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#14 論語と算盤の源流を辿る 渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市)

渋沢栄一記念館は平成7年11月11日(同日は渋沢栄一の命日)に開館。渋沢栄一は、1840年埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれた。官としては税制度の企画、立案に携わり、民としては第一国立銀行の設立など、各種産業の育成と近代企業の確立に努めた。

設立・育成に関わった企業は500社以上、参画した社会福祉、教育事業は600以上と、近代日本経済の父とも呼ばれる。論語の精神を重んじる「道徳経済合一説」が、その思想の根幹にある。

学びの源流〜論語と算盤のモデルケース?〜

渋沢栄一が深谷にいた頃、学問を尾高惇忠に習ったという。尾高惇忠の影響の大きさに異論はないが、渋沢宗助(東の家、三代目)の存在について今回学ぶことができた。初代宗助の次男、仁山は古新宅の家を起こし、自宅に王朝室という塾を開いた。王朝室の教え子としては、深谷の吉田松陰とも呼ばれる桃井可堂が有名だ。

三代目宗助は、王朝室で学び、書・剣に精通し、後に生糸・蚕種の海外貿易に関わり巨万の富を築く。また養蚕技術の改良のため、1855年には手引書を自ら作成、無料で配布した。三代目宗助は、渋沢栄一の名付け親、書の手ほどきをした人物として有名だが、渋沢栄一にとって「論語と算盤」の両立を身近に体現した存在であったのだろう。

渋沢栄一の思想源流の一つとして渋沢宗助を捉えたい。

三つの思想的転換〜論語的素直さ〜

後年への飛躍には、3つの現象的思想的転換があるように感じられる。

1. 倒幕論者から幕臣への転身(国家への意識転換)
2. ヨーロッパ派遣(近代への意識転換)
3. 官界から実業界への転身(個人/企業への意識転換)

幕末であれば尊王攘夷、明治であれば官僚主義に流れたのが大多数だが、渋沢栄一の動きは一線を画す。渋沢栄一訓言集のなかに「学問は一種の経験であり、経験はまた一種の学問である」とある。

意思(志)、巡りあわせ(縁)は渋沢が飛躍した必要条件だが、十分条件ではないのだろう。

激動の時代の只中で、ひたすら経験に素直であり続けたことが、大多数と一線を画し、経験年輪を大きくする事となったのではないか。

西田幾多郎のいう「物となって考え、物となって行う」という言葉が想起される。作為も意図も排し、ただ現実に向き合い、あたかも自己を一個の物であるかのように、己を現実に差し出し、やるべき働きを行う。

経験への素直さは、渋沢が好んだ「論語」とも繋がる。渋沢にとっては朱氏/陽明(解釈)よりも孔子(現象)が親しみやすかったのだろう。

渋沢栄一の言葉に「一家一人の為に発する怒りは小なる怒りにて、一国の為に発する怒りは大いなる怒りである。大いなる怒りは、国家社会の進歩発展を促す」とあるが、「物となる」思想の延長線にある気がした。

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