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私が研究の世界に足を踏み入れたわけ。

こんにちは。苦手だったプログラミングを克服しつつ、Rで論文レベルのグラフを描くために奮闘している、生命科学系研究者のえいこです。

なんで研究しているのか?今の研究という仕事をするまでの経緯をゆるゆる書いてみようと思います。


まず、なんで研究しているのか?ですが、その答えはとってもシンプル。

好きだから

これだけです。

細胞を培養するのも好きだし、マウスを扱うのも好きだし、試薬を調製するのも好きだし、PCRをかけるのだって好きだし...と実験のことばかりではなくて、実験のデータを見てどうしてこの結果になったんだろう?とかこれからどうしたら良いんだろう?とか考えるのが好きなんです。

研究の8割9割のことは好き。だから、今、研究者として仕事をしています。

研究者として働くまでには色々ありました。

医者になりたかった高校時代

最初から研究者になりたい!と思っていたわけではなく、高校生の時は医学部を志望していました。

医学部に行きたいと思ったきっかけは、ある整形外科の先生との出会いです。

私はダンスを習っていたのですが、あることがきっかけで骨折してしまいました。発表公演で良いポジションで踊らせてもらうことが決まっていた矢先の出来事でした。

ショックで立ち直れ無い一高校生に対して、優しく接してくれるお医者さんなんてほとんどいません。

最初に行った病院では淡々と治療について説明され、「骨をくっつけるために身体にボルトを入れます。くっついたことを確認できたら、ボルトを取り除く手術をしますねー。」とショッキングな治療法についての説明を受けました。

女子高生だった私は「この先生は嫌だ!」と直感。即、別の病院に行って話を聞くことにしました。

そこの先生は、私の精神状態を察してくれて、「一人目の先生が言っていたようにボルトを入れる治療もあるけど、もし君が嫌ならワイヤーで固定するっていう治療法もあるよ」と、これから行う治療について丁寧に説明してくださいました。

この先生なら大丈夫だ!という安心感もあり、先生の技術の高さもあり、無事骨折は治りました。

こんな小さなことですが、患者さんの気持ちに寄り添う姿勢、幅広い知識、確かな技術を持ったお医者さんがかっこいい!私もこんなお医者さんになりたい!と思うようになりました。

高校生の時はそこそこ勉強もできたので、医学部は難しく無いのでは?という甘い見積もりのもと受験勉強を始め、見事に落ちました

受験に失敗した私は、一年間浪人することに。

受験に失敗!人生の一歩を踏み出すために大学へ

駿台予備校の国立大学医学部受験コースで一年間勉強。

予備校で学んだことは、医学部に行くためだったら、何年でも浪人しようって思える人がいること。

そういう人は、毎年予備校で無駄に時間を過ごして、予備校のドンみたいな顔をしていること。

「高校までの勉強をひたすらぐるぐる回っているなんてしたくない!10代の大切な時間はもっと別のことに使うべきだ!」と、決意し、医学部ではない道を選択しました。

その当時、京都大学の山中先生がマウスからiPS細胞を樹立したことを報告し、ES細胞と共に夢の細胞として取り沙汰されていました。

なんとなく、直感的に、「これだ!」と思い、「再生医療」の研究をして患者さんを治すという研究ができるところに進むことにしました。

...

大学では色んなことを勉強し、知らなかった世界を知ることで、大学に入学した当初の目的である「再生医療」をやるわけでも無く、別の研究室を選ぶことに...

(再生医療をやっている研究室の先生からラブコールがあったのに、なぜかその研究室を選びませんでした。今になっては良い判断だったのかなーとも思いつつ、その当時はなんで自分が別の研究をしたいと思ったのかはよくわかりません。人生は色々あるんです。)

さて、理系の学部では大抵修士号までは取るという謎の文化があります。

私自身は学部生の時には、「就職」という選択肢は全く無く研究を続けたいから修士まで進みました。

修士一年の終わり頃になってくると周りは「就活」を始め、空気を読みたがる私も就活のエントリーとか合同説明会とか行ってみることに。

就職か?博士課程か?修士号のその後

今になってわかることは当時の私は「就活」をすることで、「研究」から逃げていました。

なんだか「研究」から距離を置きたくなってしまった私は、「論文を読むのは苦手だし...」「自分で実験を組み立てるなんてできないし...」とか後ろ向きな考えのもと「就活」をし、あの「日本学術振興会」の最終面接を受けました。

