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海外文学を原文で読むべき理由

『A Christmas Memory(クリスマスの思い出)』というカポーティの短編小説があります。私はこの作品が好きで何度も読み返しています。何度読んでも同じシーンで泣けます。好き過ぎて、自分で日本語に翻訳をしたこともある位です。辞書を引いて単語を調べながら、原文のイメージに出来るだけ近い表現を試行錯誤しつつ翻訳していく作業はなかなかに大変な作業であり、同時に楽しい作業でもありました。でも、本当に満足できるような訳には出来ず、意味をちゃんと取れないままの箇所もありました。そんなこともあって、一度プロの方が翻訳された『クリスマスの思い出』を読んでみたいとずっと思っていました。

つい最近になって、ようやく翻訳版『クリスマスの思い出』を読むことができました。翻訳されているのはあの村上春樹さんです。村上春樹さんは海外文学作品の翻訳をたくさん出されています。ずっと昔『ノルウェーの森』を読んだ位で、春樹ファンというわけではないですが、なんとなくその世界観が好きでもありました。そして、彼は好きな作家としてトルーマン・カポーティの名前をあげています。どんな風に訳されるのかとても興味がありました。『ティファニーで朝食を』というタイトルで、カポーティ作の他の短編と共に1冊の本に収録されています。オードリー・ヘップバーン主演の映画で有名な『ティファニーで朝食を』も一度読んでみたいと思っていたので、合わせて読んでみることに。でもまずは『クリスマスの思い出』から読み始める。ストーリーは覚えているし、何度も読んでいるけれど、やっぱり同じところで泣くのだろうか?

ところが、いざ読み始めてみるとちっとも泣けないのです。ストーリーは私が知っているのと全く同じです。次にどんなシーンが来るかも読んでいてわかる位によく覚えています。原書で読んだ時には「次こうなるんだ」と思うとそれだけで涙がこぼれてきたのに、翻訳版ではちっとも涙が出ない。何度も読んで慣れてしまって感動が薄れてしまったんだろうか?そうかもしれないけど、それだけでもない気がする。私の知っている通りの話だし、私がちゃんと読めていなかった箇所が確認できて良かったのだけれど、私が知っている『A Christmas Memory』とは何かが違う。何だか別の作品を読んでいるような気分でした。

誤解して欲しくないのですが、決して村上春樹氏の訳が良くないと言っているのではないのです。ただ、日本語に置き換えることで、もとの英語が持っていたリズムや言葉の響きがどうしても失われてしまう。私がカポーティの原文で読んだ『A Christmas Memory』と、村上春樹氏が訳した『クリスマスの思い出』は、ストーリーは同じだけれど、作品としては別の作品なのだと思います。ストーリーを楽しむのであれば翻訳書でも十分です。でも、言葉そのものの響きや文体の美しさを感じるには、やはり原文で読むことが必要なのではないかと思うのです。

作品の冒頭部分を読み比べてみるとこんな感じです。

Imagine a morning in late November. A coming of winter morning more than twenty years ago. Consider the kitchen of a spreading old house in a country town. A great black stove is its main feature; but there is also a big round table and a fireplace with two rocking chairs placed in front of it. Just today the fireplace commenced its seasonal roar. (Truman Capote "A Christmas Memory")

11月も末に近い朝を想像してほしい。今から20年以上も昔、冬の到来を告げる朝だ。田舎町にある広々とした古い家の台所を思い浮かべてもらいたい。黒々とした大きな料理用テーブルがあり、暖炉の前には、揺り椅子がふたつ並んでいる。暖炉はまさに今日から、この季節お馴染みの轟音を轟かせ始めた。(トルーマン・カポーティ『クリスマスの思い出』)

