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#18 花火の歴史を学ぶ 両国花火資料館(東京都墨田区)

両国花火資料館は、花火の歴史、技術を展示すべく、1991年に開館された。墨田区両国は、納涼花火大会発祥の地として有名だ。花火の歴史について学んだので簡単にまとめた。

江戸時代前期

戦国時代(1543年)、種子島にポルトガル船が漂着し、鉄砲・火薬が伝来した。1613年、徳川家康は駿府城で日本人初の花火見物をしたらしい。

江戸時代になると花火の人気が盛り上がる一方で、火事防止のため禁止令が出るようになった。ねずみ花火の製造禁止(1648年)、市中での花火製造禁止(1653年)、水辺を除き町中での花火禁止(1670年)など。

1659年、鍵屋弥兵衛が、幕府の狼煙にヒントを得て、葦の管に火薬を練り「花火」と称して売り出した。この鍵屋が現代の花火へ繋がる重要人物である。

江戸時代中期・後期

大飢饉とコレラの流行により江戸で多くの死者が出た1732年、徳川吉宗(8代将軍)は死者の霊を弔べく、隅田川湖畔で法会(川施餓鬼)を行った。その翌年、川施餓鬼と合わせて川開きの日に行った水神祭で花火を打ち上げたのが花火のルーツ(諸説あり)とされている。当時は、慰霊と悪病退散を祈願する目的で20発前後の花火が打ち上げられたようだ。

その後、江戸を代表する「鍵屋」、「玉屋」が腕を競い花火が市井へ広がっていくが、1842年幕府が鍵屋、玉屋を呼び出し、大川筋の花火に代銀3匁以上の費用をかけること、仕掛花火、筒物を禁止した。1842年は倹約を奨励した水野忠邦の「天保の改革」の時期にあたる。

1843年、将軍日光社参の前夜、玉屋は失火を起こしてしまい、江戸払いの罪により、追放処分となってしまった。江戸末期では、両国の花火はほとんど行われていなかったようだ。

明治時代以降

1868年両国川開きが挙行され、大盛況を極める。明治期には、花火の技術が進化した。1874年には10代目鍵屋弥兵衛が、丸く開く花火を開発、1887年には11代目鍵屋弥兵衛が赤緑青の発色に成功、1903年にはマニラからスターマイン(連続発射)を持ち帰り、両国川開きに初めて登場させたと言う。

1936年の川開き花火に100万人の人出があったと記録されており、その盛況度合いが窺える。1940年から42年までは戦争のため川開きが中止となり、戦後再開するのは1948年となった。

戦後、域内の人口増加による住宅密集化などの危険防止のため5号玉が禁止(1959年)、交通事情悪化のため両国の花火大会が廃止(1962年)されたものの、1978年には隅田川花火大会として再開し、今に至っている。



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