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#19 震災と空襲を考える 東京都復興記念館(東京都墨田区)

関東大震災(1923年)最多の犠牲者を出した陸軍被服廠跡に、犠牲者の遺骨を納める震災記念堂(1930年)、震災復興記念館(1931年)が建てられた。1945年の東京大空襲における戦災の犠牲者の遺骨も、この地に安置されることとなり、震災記念堂は東京都慰霊堂に、震災復興記念館は東京都復興記念館へと名称変更し、今に到っている。

関東大震災における被害

関東地震は1923年9月1日11:58に発生した巨大地震で、震源域は神奈川県全域、相模湾、房総半島南部に至る相模トラフ沿いの長さ130km、横70kmの範囲に及んだ。関東大震災の死者・行方不明者は、全体で約10万5千人、全壊・全焼・流失家屋は約29.3万棟と言われている。

死者・行方不明者約10.5万人のうち、東京府(当時)が約7万人で、その殆どが東京市内だ。神奈川県は約3.3万人だが、横浜市のみで約2.5万人だ。

本震が発生した11:58から3分後に本震と同規模の余震がおき、翌年までにマグニチュード7を超える余震が6度も起きたと記録されている。9/1の天気図では石川県能登半島近くに台風があったことから、関東地方では強い南風が吹き、その強風と風向きの変化が焼失被害の拡大を引き起こしたと目される。

また震源が海底下であったことから、地震発生から数分以内に津波が到達した地域もあった。熱海、伊豆諸島で津波の高さ12mが記録され、鎌倉市の由比ヶ浜海岸では約100人が津波にさらわれた。

当時の東京市は人口密度が今の東京都23区と比べて2倍近くあり、下町では木造家屋が密集している地域が多かった為、大火災により、神田区、日本橋区、京橋区、本所区、深川区などを中心に東京市の約44%にあたる34.7㎢が焼失した。東京市で火災がようやく鎮火したのは、地震発生から二日後の午前である。崖、広場、樹木などが焼け止まりとして、鎮火に機能したことも影響した。

陸軍被服廠跡区域での惨劇

東京市全体の犠牲者の中、約8割(約5.5万人)が本所区であり、関東大震災最多の犠牲者を出したのが、陸軍被服廠跡区域(現在の都立横網町公園、両国中学校あたり)であった。この地域の大半は、払い下げを受け、横網町公園の一部工事に着手した程度で大部分は空き地であった。

避難地として多くの人が集まったが、(1)三方向から火災が押し寄せたこと、(2)折からの強風により火災旋風が発生したこと、(3)家財道具を満載した荷物を持ち込んだ人が多かったこと、等により、この地だけで約3.8万人の方々が犠牲となった。

震災義援金品の状況

国内での震災義援金品は、御下賜金(1,058.6万円)、国内義援金(4,387.4万円)、国内義援品(2,001.1万円)の計7,447.1万円(同資料館によると現代換算1,820億円)であった。

一方、海外からの震災義援金品は計4,157.1万円(現代換算1,016億円)であった。アメリカ合衆国:3,093万円(同756億円)、イギリス:578万円(同141億円)、中華民国:260万円(同64億円)の三ヶ国の義援金品が大きかった。いち早くかつ一番長く援助してくれたのは中華民国であったという。

関東大震災後の復興計画

地震発生翌日の9/2、内務大臣に就任した後藤新平は震災後の東京を単なる復旧とするのではなく、抜本的な都市改造を伴う復興の方針を打ち出した。

後藤は内務省直轄の帝都復興院の総裁として、30億円の予算を要求したが、第一次大戦後の不景気、かつ火事で焼けた土地を買い上げる施策が地主からの反対にあい、結果として約6億円の予算となっが、現代に繋がる東京の都市設計が進んだ。

木製が多かった橋は、鉄や鉄筋コンクリートで作り直すべく、約455件の橋梁が施行された。焼け止まり機能として注目された公園では、隅田公園、錦糸公園、浜町公園が復興三大公園として設置された他、災害時の避難場所として小学校地区に小公園が設置された。

教育では、鉄筋コンクリートの校舎である近代的な復興小学校が東京市内で117校建設された。土地区画整理と並行し、幹線道路の整備と街路樹の植樹が行われたが、道幅は計画の半分程度となったようだ。

東京大空襲と戦後復興

1932年、東京市は旧15区に隣接5郡と82町村を再編した「大東京市」に変更、1943年には戦時体制を強化すべく、東京府と一体化され、「東京都」となっていた。

東京への最初の空襲は、1942年2月に始まり、1944年のマリアナ諸島の陥落以降、本格した。アメリカ軍の本土爆撃は終戦までに200以上の都市に及び、死者は約33万人(本土)にも及んだという。

中でも、1945年3月の東京大空襲では8万人とも10万人以上とも言われる死者が出たと言われている。東京大空襲により市街地の6割が焼失、区分人口は開戦時と比べて終戦時は約1/3まで減少したと記録されている。

1945年11月、国は「戦災復興院」を発足。戦災地復興計画基本方針を閣議決定し、特別都市計画法を制定した。計画の対象となったのは、全国115都市だが、財政的な課題から過去に区域整理を実施した地区を除外することとなり、その影響を最も受けたのが、東京都であった。

東京都戦災復興計画は、1946年3月に策定された。ただ、戦災復興計画の中心になる区画整理事業は当初計画の僅か6.3%しか事業化されず、河川は灰じん処理のため埋め立てられ、公園緑地は農地改革により、防空大緑地の60%以上を失った、など当初の見込み通りには進まなかったようだ。1953年には東京都の人口は戦前の水準に戻ったとのこと。

関東大震災、敗戦後の2つの復興計画については改めて調べたい。


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