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「せつない」という言葉の響き

”せつない”という言葉の響きが、なぜか私はたまらなく好きだ。言葉としての”せつない”は、よく文章の中で見かけるけど、声に出される”せつない”は、美しい希少価値がある。

それは”せつない”と言う言葉そのものが、誰かに向けた言葉でなくて、唯一自分の心の中に、捜し求める言葉だからだろう・・・そう、私は思う。

その言葉に、ふと、思い出すことがある。
誰かに言われた”せつない”という
あの時のあの声を・・・

あれはもうかなり昔の前のこと。社員旅行に行ったとき、どこか灯台のような高い場所に数人のグループで登った時のことだ。目の前には、波の音を響かせながら海がどこまでも広がっていて、季節は秋の終わり頃だったような気がする。

そこはとても狭い場所だった。風が強くとても冷たかった。仲間のうちで、たまたま私は偶然にも、あまり喋ったことのないような同じ社員である若い女性と、隣り合わせになっていた。

パセリのようなみずみずしさ・・・そんな表現が、とてもよく似合う彼女だった。きれいな長い髪をしていた。彼女に彼がいることを私はなんとなく知っていたし、誰にでも明るい彼女だったから、ちょっとした仕事上の会話や挨拶くらいは互いにする程度の仲だった。でも、その状況に、私はとてもあせっていた。

理由はわからないのだが、彼女の寂しげな横顔が私を途方に暮れさせた。いつもの彼女と何かが違っていた。何か言葉が必要だと思った。今ここで何か喋らないといけないような・・・そんな感覚が私を苦しめた。

私は自分であきれるほど口下手なほうだ。彼女はそんな私をよそに、風に踊る髪を右手で押さえ、遠くを静かに見つめるばかりだった。

「風が冷たいね」

やっと言えた私の言葉は、情けなくも、実にありきたりなものだった。そんな私に、彼女はじっと海を見つめ、小さくもこう、つぶやいたのだ。

「せつないね」と・・・

まるでそれは、さっき目覚めたばかりのような
そんなかすれた声だった。

その意味が、今も私にはわからない。
ただ、その場面が、私の心に強く焼き付いてしまっていた。

今思えば、それが私に言った言葉なのかさえも、どこか自信が持てない。時として女性の言葉には、そんな魔法めいたものがある。間違ってもそこに、特別な感情があったわけでもない。(とても残念なことに)

ただ、唯一の手がかりとしては、彼女の視線の向こうには、名も知らない白い鳥が寒そうに震え、片足で立っていた。

・・・ただ、それだけ。

私の中の”せつない”は
あの時のイメージのまま
今もこの心に漂っている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一