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処女作「予告」(4413文字) 幻冬舎二次選考通過

「あの失礼ですが、ミヤナガさんですよね」
 ユノはビクッと肩を上げてから固まってしまった。

 昼下がり、近所のコンビニでアイスと600㎖のペットボトルをなんちゃらペイで気軽にさっと買い、ルンルン気分で自動ドアを通ったところであった。シンクロして出入口のメロディーを歌う妖精もビクッと飛び去ってしまった。

 こんな住宅街の昼下がりに、男はライトベージュのダブルスーツに紺色のネクタイをきつく締めて現れた。どうやら靴下は履いていない。いわゆるオシャレさんの様である。

「これから砂漠にでも行く英国紳士気取りだな」

とユノは思った。

 そんなことを思う当の本人は、緩いグレーのロングワンピースにパーカー、足元はベランダのサンダル、となんとも気の抜けた恰好であった。しかも、お気に入りのチョコミントアイスのカップを小さめのエコバッグにちょこんとぶら下げている。緊張感の欠片もない。しかし、この場合ユノの方がTPOにそぐう恰好ではあった。家から五百メートルしか離れていない住宅街のコンビニの前なのだから。
 とにかく、ユノにとってチョコミントアイスが溶けてしまうのも、この変な男と関わりを持つのも、どちらもご免被りたい由々しき未来であった。
「いえ、人違いです」
 固まった三十路手前の女は目を丸くして遠くを見ながら嘘をついた。
 オシャレ男はすかさず大真面目な顔で言った。
「お察しします。私はそれなりの身なり、あなたはお家に帰って今すぐにでもソファに横たわって、その買ったばかりのアイスを愉むにふさわしい恰好だ。分かり合えないと決めてかかるのも無理はありません」
(こいつ。失礼極まりない砂漠紳士だな。)
ユノは遠くを見つめたまま思った。
「私は砂漠紳士などではございません」
「え…」
 ユノは指先から一気に血が逆流して、そのままどこかへ消えてしまう様な感覚に襲われた。
「今、心の中で『失礼極まりない砂漠紳士』とお呼びでしたね。私、こういうものです」
 砂漠紳士は真っ黒い革の名刺入れを胸のポケットから出して、パール調に鈍く光るカードを丁寧に差し出した。ユノは受け取る余裕もなく、ただ差し出されたカードを見下ろして読んだ。
「無限会社 天国
ミカエル部 人材育成課
係長 余乃国 ミカエル 一太」
 ほげっと棒立ちしているユノを少し気遣ってか、余乃国は彼女の左手を優しく包んで名刺を握らせた。
「はぁ」
 ユノは精一杯の返事をした。
「驚かれますよね。まあ、アイスも溶けてしまうとかわいそうですし、少し歩きながらお話させてください」
そう言って余乃国はユノの左手を少し強引に引っ張りながら、確実にユノの家の方角へと歩き始めた。少し上り坂の小道にそよ風が気持ちよく通り過ぎた。パリパリのジャケットとフワフワのワンピースは似たようなリズムでゆっくりと風の間を泳いだ。
「ユノさん。私はオブラートに包むってことが苦手なのです。だから、はっきり言わせてもらいますね。あなたは現時点で天国行き有力候補者です。ついでに天使昇格の可能性も大いにあります。しかし、同時に孤独死リストの有力候補者でもあります」
「天国行き…。天使昇格。孤独死…」
 ユノはこのバカげた話の始まりを妙に納得しながら聞いていた。
「ご自分でわかっていらっしゃるかと思いますが、あなたはここ十年近く、個人的な関わりを誰とも持たず過ごしてきましたね。人との関わりを絶ったあなたは、この島国の四季が織りなす自然美と、ジャスミンティーやカモミールティーの香り、それから時々チョコミントアイスを楽しんで時を過ごされてきましたね。ええっと、冬の間は―日本秘湯シリーズの入浴剤と鍋焼きうどん―でしたかね。つまり、なんら罪もなく平和に暮らしてきたあなたは、天国行きほぼ確定なのです」
「私もそう思います」
 ユノは自分の天国行きを至極自然と肯定した。そこには多少の厚かましさがあったかもしれないが、ユノは素直にただそう返事しただけなのだった。
「ご自覚ありますよね。よかった」
 どうやら天使も人間の心の声は聴くことができても、本心まではわからないらしい。ユノはこの砂漠紳士を―にわかに信じがたいが―天使なのだろうと受け入れ始めた。
「ですがね、先ほども申しましたように、このままだとね。あなたは本当にひとりぼっちなのです。そこの危機感は今日のお買い物を見ている限りなさそうですね」
「はい。このままでいいと思っていました」
 二人はユノのアパートの前まで来た。
「どうぞ、上がってください」
「そうですね。お言葉に甘えて」
 天使は今にも傾きそうなさびついた階段をゆっくり身長に上り、二〇五と書かれたドアを開けて部屋の中へ入った。天使には鍵などご無用なのであった。ユノはそれに続いた。
つけっぱなしのクーラーがひんやりとした空気を放って二人を出迎えた。微かに甘い匂いがするのはユノのお気に入りのフレグランスの香りだ。天使はくるりと玄関の方を向いて靴を脱いだ。意外なことに天使は靴下を履いていた。極浅の黒の靴下だった。ユノは少し自分が恥ずかしくなった。
「どうぞ、ソファの方、かけてください」
 天使はジャケットを脱ぐと、どかっとソファに腰を下ろし、紺のネクタイを緩めた。天使には先ほどから少々そういうところがある。ユノは天使のそんな部分もすんなり受け入れられた。ユノは小さなシステムキッチンに立って、さっき買ったアイスをちぐはぐな器に盛ってスプーンを添えた。来客用のペアの食器なんて用意していなかった。スプーンもグラスもちぐはぐだ。でもお気に入りの小さな漆のお盆に乗せると、なんとなく来客用のセットらしくなった。
