、巨大で堂々とした岩が丘を見下ろしていた。はじめてビッグロックをみたときは、いつかこの上に登ってみせると誓った。
この新しい環境が好きになって、週末にお父さんのもとに行くたびに、かならず外に出て探検と冒険をしていた。この人里離れた場所には、発見されるべき新しい場所がかならずあった。でも、コヨーテとピューマが危ないので荒野のあまり深くにはいかなかった。

 七つの誕生日からたった二か月後に、とても重要であたらしい人が僕の生活に現れた。ある日、お父さんが僕を学校から家に連れてきたら、黒髪と色白の肌の女の人が台所に立っていて、ソウマヤと名乗った。彼女は僕の継母になるのだ。これから僕たちと一緒に暮らすことになるとお父さんから聞いた。はじめは、ダンおじさんとおなじように、彼女はただの友人であり一時的に家にいるだけだとおもった。お父さんはお母さんと離婚してすぐに、僕に気づかれもせずにガールフレンド(訳注:girlfriend は日本語でいう「彼女(恋人)」の意である。男性の女友達の意味では使われない)を作っていたのだ。理解できなかった。それでも、ソウマヤは本当に彼の”ガールフレンド”であり、
 お父さんとお母さんがいっしょになったのとまさに同じように、彼らはいっしょになるのだとすぐに理解した。それは”ガールフレンド”という概念をおぼえた最初であり、把握するのがむずかしかった。それ以前には、男と女は同棲するまえに作法として結婚しなければならないとずっと信じていた。そして、そういう和合がおこるには長い時間がかかると。お父さんはこんなに短い時間であたらしいガールフレンドをみつけて、僕を困惑させた。完全にあっけにとられた。
 お父さんがあたらしいガールフレンドを獲得したせいで、お父さんは女性たちにとって魅力的な男なんだという印象が、僕のちいさな心に残った。彼は、お母さんと離婚してからあんなに短い期間で、あたらしいガールフレンドをみつけることができたから。このせいで、僕は無意識に彼にたいして、ますます尊敬を抱いた。この現象がどう作用するのか非常に興味深い…女性の配偶者をたやすく見つけることができる男性は、仲間の男性から、そして子供たちからも尊敬を集める。簡単にガールフレンドをみつける、そういう男性の一人であるお父さんに、僕という全生涯を通じてガールフレンドを見つけるのに苦労する息子がいるのはなんという皮肉だろう。
 ソウマヤがお父さんの家庭の一部になることにはすぐに慣れた。彼女はモロッコ国のとても著名な家族であるアカボーン家の出身だった。彼女が家族の一員になったはじめの時期には、僕たちはうまくやれていて、彼女はほんとうにおもしろい人だった。でもすぐに、僕が味わったことがない厳しいやり方で僕をしつけはじめた。彼女は僕のほんとうのお母さんではないから、そんなに厳しい仕方で僕をしつける権利はないと感じていたので、僕ははげしく反抗した。それが衝突がおこった最初である。後年、さらにたくさんの衝突が発生することになる。

 ソウマヤの追加にしたがって、二人のあたらしい乳母が加わった。一人目の乳母はセリーヌというフランス人の女性だったけど、彼女がいたのは短かったのであまり記憶に残っていない。二人目の乳母はドイツ人の女性でクリスティンという。クリスティンは一年間いて、僕はとても彼女になついた。彼女は僕がお父さんの家にいるときにいつも世話をしてくれて、丘へ冒険に出かければ、必ずついてきてくれた。

 この年のハロウィンは、初めてトリックオアトリートをしにいった記念になった。お母さんが僕の友だちのシェーンの家に連れていってくれて、シェーンの家の近所を歩き回ってお菓子を集めた。僕はいまだに恐竜に取りつかれていたので、ハロウィンのために恐竜の仮装をした。トリックオアトリートはイングランドでポピュラーでなかったので、僕にとって目新しかった。すべてが終わってしまうと、自分がどっさりとお菓子を持っているのでびっくり仰天した。