その当時、理事長だった安西祐一郎先生が真ん中に座られておりニコニコで迎えて下さいました。

そして、名だたる研究者の先生方がズラーーっと並ばれていたその中に理事をされていた浅島誠先生もいらっしゃいました。

今でも面接で浅島先生に言われたことは忘れません。

後ろ向きな考えでできるだけ研究の現場から離れたい、でも研究には関わりたいと言っていた私に、「そんなに研究が好きなら、どうして研究しないの?」と。

この質問に答えられず、無事、最終面接は落ちました。きっと先生方から「あなたは研究しなさい」というメッセージだったのではないかと思います。

また、お世話になっていた学部時代の外部研究先の准教授の先生には「えいこ、目を覚ましなさい!」と叱咤されました。

てる神あれば拾う神あり

日本学術振興会に振られてしまい(実はJSTも受けていたのですが二次面接で落ちました)、途方に暮れる日々。

やりたい研究を探す。という選択肢もあったのですが、その当時は、「自分で働いて稼ぐ」という経験をどうしてもしたくて、研究室にいながら修士号でもお給料がもらえる仕事として、研究補助員というポストがあることを知りました。

(研究の質、論文の質にこだわる私にとって、その当時所属していた研究室で博士号を取るのは抵抗があったので、博士過程に進む選択はしませんでした。今になってあの時とっておけば良かったと思うのですが、それもまた人生。)

世の中には、捨てる神あれば拾う神ありなんですね。こんなフラフラしている私を研究補助員として雇ってくれる研究室がありました。

その研究室は、教授が若々しくて、元気があって、研究室全体に活気がある素晴らしい研究室でした。

そんな研究室だから、どんどん成果が出てお金がバンバン入ってくるんだなーと実感。(研究補助員を雇えるということは、研究室自体にかなり余裕がないとできないことなんですね。)

研究室に所属しながら、研究に携わりながら(メインじゃないけど)、仕事をする、楽しい日々が過ぎていきました。

結婚・出産 働き方を模索する

人生は、どのタイミングでどんなことが起こるか分かりません。

結婚をして、住む場所が変わります。それとともに、仕事をする場所も変えなければなりません。

ご縁があって、今の職場に技術補助員として就職しました。

が、2年働いていたある日、「来月から研究員として働いてくれない?」と言われます。(その間に妊娠・出産をして今から思うと好き放題やって、仕事より自分の人生を優先させていたのですが...)

突然のことでよくわかリませんでした。

だって、博士号を持っていないのに研究員ですよ?...「きっと、仕事が評価されたんだなー」とポジティブに受け取って(裏で色々あったのかもしれませんが)、研究員として働くことにしました。
(本当に人生って何が起こるかわからない)

出産もして、子育てをしながら研究をするって結構大変。しかも、博士号を持っていないので、学振も取れないし、研究室のお荷物になっていないか心配ですが...

今は論文博士を目指して日々、奮闘しております。

...

普通の王道の研究者とは違う道を歩んできて思うことは、
・研究の世界に入るための正解なんてない
・世の中には研究室の数だけ研究の形がある(環境を選ぶのが大事)
・「好きならばやればいいじゃん」というのが研究

この2ヶ月の間に、子どもたちと一緒にいる時間がたくさんあって、「今しかできないことがある」ということがわかりました。

研究っていつでもできるけど、子育てって好きな時にできない。

でも、できるだけ早く博士号は欲しい。(こんな私でも評価してくれてお世話してくれるPIの先生がいてくれる間に取るのが一番)

バランスって難しいなー。

人生にどんなことが待ち受けていて、どんな判断をするのかわかりませんが、研究者として、母親として「楽しい!」って思える選択ができると良いなと思っています。

それでは、また!


私がどんな研究分野の仕事をしているかは記事にしているので、えいこに興味をもっていただいた方はぜひこちらもご覧ください。


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