見出し画像

016 銅鐸博物館にて「古代の土器から見た西河原遺跡群」を講演

2024年3月2日、銅鐸博物館(野洲市立歴史民俗博物館)にて歴史講座「古代の土器から見た西河原遺跡群」と題してお話しさせていただきました。

私が滋賀県文化座保護協会に所属していた2007年に古代の野洲郡衙に関わる西河原宮ノ内遺跡の発掘調査を担当し、事前に調査歴を調べていく中で古代の木簡が出土しそうだと感じました。そこで滋賀県立安土城考古博物館の大橋信弥学芸課長に出土した際の対応を相談したところ、碩学山尾幸久先生(当時:立命館大学教授)を座長とし、奈良文化財研究所の渡辺晃宏さん(現:奈良大学教授)、市大樹さん(現:大阪大学教授)に声をかけてあっという間にチームを作っていただき、出土したならば野洲市所蔵木簡の再調査も行って翌年の企画展を木簡でやると言われました。大橋さんの勢いに気圧されながら、発掘調査の準備を行うとともに野洲市教育委員会に赴き、木簡の調査を依頼しました。加えて、県教育委員会の大沼芳幸さんに保存策が必要になる可能性があることを伝えました。

初夏、調査を進めると、3×4間の総柱の掘立柱建物を検出し、柱抜き取り穴から木簡が顔を覗かせていることに気づきました。すぐさま大橋さんと大沼さんに連絡を取り、木簡が出土したことを伝えました。そこから間をおかず、調査研究チームが招集され、釈読が始まります。どうやらこれらの木簡は7世紀末から8世紀初頭の干支と、貸し稲にかかわる事柄が記されていることがわかりました。このことからこの建物は野洲評(郡)の倉院である可能性が高いと判断しました。
このことを受けて、大沼さんに連絡を入れたところ建物遺構を現地で保存できるよう働きかけみるという力強い言葉をもらいました。

現地の発掘調査が一段落した時点で、野洲市所蔵木簡の再調査をはじめました。すると管理が十分ではない時期があったようで、ポリエチレングリコールで処理をした木簡が変形したり、樹脂が溶け出しているものがありました。職場の先輩である保存処理担当の中川正人さんの尽力で再処理を行い、変形したものについてはなんとか旧状に近い形に復することができました。再処理を行うと木簡に付着している墨痕が流れ出してしまうかもしれないとのことだったので、改めて赤外線写真を撮影するとともに文字の釈読を行いました。

調査チームはフル稼働して、90点余りの木簡は全て再釈読を試みるとともに撮影を行いました。季節はあっという間に秋になっていました。
その頃には、私は野洲市と滋賀県が実施した周辺の調査成果を再整理することにより、古代の野洲評(郡)衙に関わる遺跡を総称して西河原遺跡群として捉え直すことを提唱しました。

現時点での西河原遺跡群に対する理解は以下の通りです。
西河原遺跡群は、滋賀県の南東部、琵琶湖に面した野洲市(旧中主町)西河原の周辺約1km四方程度の範囲に位置する複数の遺跡(西河原森ノ内・西河原宮ノ内・西河原・湯ノ部・光相寺・吉地薬師堂・吉地大寺遺跡など)を指すもの。これらの遺跡は、七世紀後葉から八世紀前葉にかけて①建物の主軸方位が南北方向を指向する、②畿内系の暗文土師器を大量に用いる、③多量の木簡(現時点で90点)が出土するといった点に共通点がありました。
遺構については、ここの調査範囲が狭く、いまだ全体像が明らかではないのですが、西河原宮ノ内遺跡第7次調査の大型倉庫SB702、西河原森ノ内遺跡第2次調査の大型建物SB2201、西河原森ノ内遺跡北半の整然と区画された遺構群、西河原宮ノ内遺跡第3次調査の主軸を揃えた遺構群は(一般的ではないという意味を含めて)官衙的であるといえます。
また、遺物についても、豊富な出土量はもとより、「みやこぶり」な畿内系暗文土師器、硯(転用硯を含む)の出土量が多いこと、直線距離で6km離れた鏡山古窯址群にて生産されていた須恵器の集散の場となっていたことなどは、遺構と同様に官衙的であるといえます。加えて、木簡や墨書土器からうかがわれる西河原遺跡群に居住したであろう人名から、鏡山古窯址群における須恵器生産にミワ部や天日矛の後裔である三宅連が関わっていたと推測しました。

2008年夏には安土城考古博物館において〈古代地方木簡の世紀〉と題した展覧会を開催し、木簡については滋賀県指定文化財となり、2011年には重要文化財となりました。遺跡は道路の下ではありますが、現地で保存されることになりました。幸せな遺跡遺物であるとともに、関わる人たちの熱量に押されてさまざまなことを考えさせてもらえた自分も幸せだったなと振り返っています。
本日話した内容は、今年中に論文としてまとめ直そうかと思案しているところです…



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?