 ジェームズ・エリスはもはやトパンガ小学校に通っていなかったのに、まだ最高の親友だったのでなんども会った。お母さんが毎週のように、パリセイズにあるジェームズの家に僕を連れていって、そこで僕は彼と遊び、ジョージアはジェームズの妹のセージと遊んだ。彼は、その時代の多くの子供を魅了した新現象の『ポケモン』について僕に興味を持たせた。
 はじめてのゲームボーイを手に入れて『ポケモン』の赤バージョンをプレイし始めたら、たちまち夢中になった。それからポケモンカードも集め始めて、いつもジェームズと見せあったり交換したりした。『ポケモン』のアニメがお気に入りのテレビ番組になった。とても面白くて、魅惑のおもちゃ、そして学校のすべての少年がポケモンカードのフォルダを持っていて、所有したり見せびらかしたり、それについて話すネタになった。シャイニーのカードが一番人気で、喉から手が出るほどにみんなが欲しがった。

 お母さんがまだジョージ・ルーカスの友だちだったので、『スターウォーズ エピソードⅠ ファントム・メナス』のレッドカーペットの試写会に僕たちは招待された。僕はスターウォーズの大ファンだったし、これからもそうだ。オリジナルの三部作はすでに何度も観ていて、あたらしいスターウォーズの映画の試写会にいけるなんて、僕はなんてラッキーだとよろこんだ。
 それはまったくもって驚異的な体験だった。行ったのは僕とお母さんだけで、ジョージアは幼すぎたのでベビーシッターといっしょに家にいた。エピソード1は三作の前日譚のなかでは出来が悪い映画として悪評があるけど、ただの子供の僕はすごく楽しめた。観了ったら映画の俳優たちと会って、アナキン・スカイウォーカーを演じたジェイク・ロイドと握手した。

 僕の二年生はそよ風のように過ぎた。あまり多くのことはおぼえていないが、一つの災難におそわれた。休憩時間と昼食のあいだ、僕はよくシェーンとトミーと遊んだ。僕たちはゲームボーイでポケモンをして、プレイデートでニンテンドー64のゲームをすることもあった。『バンジョーとカズーイの大冒険』『スーパーマリオ64』『ドンキーコング64』。
 学校のルールを破ってカードを取られまいとする目標が達成できなくて、とてもがっかりした。学年の間ずっとカードを取られなかったが、年度がおわる間際に、隣に座っているダニー・ダヤニという友だちとクラスでおしゃべりしているところがみつかって、黄色いカードに交換されるはめになった。クラスでいつも話しかけてくるダニーに文句をいったが、それでもカードは戻ってこないのだ。
 目まぐるしくて楽しい一年が過ぎて、僕の八つの誕生日といっしょに夏があっという間にきた。八つの誕生日は、落ち着いてるけどいい感じのお祝いになった。お母さんが二年生のクラスから友だちを数人呼んで、いっしょにケーキを食べたのをおぼえている。週末のお父さんの家では、お祝いのためにサンタモニカのレストラン『タイフーン』に家族全員で行った。ちいさな空港の隣にある素敵なレストランで、いろんなエキゾチックな料理に挑戦した。

title->八才

僕がもう八つになったので、お父さんは”ビッグロック”に登るのにじゅうぶんな歳だと判断した。お父さんの家にいるときはいつも、遠くにそびえたっている”ビッグロック”に登りたくてうずうずするばかりだった。すでにこのあたりの岩はすべて征服した…残っているのは”ビッグロック”だけだった。そこでお父さんとお父さんの友人といっしょに、ついに”ビッグロック”の上に登るために出発した。クリスティンといっしょに半分まで登った。非常に急な傾斜があって、助けがなければ上がれなかった。旅の後半はほんとうに苦労したけど、僕はとっても爽快だった! 高くのぼるほど興奮した。最高の瞬間は、もちろん、てっぺんに上がったときで、達成感があった。僕はとうとうやり遂げた!見下ろすと、トパンガキャニオン地域の広大さがわかった。お父さんの家はちっぽけに見えた。おっかなびっくりでてっぺんの端っこに近づくと、この高さから落っこちる予感に戦慄した。降りるのはさらにもっと挑戦だったけど、あの岩に登った誇らしさで胸がいっぱいで、おもったほどは怖くなかった。

