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#22 貨幣と銀行の歴史 常陽資料館(茨城県水戸市)

常陽資料館は常陽銀行創立60周年を記念し、郷土の歴史、芸術文化、金融経済に関する資料を収集し、展示する目的で1995年に創設された。貨幣のギャラリーと茨城の銀行の変遷が主な常設展示。

古代・中世

708年、唐にならい貨幣「和同開珎」を発行。以降約250年間に12種類の皇朝銭が造られる。ただ改鋳するたびに材質が悪くなり使われなくなる。平安末期では中国から輸入した渡来銭が使われ始め、室町時代になると私鋳銭も作られるようになった。

近世

戦国時代には金銀の精錬技術も進歩し、独自の金・銀貨が作られた。豊臣秀吉の金・銀貨を踏襲し、1601年に徳川家康が「慶長金銀」を発行。1636年には銅貨も「寛永通宝」に統一された。寛永通宝は水戸など全国8箇所の鋳銭所で作られた。江戸末期では藩札以外にも独自に貨幣を鋳造することがあり、水戸藩では虎銭、大黒銭が用いられた。

明治時代

1871年に「新貨条例」が制定され、金1.5g=1円となった。円の価値は金貨が計ることとなったが、貿易用の銀貨もあったので、実質的には金銀複本位制度。当時は1ドル=1円。1872年、アメリカ制度にならい「国立銀行条例」を制定し、民間銀行に金貨と交換できるお札(兌換銀行券)を発行することとなった。

1876年の国立銀行条例改正の後、旧士族に交付された「金禄公債」出資で銀行が設立できるようになり、全国で153行の国立銀行が設立された。当時は預金の習慣がなく官公庁以外に預金が集まりにくかった。貸出額に比べ預金額が不足する分は出資金と銀行券の発行によってまかなっていたのが実情らしい。

茨城では、1878年に、土浦に第五十国立銀行、水戸下市に第六十二国立銀行、水戸上市に第百四国立銀行、古河に第百二十国立銀行が設立された。1882年以降は国立銀行設立の許可が打ち切られ、その後は私立銀行が誕生した。幕末期に水戸藩の鋳銭事業を請け負った川崎八右衛門が1880年に川崎銀行を設立した事が有名。

日本銀行券の発行以来、事実上銀貨を基準とする銀本位制度であったが、明治20年代後半に世界的に銀産出量が増加。金貨を基準とする欧米と比べ円の価値が下落した。日清戦争の賠償金をもとに金0.75g=1円とする「貨幣法」(1897年)が制定され、金本位制度となった。ちなみに元々は1円=金1.5gであったため、以前より小型の新金貨が発行された。

大正時代

大正時代になると、第一次世界大戦による好況の影響もあり、銀行の規模拡大が求められるようになった。また恐慌、関東大震災などを経て、政府も銀行合同を奨励するようになり茨城の銀行は常磐銀行(第六十二国立銀行/水戸/川崎銀行が後援)、五十銀行(土浦/茨城県の公金を扱う)に合同していった。

昭和時代

昭和になると政府は「一県一行主義」により両行の合併を斡旋し、常陽銀行(1935年)が誕生した。1935年には全国で500行以上あった普通銀行は1945年までには61行まで集約されていった。戦時統制の中では、地方銀行は国債の引受けを通じて軍需資金を中央に供給する役割が課せられた。

尚、1930年日本は金輸出を解禁するも大恐慌直後により金の海外流出を招き、翌年に金輸出を再度禁止、日本銀行の金貨引換を停止した。1942年の日本銀行法により制度上も「管理通貨制度」に移行した。

1945年、敗戦後のインフレに対し、「金融緊急措置例」で銀行預金を封鎖し一定額のみ新銀行券での払い出しを認める「新円切替」を実施した。一世帯/月あたりの引出し額を500円以内に制限したと言う。高度経済成長期では、茨城でも鹿島建設、筑波研究学園都市などの大規模プロジェクトが相つぎ、今日へと繋がっている。

戦後は銀行新設が認められ、全国で12の地方銀行が新設された。茨城では関東銀行が誕生し、戦前の無尽会社が相互銀行に改組され、常盤相互銀行、茨城相互銀行、東陽相互銀行が生まれた。ちなみに関東銀行、茨城相互銀行、東洋相互銀行は、現・筑波銀行となっている。




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