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#25 徳川ミュージアム(茨城県水戸市)

徳川ミュージアムは財団法人水府明徳会によって運営される。水戸藩主に関する歴史博物館として1977年に開館した。

徳川ミュージアムについて

1616年に徳川家康が駿府で亡くなり、形見分けとして「駿府御分物」が水戸徳川家に分与された。その後も歴代藩主及び関係者の使用品、蒐集物、輿入れ品などが増加していった。歴代藩主や関連の什宝は約3万点に及ぶ。また彰考館文庫の「大日本史」草稿本や、古文書類約3万点を所蔵する。

尚、水戸徳川家は石高35万石(当時)で、その分家としては守山松平家2万石、宍戸松平家1万石、府中松平家1.8万家があった。守山の近くにあった梁川松平家3万石は、尾張家の分家である。

以下、展示で気になった点を紹介したい。

徳川光圀の寿蔵碑

2代藩主徳川光圀は隠居に伴い西山御殿(常陸太田市)に移った。1691年、御殿の近く(水戸徳川家墓所)に自らの墓・寿蔵碑を建立した。墓所は光圀が儒教に基づき定めたもので菩提寺がない。

寿蔵碑では、気になる文章がある。

神儒を尊びて神儒を駁し、仏老を崇めて仏老を排す

神道、儒学、仏教、老荘を学びつつ、いずれにもとらわれることのない様を指す。

歓びて歓びとせず、憂へて憂を憂とせず…詩を吟じ情を放つ

透徹したエピキュリアニズムと言えるかもしれない。

徳川斉昭の北方未来考

1839年に斉昭が著した北方開拓の計画書で、自身を含めた水戸士族の北海道移住を構想していたようだ。北方未来考では、城の構え、番所の設置案などが具体的に図示されている。

財政難の打開策として水戸領民を石狩川流域に移住させ、分国を作ることを検討し、斉昭は当時日本船では最大の大船「快風丸」を建造し、3回北方探検隊を派遣した。

大船の維持費が多額に上ることから計画は終了したものの、もし実行されていれば、と興味が尽きない。この北方未来考は、北海道の名が書物に書かれたものとしては最初のものらしい。


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