 三年生がはじまったのでとても興奮していた。三年生だから、トパンガ小学校の上級生の遊び場で遊ぶようになって、自分が”ビッグキッズ”の一員だと自認した。上級生の遊び場は広大で、もっと多いハンドボールのコートと四つのバスケットボールのコートがあった。僕の教室は上級生の遊び場に隣接するバンガローにあって、先生はミセス・バンティンといった。彼女は若い先生で、きっと二十代後半だった。かなり年寄りの先生に慣れていたので、あたらしい先生がこんなに若いことに驚いた。
 休憩時間と昼休みには、ポケモンカードを見せあって交換しながら時間をつぶして、おなじ友達と遊んだ。小学校のあいだじゅう、僕は女の子とあまり関わらなかったけど、それはふつうだった。男の子が男の子と遊んで、女の子が女の子と遊ぶ年頃だったので、完全におたがいが別れていた。女の子のことは僕のなかで最後だった。マディはいまだ、僕がもっているただ一人の女の子の友だちで、家族同士がそろって会うときだけが顔を合わせる機会だった。マディの両親が離婚してポール・ハンフリーズがイングランドへ帰郷してから、ますますその機会はまれになった。
 小学校の女子たちはあたかも、分断された現実の一部であるかのようだった。彼女たちとあまり関わっていなかったのに、同じ年のほかの少年たちにするように、僕に誠意をもって対応してくれた。これはフェアな扱いであり、僕は満足していた。僕の思春期はまだやってきていなくて、僕は女性からの評価に焦がれていなかった。八才の僕は、思春期が必然としてやってきて女性への性的な欲求が芽生えれば女の子によって引き起される、みじめさも痛みも夢にだに知らなかった。容赦なく駆りたてられる、性的な欲求。僕が成長して少女たちに拒絶されるようになるあいだ、クラスの一部の少年は彼女たちに抱擁される。でもその時の瞬間には、僕たちはいっしょに成長する、ただの無垢な子供たちだった。すべての無垢さは、粉々に砕かれて苦い残酷さに置き換えられるべく運命づけられている。
 僕はなにも知らない、無垢な至福のなかで暮らしていて、そして満足していた

 人生のこの期間は、イングランドでの幼少期は別として、最高の時代の一つだった。人生は公平で満たされていた。子供のころ、僕たちが自分の値打ちを証明して仲間内で評価されるには、公平な方法が用いられた。僕たちがやっていたゲームがどれだけうまいか、またはどれだけたくさんのポケモンカードのコレクションを持っているか。不公平な優位点をもっているやつはいなかった。それは理想的で、人生がそうあるべきものである。
 そして…少年の僕にはおおくの楽しみがあった。ジェイムズの一家はすでにパリセイズの別の家に引っ越さなければいけなくて、お母さんは僕をしょっちゅうそこに連れていった。彼女はジェイムズの両親のキムとアルテと大親友になっていた。ジェイムズと僕はゲームボーイで対戦し、ポケモンカードを交換し、プールで遊ぶために通りを下ってレクリエーションセンターに歩いていき、そしてパリセイズの中心にあるレストラン『Mott』にみんなで行って夕食を食べた。
 自分のポケモンカードのコレクションがほんとうに誇らしかった。ここ二、三か月の間に何枚かの”シャイニー”のカードを手に入れたので、ほかの子に見せびらかすのが愉快だった。シャイニーのカードは、両親が買ってくれるパックにランダムに入っていた。僕が一番欲しがったカードはリザードンのカードで、ある朝お母さんが開けてくれたパックのカードをみたら…あった。今までで最高の日だという気分で、興奮でいっぱいになった。レッドハウス中を跳びあがって、すでにリザードンを持っていたジェイムズに僕のカードをみせるのが待ちきれなかった。
 ジェイムズ・エリスと友だちになってなんども彼の家に行くうちに、キムとアルテの家族ぐるみの友人であるレメルソンさんの一家と知合いになった。レメルソン氏の家は、ジェイムズの家を一時期は経済的に援助していた、とても裕福な家だった。ロブ・レメルソンさんは、バーコードの発明家であるジェローム・レメルソン(訳注:著名な発明家だがバーコードの発明に関わったかは怪しい)の息子であり、純資産は数億円に上っていた。ロブさんの息子のノアは僕たちと同い年でジェイムズの大親友だったので、最終的に僕も彼の友だちになった。あまり親しい友だちではなかったけど。僕たちはときどきレメルソンさんの家やパリセイズに行って、三人で遊んだ。