言っている内容は同じですが、受け取る印象は違うように思います。一文目、動詞「imagine」でスタートします。二文目は名詞だけの文章。一文目のimagineを受けているのではないかと思います。次の文章は動詞「consider」で始まる、一文目と同じ命令文の形です。動詞で始まるので、読み手はまずimagine, considerという動作を促されます。「想像して」「思い浮かべて」という単語が頭に入ってきて、それから「何を?」という目的語が後に続くのが英語の形です。読んでいて思わずその情景が心に浮かんでくるような気がします。一方で日本語は、まず細かい情報を提示した後、文章の最後に「想像してほしい」「思い浮かべてもらいたい」という動詞が入ります。原文と比べてインパクトが弱くなる気がします。最後の文章も、英語ではJust todayで始まりますが、日本語では「暖炉は今日から」と主語を先に持ってきているので、やっぱりちょっとインパクトが弱まる。内容はちゃんと正しく伝えているのだけれど、受ける印象が違う。日英でも英日でもそうですが、日本語と英語の語順の違いというのは、翻訳する際の大きな障害になります。

全編を通じて、そんな風にちょっとずつ言葉のリズムにズレがあります。カポーティの書く英語のリズムや美しさを、日本語で再現するのは難しいです。だって全く別の言語なのだもの、全く同じ語感を伝えるなんてできっこない。しかも、作者はカポーティです。訳者あとがきで村上春樹さん自身も、(『ティファニーで朝食を』についてだけれど)、「内容に負けず劣らず、その文体がひとつの大きな魅力になっている。(中略)何度も繰り返しテキストを読み込んだが、その研ぎ澄まされた無駄のない文章には、いつもながら感心させられた。」と書いています。

話は変わりますが、私が以前、翻訳スクールに通っていた時に、担当の外国人講師に「お勧めの小説はありますか?」と聞いてみたことがあります。講師のお勧めはカポーティの『In Cold Blood(冷血)』という作品でした。それで早速私もその本を購入して読んだことがあります。もともとカポーティの文章が好きだったし、こちらもやはり英語で読みました。内容は簡単ではないので、やっぱりちゃんと読めていない部分も多いと思うのですが、それでも原文の英語で読みたかった。そして、その時に話した講師の言葉が、翻訳作品についてある種の真実を語っている気がするのです。「翻訳に関わる仕事をしていて何だけど、実は、翻訳作品はあまり好きじゃない。翻訳作品はオリジナルとは違う作品のような気がする。」

翻訳の勉強をしていて(実務翻訳ではありましたが)講師にそう言われてしまうのはちょっと皮肉な気もしますが、でも同じ作品でも訳者が変われば違うものになるのも事実。翻訳作品は、翻訳作品として楽しむのがいいような気がします。海外の作品、特に文学作品を翻訳される訳者さんは、翻訳の限界をわかった上で、いかに原文に近い翻訳をするかに苦心されているのではないかと思います。原作を超える翻訳ができるわけではない。原作に匹敵する翻訳をするのも大変。そして、翻訳書を読む側も、「あくまで翻訳版である」ということを理解して読むことが必要かなという気がします。そして、可能であるならばやっぱり「原文を味わう」ということが出来ればいい。そのためにも英語をしっかりと読めるようになりたいと思うのです。

昔に比べてずいぶんと楽に洋書を読めるようになりましたが、文学作品となるとまだまだ難しい。それでもやっぱり、長い年月を経て読み継がれている作品は、何度も読み返したくなるような魅力的なものが多いです。そんな文学作品をやはり原文で読みたい。ストーリーを楽しむだけならば翻訳版でも良いのです。でも、内容だけではなく、表現の美しさや言葉の力をもっと感じたい、作者の生の言葉を聞きたい。そう思うなら、やっぱりオリジナルの原書を読むべき。そうは言ってもドイツ文学やフランス文学は無理だから、せめて英語の作品だけでも(そしてもちろん日本語も!)原文で読みたいと思うのです。

英語を学ぶ理由は様々だと思います。私もいろいろな場面で「英語がわかって良かったな」と思うことがありますが、その1つに「洋書を原文で読める」ということもあります。皆さんはどうでしょうか。もし本が好きで海外の作品も読むという方は、好きな作品を「原文で読みたい」というのも英語学習の大きな理由になるのではないでしょうか。きっと新しい発見があると思いますよ。


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