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「休日」という言葉に違和感。神社参拝をしなかった昨日

「神社参拝をしないということ」をした一日を「休日」と表現することに疑問あり。休日という言葉の裏には、労働して当然という価値観と、集団的活動を効率よく行うための前提条件があったのではないか、という話。明日から天売島と焼尻島へ。

おはようございます。🍛⛩日本のカレーと神社をハックするえーごです。今日もね是非「スキ」ボタンを押してみてください。大吉~大凶まで表示されますよ。僕のことを好きでない人も「スキ」ボタンを押してみるといいかもしれません。


気だるい夕方の暑寒別岳と日本海↓

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昨日は午前中が雨で、神社参拝はしませんでした。というか「何もしなかったということ」をしていました。
体調はすこぶる元気だったのですが、神社参拝すると足元は濡れるし、クルマから出入りするときいちいち傘を操作しなきゃいけないとか、面倒なことこの上なくてダルいので、止めました。

昨日やったこと
3:50 朝の般若心経朗読
6:30 note投稿
10:30まで 二度寝
15:00くらいまで 適当にコーヒー飲んだり、note記事を読み漁ったり
16:00-19:00 3km走って→温泉→休憩所でストレッチとか
19:00 夕焼け見る
20:00 夕飯
21:00  就寝

なんだかんだでやることやってんじゃん、って感じです。
ダルいという感覚を無視して参拝することもできたのですが、そんな感覚で神様と対峙しても面白くないので、止めて正解かと。

んで、「神社参拝しなかった」ということについて思ったことを記載していきます。


●「休日」という言葉への違和感

昨日は神社参拝をしなかったわけですが、ある人から「今日は休日だね」と言われて何か違和感を感じました。

休日って何?

たしかに昨日は「神社参拝をしなかった」わけですが、休日かと言われると違うなーというわけです。
僕にとって神社参拝は主な活動の一つではありますが、単にそうであるというだけでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

たぶん、神社参拝とその他の活動を無理に関連付けしようとして、雑な言葉で紐づけようとしたから「休日」という言葉が出てきたんじゃないかと。


↓留萌の黄金岬からみた夕日

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●仕事をしない日は休日?

―――昔を考えてみました。

僕は1年半前まで会社勤めをしていて、平日は出勤、土日は休みという生活でした。


世間的にはごくありふれた一文ですが、今の僕にはこの一文は違和感だらけです。(自分で書いていてびっくり!)

まず「僕は会社勤めをしていた」というところからすでに何かがおかしい。
たしか日本人は「何かに属するということ」を重要視しているから、この一文があるんだなと。

で、「平日は出勤、土日は休み」という文については

前提条件として働くということが主となっているから、平日は出勤と表現し、
働かないという日は「休み」と表現している。

という関係性になっていることに違和感を感じているのかと。
働くということに重きをおいて、主なものと位置づけしているようにみえることに違和感があったわけです。

「労働という行為を行うことが当然」
という前提条件が隠されている、言い換えてもいいかもしれません。

そもそも
労働って何ですか?
って問いが僕には出てくるのですが、
ほとんどの人は労働とは金を稼ぐ行為くらいにしか思ってませんので、そういう曖昧な感じで労働というものをしたくはないですね。

●労働と休みの曖昧な境界線

もともと労働と休みは境界線が曖昧だったはずですが、組織的な活動をするにはそれでは不都合だ、ということで、無理やりに境界線を引いたのかもしれません。

だって1時間も何か作業したら疲れますよね。だとしたら休みますよね。
休んだらまた活動して、また疲れたら休んでを繰り返すはずです。

そうか、集団的な活動を効率よく行うための区分けが前提にあったかもしれないですね。

仮に僕の神社参拝を労働とし、神社参拝をしない時を休みと定義したとしても、僕は一人で活動していますので、労働と休みを好きに選ぶことができます。
だとしたらそもそも区分けそのものが不要ですよね。
なので、昨日の僕は単に「神社参拝をしなかった」というだけでしかないわけです。

うん、なんとなく違和感の元が見えた感じがします。

結論的には特にこれといったものはないですが、なにかの気付きのタネとなったらいいなと思って記録しておきます。

●今後の予定

明日6/22-24に天売島と焼尻島に行ってきます。
離島の神社参拝ですね。
友人&知り合いがいますので、会ってきます。

それでは今日もよい一日を。

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