ハロウィンには、レメルソン家にトリックオアトリートをしにいった。これ以来、レメルソン家といっしょにトリックオアトリートするのが伝統になった。僕がまた恐竜のような仮装をしたのは、ほかの仮装が思いつかなかったからである。ポケモンのサトシの仮装がしたかったけど、店にはそのコスチュームの在庫がなかった。パリセイズは金持ちの家族であふれていて、彼らが僕たちにくれるお菓子はほんとうに膨大な量にのぼった。だれが一番おおくのお菓子を手に入れるか、ジェームズとノアと競走したのをおぼえている。そのあと、ロブさんの家で夕食を食べてから、収穫物を検分するためにお菓子を床にぶちまけて山積みにした。それが、いちばん楽しい時だった。

 三年生のはじめごろに、お母さんは僕たちをよく、トパンガキャニオンのブールバード近くのお祭りに連れていった。そこでは小さなコンサートが開かれていて、食べ物がいっぱいバーベキューで焼かれていた。お母さんの友人にはこれらのイベントでやるべきことがあって、その友人の息子と僕は遊んだ。彼はライリー・アナポルといって、僕より二つ年下だった。小学一年生。ライリーの仲間のほかの年下の子たちとも遊んで、楽しく過ごした。ライリーはしばらく共通の友だちになった。この事の興味深い点は、ライリー・アナポルがやがて、大いなる憎しみを僕が抱く人物になったことである。ライリーは多くの女性を手に入れるようになる。そして僕は女性から拒絶されるようになる。でもその当時は友だちで、仲間で、対等に遊んでいた。世界の仕組みはおかしなものだ。

 休暇が到来すると、ソウマヤの母国モロッコへ家族旅行にいって彼女の家族に会い、そのあとでイングランドに立ち寄ると、お父さんが発表した。北アフリカにあること以外はあまり知らなかったので、僕はモロッコに興味がわかなかった。六週間もそこに滞在することにも興味が持てなかった。僕の冬休みが丸々、なにも知らない外国でおわることを意味していた。
 でも勿論、これについて僕に選択権はなくて、モロッコは僕が幼い日に行った多くの国々のリストにくわえられた。そのあとでイングランドを訪ねて親戚に会うのがたのしみだった。
 モロッコはとても不思議で僕にとっては異質な国だった。マレーシアよりもさえ。マレーシアはもっと西洋化されていたから。モロッコには多くの文化があって人々は友好的だったにもかかわらず、真逆の印象を受けた。嫌いな食べ物がたくさんあったのをおぼえている。でもデザートとペストリー(訳注:パイ生地の焼き菓子)はよかった。ソウマヤの両親は、タンジェ市の中心部の歴史的なコミュニティである旧市街で、たがいに歩いていける距離に住んでいたけど離婚していた。ソウマヤの母のハディージャはちいさいけど優雅な家をもっていて、父のアブドゥサレムは、ジェームズ・ボンドの映画『OO7 リビング・デイライツ』の舞台として有名な、とても大きくてほとんどお城のような家をもっていた。そのときだけジェームズ・ボンドの大ファンになって熱狂した。この家のまん中には、アイマンという子と彼の二人の幼い兄弟といっしょによく遊んだ中庭があった。彼らは数年前にソウマヤの父の養子になって同居していた。
 モロッコへの長い滞在を経てから―僕の意見では長すぎた―僕たちは親戚を訪ねるためにイングランドに寄った。祖母のジンクスの家に滞在して、数日間いとこのジョージと遊ぶことができた。イングランドにいたある一日、お母さんの姉妹のミンおばさんとおばあちゃんのアー・マーが訪ねてきて、いっぱいのイングランドのチョコレートをくれたので、おいしくいただいた。
 概してすばらしい旅行になって、僕は経験できてよかった。学校のスケジュールに食いこむほどの日程の長さは別として。学校に行けなかった二週間が惜しい。