 ユノは天使の真向かいに膝をついて、ソファの前のローテーブルにお盆を置いた。
「ご丁寧にどうも」
「いえいえ。こんなこと滅多にないことだろうし…」
 ユノはおしぼりと用意したおもてなしを天使にお出しした。そして自分の分も同じように向かい合わせに並べ、腰を下ろした。天使はおしぼりで顔をぐしゃぐしゃと拭いてから、ジャスミンティーをがぶがぶっと飲み干した。
 それをちらりと見た後、ユノも一口だけお茶をごきゅっと飲んだ。
「それでですね。お察しかと思いますが、会議で議題にかけたのです。あなたの今後についてを」
「神様が、ですか?」
「いえ、これは私の案件ですので、私が会議に持ち込んだ形です。はい」
「それはどうも…」
「いやいや。仕事ですから」
 天使は少し顔を緩めた。心なしか頬がピンク色に染まったように見えた。誰かのこんな表情を見るのは久しぶりだ。ユノは心の中で少し嬉しく思ってしまったことを天使に悟られない様に、深く俯いてアイスを頬張った。天使はピンクの頬のまま、真面目な顔をして言った。
「それでですね。あなたはこのままでいいと思っていらっしゃるようなのですが、私としては、もう少し人生を堪能してほしいのです。確かに神の造形物はどの美術館に行くよりも素晴らしいコレクションです。あなたがそれを楽しみながら、ひっそりと生きていることには、なんの罪もない。しかし、しかし、しかし。私はあなたにひとりであって欲しくないのです。これは私の天国的な先天性の性質で、あなたのことが放っておけない、そういう愛で満たされるように天使は作られているのです」
「だからさっきから前のめりなんですね」
 ユノは空っぽの頭から出てきた本音で天使をぐさっと刺した。天使は頬の赤みを増しながら目と鼻を大きく広げた。
「そう、そういうところがあなたの難点です。人の気にしていることをズバッと言い当ててしまう残酷さ。しかし、だれにでも欠点はある。大事なのは欠点があることではなくて、相手を気遣う気持ちなのです。思いやる気持ちが少しあれば、欠点は愛着にすらなり得る。僕は確かに少し前のめりな部分があります。しかし、だからこそこうやってあなたみたいな人とチョコミントアイスを半分こできるところまで辿り着いたのです。あなた、私が手を引っ張ってあのコンビニから歩き出さなかったら、きっと私とこのアイスを分かち合ってはいなかったでしょう」
「はい。その通りだと思います」
 ユノは頬張っていたアイスのスプーンを器に戻して、手を膝の上に置いた。
「まったく。私も私ですが、あなたもあなたです。そこのところは許し合いましょう」
「はい」
「よかった。では、話を戻します。それでですね。あなたはもう、人と深く関わるには特殊すぎる状態になってしまった。おひとりでこの状況から脱するのは少し難しいでしょう。だから今回だけ、天使のお情けです。明日この封筒を朝一番に開封して読んでください。そして、そこに書かれた通りのことをしてください。そのあとは、あなた次第です。いいですか。これは単なるきっかけにすぎないのですよ」
 天使は封筒を一通、ローテーブルに置いた。女性好みのかわいらしい北欧風の花がデザインされた横型の封筒だった。
 ユノはその封筒に触れることすらできなかった。自分が誰かと関わるなんて…これからも季節や名所の写真を撮り、ネットの素材サイトで少し稼げれば、このまま誰とも深く関わらず生きていけるのに。そう思いつつも、こんな自分と気の合う相手など、この世にはもう存在しないと思い込んでいたから、もしそんな人間がいるのなら会ってみたいかもしれない。と忘れていた他人への好奇心が少しだけ芽生えた。そんなことをぼやっと考えていると、
「ご馳走様。それではこの辺で」
 そんな声がした。ふと顔を上げると、ソファにはもう誰も座っていなかった。汗をかいた空のグラスの横には、黄色い封筒がまだ未開封のまま置いてあった。
「天使か」
 ユノは残りのチョコミントアイスをゆっくり堪能しながら窓の向こうの空をぼんやり眺めた。そしてその日の残りの時間は始終そんな感じで、ただただ日が暮れていく空を眺めて時間が去っていった。ローテーブルの上に置き去りになった黄色い封筒もグラスもスプーンも共に、夕焼けと星空の間を眺めていた。
 ユノは冬に少しだけ余った日本秘湯シリーズを棚から出して、お風呂にまあるく振りかけた。
「ほけてぃぼけてぃぼけてぃほげてぃ」
 明日何が起きるのだろう。不安と期待が6対4くらいの割合で湯気になって充満した。ユノは湯船に浸かると、その湯気をできるだけめいいっぱい吸い込んで、そして吐き出した。
「何か着るものあったかな…」
 ユノはこの十年ほど考えもしなかった明日の服のことを考えた。そして一度も使ったことのなかったスポンジのカーラーを箪笥の一番奥の方から取り出した。
「急だなぁ」
 そういいながら、顔周りの髪の毛をまんまるのスポンジにくるくると巻き付けて、ベッドの布団をめくった。
「男の子かな。女の子かな」
 そういいながら、布団を顎の下まで被って、また天井を見上げた。ユノは胸の高鳴りを感じつつも睡魔がゆっくりやってくるのを感じた。眠りにつくのに、そう時間はからなかった。きっと明日になるのも、そう時間はかからないのだろう。

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