人生は「どの時点で判断するか」で幸せ度が変わる
自分の人生が幸せだったか?というのは、終わってみないとわからないわけですが、おそらく終わる頃には
「概ね幸せと言える」
と結論づけるのではないかと思います。大きな不幸もないですし、大きな幸せもないですが、それでも「それなりに生きてきた」という具合に。
自分の人生が幸せかどうか、それは「どの時点で判断するか」で変わります。私の人生を例にして振り返ってみます。
・幼少期:幸せとは言えない→当時そういう意識はありませんでしたが、いじめにあっており不登校児でした
・小学校後期:おそらく人生で一番幸せ→素敵な友人もいましたし、毎日が新鮮で、とにかく笑っていた記憶があります
・中学生:まぁ幸せと言える→可もなく不可もなく、勉強と遊びを繰り返す毎日
・高校生:幸せとは言えない→記憶がほとんどないほど、なにもない日々
・大学生:それなりに幸せ→バイト、サークル、恋愛と、忙しかったが充実はしていたし一生の友人にも出会う
・社会人1年目:最悪→最初の会社を3ヶ月で退職し、所謂フリーターに転身、目的もなく唯生きていただけ
・北京留学:幸せ→学生に戻り勉強と遊びを繰り返す毎日、異国での生活は刺激的
・北京就業:まぁまぁ不幸→ブラックな労働環境に貧困、とにかく職務履歴を残すためだけの期間、ただ仕事の基礎は多く学んだ
・30歳:どん底→心臓に異常が見つかり、手術することに
・広州駐在:おおよそ幸せ→仕事は激務ではあったが、仲間に恵まれて充実はしていた
・コンサル時代:最悪→24時間営業の激務で身体もメンタルもボロボロ
・コンサル後の会社:最悪→応募とアサインがまったく異なる異常事態で、業務レベルも低く、ただ生きていただけ
・ITベンダー時代:概ね幸せ→最新テクノロジーに関わることが出来、仕事も充実、仲間にも恵まれる
・ITベンダー後:最悪→メンタルをひどく崩して人生に迷いなにがしたいのかなんのために生きてるのかわからなくなる
と言った具合です。
自分自身としては、小学校後期が一番「なにもかもが幸せだった」と言える時期で、それ移行はロスタイムのような感覚です。もし人生がここで終わっていたら、
・最高の人生だった
と言えたのかも知れません。
一方で、「止まない雨はない」などと良いますが、不幸が続くこともありませんでした。ひどい時期は数年に渡りあったりはするのですが、その後は持ち直してきたと思います。これはもう自分の力などではなく、
・そういう風に設計されていた
と思わざるを得ないような、「運」とも言える変化でした。
過去に、中学生ぐらいのときに
・幸せとはなにか?
と考えたことがあります。そのときに出した答えは
・幸せとは不幸ではないこと、不幸とは「自分が不幸だと感じる」こと、つまり自分自身が「不幸だ」と感じない限りは幸せなのである
ということです。今考えてみてもこれ以上の回答は見つかっていません。
人生は「判断の連続」だと思います。大きな判断だけでなく、小さな判断の積み重ねが、少しずつベクトルを決定していきます。細心の注意を払って生きていたら、それはそれで疲れてしまうので辞めたほうが良いと思いますが、それでも
・何気なくしている行為が運を悪くしてないだろうか
と考えることは重要ではないかと思います。
スピリチュアルな話ではなく、「自分が納得できるかどうか」という観点で、行動や思考を整えていくほうが、幸せになれるのではないかということです。
年を取ると新鮮なことは減りますし、例えば海外に出たところで「想定内」が多くなっていくわけで、年を取るほど「瞬間の幸せ度」の最大値は減るような気がしています。ただ、「幸せだと思う気持ち」は本人次第なので、いろんな「奇跡」に喜んで生きていくほうが良いだろうとも思います。
どの時点で判断するか、というのはこれからも続くわけですが、最終的に全体を見て、
・まぁまぁ悪くはなかったかな
と思えたら良いなと思います。幸せの最高値を更新し続けるのはしんどいですが、幸せだと思う気持ちを持ち続けることはできるのではないか、と思う次第です。
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