 休暇シーズンのあと、乳母のクリスティンがドイツに帰らなければいけなくて僕を深く悲しませた。クリスティンはいつも僕の一番大好きな乳母だったので、彼女が去る日は一日中不機嫌だった。

 三年生の残りの期間は飛ぶように過ぎた。ポケモンカードのコレクションを増やし、ゲームボーイのゲームを進めてポケモンに取組みつづけた。
 このころ、僕は友だちのシェーンと衝突した。以前起こった口げんかから、僕はシェーンを学校での敵とライバルに見立てるゲームをしていた。僕にとってはただの遊びだったけど、彼はまじめにとらえていて、僕が考えていたよりも衝突が衝突がどんどんエスカレートした。ちょっとしたフィジカルファイトに突入して、僕がシェーンを殴って校長室に呼ばれて、トパンガ小学校で体験したもっとも大きいトラブルになった。三年生の終わりまでシェーンとのこの些細な衝突は続いたけど、のちに仲直りして四年生ではまた友だちとして遊んだ。

 夏がくる前に、お父さんのコマーシャルの監督としての自発的なキャリアがふたたび始動して、大変な成功を収めた。この時点では、彼は今まででいちばん成功していたかもしれない。この成功によって、もっと大きくて良い家に引っ越すことを彼は決めた。いくつかの調査をしてから、ウッドランドヒルズの近くのウェストヒルズの高級エリアに僕たちは転居した。一目見てこの家が大好きになった。五つの寝室があって、僕たち家族と、まだ同居しているダンおじさんとに十分すぎるスペースがあった。大きなプールと温泉、遊び場になる広い芝生、バスケットボールコート、そして谷のすばらしい眺め。僕はまた、"谷"の子供になった。
 お父さんがとても大きな家に移って多くの便益があったにもかかわらず、僕はそれでもお母さんの家で過ごす時間を好んでいた。お母さんは優しくて明るくて、家庭に活力があったから。お母さんは、お父さんとソウマヤがしたよりも僕を甘やかしてくれた。僕がなにをしてほしくてなにをしてほしくないか、彼女はわかっていて、僕の生活を快適でたのしいものにする邪魔をしなかった。お父さんとお母さんが僕の居場所を週に二日間だけお父さんの家に拡げた、最近の決断により、僕はとても悩まされていた。そのことにより、僕と妹は月曜から木曜までのあいだだけ母の家にいて、木曜の夜から月曜がくるまで父の家に行った。

 僕の九つの誕生日にはお父さんの家にいて、お父さんとソウマヤが僕のためにパーティーを開いてくれた。トパンガ小学校から僕の友だちを数人呼んだ。来たことを思い出せる友だちはフィリップと彼の弟ジェフリーだけだ。ジェームズは呼ばれたけど来られなかった。ジョージアの友だちも数人呼ばれたけど、これは僕の友だちであってジョージアのではなかったから、いらだたしかった。パーティーはとても賑やかなものになって、裏庭で開かれていた。お父さんはみんなに手品をみせるために手品師を雇った。

九才

 僕の九才はすこぶる面白い年になって、感情的にも知的にも僕は大いに変化を経験した。世界をより克明に観察しはじめるところまで成熟した年である。九才になるまえは、善良で純粋だと思っていた世界で、能天気な子供として僕は人生を生きていた。今このとき以来、世界と社会について僕はすこしずつ発見をしていく。以前には考えられなかった問題と挫折に直面していく。それでもなお、僕の生活はまだ楽観的で明るくて、精いっぱいにその明るさを生きていた。

 人生の後々までのこることになる、その一年の最初の挫折は、僕がこの歳にしては非常に身長が低い事実だった。四年生がはじまると、クラスで一番チビの子供である事実が僕の上にどんよりとのしかかった―女子でも僕より高かった。過去には、ほとんどそのことを思慮に入れなかったけど、この段階に至って、どれだけみんなの背が僕より高いかにものすごく悩まされるようになった。そしてみんなより背が高い子は自動的にほかの子より尊敬されることに。僕が劣っているという初めての感覚が注入された。そしてその感覚は、時とともにもっと乱れて激しくなるばかりだった。
 背が高くなりたくて必死で、バスケットボールをすると背が高くなると本で読んだ。バスケットボールへの刹那的な興味がわいて、休み時間と昼休みに上級生の遊び場でずっとバスケをやっていた。バスケットボールコートの大半は使われていなかったので、僕は一人ぼっちでプレイしたり、参加したがる人がいればその人とやった。お父さんの家にいるときには、そこのバスケットボールコートで何時間もバスケをやっていた。暗くなるまでずっとゴールにむかってシュートして、またシュートして。シュートの合間にコートの地面に寝転んで体を伸ばそうとしていたのも覚えている。
 学校でバスケをやっているとき、何人かの少年たちが僕に加わった。彼らがはじめると、僕よりよっぽどスポーツに長けていると判明した。僕が投げるより二倍の距離で投球できる、彼らの能力がうらやましかった。このことが、身長の低さにしたがって、僕は同い年のほかの少年よりも肉体的に弱いと自覚させた。年下の少年たちさえ僕より強健だった。終わりのない苛立ちにおそわれるようになった。

 僕は四年生の教室は学校の中心部に位置していて、先生の名前はミセス・ギル。ミスター・デバインという助手がいた。四年生では、僕が味わっている感情的な問題のために奇妙な年になった。前年のようには、学校があまり楽しめない。教室ではキートン・ウェバーの近くに座っていて、彼となんどか揉めた。けっして敵ではなかったが、彼は虫が好かなかった。ムカつくクソ野郎だとずっとみなしていた。

 天性、僕はとても嫉妬深い人間である。そして九つの年にいたって僕の嫉妬深い本性が表面化した。ジェームズとのプレイデートでは、彼のほかの友だちも来ることがあって、ほかの友だちにジェームズの注意が向いていると強いジェラシーと怒りがわいた。見捨てられた気がして、静かな隅っこを探して泣き始めた。お母さんとキムはよく理解していたが、彼女たちができたのは僕を慰めることだけだった。

 たまにお母さんが夕食にマディと彼女の母親を呼んだり、僕たちがマディの家に行くことがあった。マディは僕ではなく妹のジョージアと遊ぶことがよくあって、これも僕を嫉妬させた。そういう時にいつも泣いていたのをおぼえている。
 嫉妬と羨望…僕の全人生を支配して際限のない苦痛を僕にもたらした、二つの感情。九つのときに感じた嫉妬の気持ちは絶望的だったけど、いつか僕が思春期をむかえて、少女たちが僕を無視してほかの少年を択ぶさまを目撃しなければいけなかったときに感じたものとは、比べ物にならなかった。九つのときにあったどんな問題も、僕がやがて直面するよう運命づけられたものにくらべれば、安息の時代に過ぎなかった。

 四年生になって数か月、僕と妹の生活の取決めが両親によってまたも変えられた。今回は、お母さんの家とお父さんの家を一週間ごとに往復することになる。一週間お母さんの家で過ごして、次はお父さんの家。これは公平な分割である。いかなる生活の変更も僕は望んでいなかったから、最初は納得できなかったけど、これはいい取り決めだと気づいた。週末にお母さんの家で過ごせてとても興奮していた。週末はいつもお父さんの家でしか過ごせなかったから。
 お父さんの週には、ローザとエンパロという、二人のあたらしい乳母に面倒を見てもらうことになった。彼女たちは南米出身であまり英語が喋れなかったけどとても親切だった。
 僕はソウマヤと激しく衝突しはじめた。彼女が僕に課するルールが嫌いだった。彼女は本当の親じゃないから、そんなことをする権利はないと信じていた。毎朝牛乳を飲んで、すごく嫌なにおいがするスープを毎夕飲むように彼女が強制するのを憎んだ。彼女が懲罰として使ったスープを飲まされるたびに大騒ぎするはめになった。僕がなにかをやらかすたびに、彼女はスープを飲むよう強いてきた。お父さんの家でフィリップとプレイデートをしているときに、妹がうるさかったので怒鳴りつけたら、ソウマヤは罰として僕を部屋に一時間も閉じこめて、フィリップの前で恥をかかせた。この事件以来、僕は二度とお父さんの家でプレイデートをしなかった。
 ソウマヤとのこの衝突のせいで、僕がお母さんの家にいることを好んで、お父さんの家にいなければいけない週を怖がるようになった。の衝突もあったし、お父さんは町の外に仕事で出かけていたので、たまにしかいなかった。お母さんの家でたのしい週を過ごしたあと、日曜日が来て月曜日にお父さんの家に行かなければいかなくなると、泣くようになった。お母さんの家に戻る日を待ち焦がれながら、お父さんの家で過ごした。お父さんの週がはじまるのでお母さんが僕を学校から連れていく日のことをおもいだす…お母さんの車が僕のもとから去っていくのがとても悲しかった。もちろん、学校で恥をかきたくないから涙を隠したけど、その日はずっと憂鬱でならなかった。

 お母さんの週ではかならず楽しいことがあった。僕はほかの子に交るには内気すぎたのを知っていたから、お母さんは僕にいつもプレイデートを手配してくれた。彼女はいつもすべてを楽しくしてくれる。週末の夕食のあとは"treat time(訳注:ごちそうタイム?)”があって、お母さんがお菓子の箱を持ってきて僕と妹にお菓子を択ばせた。
 フィリップと何度もプレイデートをして、フィリップをとおして僕たちより二つ下の弟のジェフリーとも遊んだ。フィリップは穏やかで成熟していたけど、ジェフリーは完全に反対だった。ジェフリー・ブラウザーは騒々しくて手に負えないやつで、フィリップといっしょにしばしばプレイデートを大いに賑やかしてくれた。
 お母さんが家でパーティーを開いて家族の友だちを全員呼んだことがあった。ジェームズ・エリスがやってきて、フィリップとジェフリーもきた。彼らを同時にみるのは初めてだったので、面白い経験になった。フィリップとジェフリーが、僕によりもジェームズに注目と敬意をはらっているように見えて、すこし嫉妬したけど。僕のニンテンドー64でジェームズと競ったときに、彼らがジェームズを応援したのは、ほんとうに腹立たしかった。

 四年生が終わりに近づくと、九つのちいさな僕は世界がどう機能しているかについてのもう一つの啓示を受取った。ヒエラルキーというものが存在して、一部の人々はほかの人たちよりも優れている。もちろん、過去にも無意識に気づいていたけど、人生のこのときに至って―九才で―僕はそのことを重要とみなして多くの思考をはじめた。
 このことを学校で体験するようになった。学校には、ほかのみんなより輝いている”クールキッズ(cool kids)”がいつもいて、彼らの容姿、着ているもの、振舞いが彼らをよりクールにしていた。僕が呼んだ”クールキッズ”には、キートン・ウェバー、マット・ボルディア、ミッチェル・レイ、トレバー・ボーゲット、ザルマン・カッツ、ジョン・ジョ・グレン、そして数人が含まれる。彼らはクールで、人気があって、いつも愉快にやっているように見えた。
 だれもが平等な地位にいた、平和で無垢な幼年期の環境が幕を閉じた。フェアプレイの時代が終焉を遂げた。人生は競争と困難であると、僕はゆっくりと理解してきた。
 この一般的な社会の構造に学校で気づくようになると、自分を検査してこの"クールキッズ"と比較をはじめた。戦慄とともに、自分はまったく"クール"でないと悟った。野暮ったい髪形、そっけなくてクールでない衣服、そしてシャイで人気がない。今までもいつも、シャイな少年と呼ばれてきたけれど、ここに至るまで自分の内気さ(shyness)が自分に負の影響を及ぼすことを本気で考えたことはなかった。
 世界と自分についてのこの啓示は、確実に僕の自尊心を減少させた。その上、僕は混血の人種(訳注:エリオットは白人とアジア人のハーフ)なので、ほかの人と違うという感じがあった。僕は半分白人で、半分アジア系で、このことが、僕がなじもうとしていた、ふつうの完全に白い子供たちから僕を違うものにしていた。
 クールキッズが羨ましくて、彼らの一人になりたかった。先にああいう子供たちの一人へと僕を形成しなかった両親にすこし苛立ちをおぼえた。彼らは、僕におしゃれな服を着せたりかっこいい髪形にしてあげるよう努力したことがなかった。これを修正するために全ての努力をしなければならない。順応しなければならない。
 最初の行動は、両親に僕の髪をブロンドに染めるために許可をもらうことだった。僕はいつも、ブロンドの人々をうらやんで憧れていた。彼らはかならず、人よりすごく美しく見えたから。両親はそうすることに同意した。お父さんが僕を、ウッドランドヒルズのマルホランドドライブにあるヘアサロンに連れていった。そのヘアサロンを選んだのは失敗だった。そこは頭のてっぺんしかブロンドにしてくれなかったから。僕は立腹しながらどうして僕の髪を全部ブロンドにしてくれなかったのかを問いただすと、全部染めるには僕は幼すぎるといったので、僕は激怒した。頭頂の金髪と、側頭部と後頭部の黒髪のせいで、僕はバカみたいにみえてしまうと思った。このあたらしい変な髪形で翌日に登校するのが怖かった。
 翌日に学校に到着すると、僕はとてもびくびくしていた。教室に人が集まりだすと、この髪の色をどうやってみんなに隠すかを必死に考えながら、教室の隅っこに立っていた。僕に気づいた最初の人はトレバー君で、僕のところにきて「クールじゃん」ちいいながら僕の頭をなでた。よかった、それこそまさに僕が欲しかった言葉だ。僕のあたらしい髪の毛は完全に見世物になって、数日間はわずかな注目と、あれほど渇望していた称賛を得た。

 僕のポケモンへの興味はこの時期に薄れていった。三年生では、ポケモンが”クール”だと考えられていてみんなやっていた。四年生のおわりが迫るころには、みんながポケモンから離れだしていて、やっているのは変った子だけなのに気づいた。ポケモンをやっている子がダサいとからかう声を聴いた。もうやめるときだと決めた。
 ジェームズとこのことについて話した。彼はまだポケモンに興味があったので、僕のリザードンのカードを贈り物として、そしてゲームからの引退の記念としてあげた。ポケモンは僕にささやかな楽しみをほんとうにくれた、思い出深い経験だったけど、もう変わるべきときだったのだ。

 それから、クールキッズたちはみんなスケートボードに夢中だと気付きはじめた。僕はそれまでスケートボードに乗ったことがなかったけど、クールになりたかったのでスケートボーダーにならなければならない。両親にこのことを伝えると、お父さんは僕が活動的なスポーツに興味を示したことをよろこんだ。スケートボードを僕に買ってやるために、ベンチュラ・ブールバードにある『Val Surf(訳注:スケートボードのブランド)』の店に行った。そこにある様々なスケートボードの品ぞろえに僕は魅了された。『Val Surf』の赤いスケートボードに決めると、お父さんと店員が品物を壁から下して、僕のために組立ててくれた。
 このあたらしいスケートボードを手に入れたことで、クールキッズになるチャンスが与えられたので興奮した。練習を開始するときがきた。まず乗るだけでもとても難しくて、コツをつかもうとして野外で何時間も練習した。そしてやりとげた。まだ学校でほかの子に見せるほどうまくはないけど、僕はいまやスケートボーダーだった。これは”クールキッズ”がしていそうなことの全てをコピーせんとする、強迫観念の始まりに過ぎなかった。

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