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日本映画父。マキノ省三

割引あり

日本映画の父というと、マキノ省三、らしい。

どういうわけでか?

稲畑勝太郎という人物がいた。
現在の稲畑産業株式会社の創業者。
京都で海外合成染料直輸入貿易をしていた稲畑商店を発展させた人だが、その前に稲畑勝太郎は、京都府の派遣留学生8人に選ばれて、フランス・リヨン大学に留学していた。
このリヨン大学で、リュミエール兄弟の兄オーギュストに出会っている、とのこと。これは、「稲畑勝太郎」のWikipediaにある情報で、「リュミエール兄弟」の方に記載はなかった。

「リュミエール」or「リュミエール兄弟」で検索すると、どうしても「映画の誕生」にまつわる事柄(&シネマトグラフ開発など)だけになり、それぞれの経歴詳細は判らなかった。
リュミエール兄弟の父親が写真関連機器製造工場を有していた辺りのことは判るけれど。

ともかく。

「稲畑勝太郎」での情報で。
京都府がフランスへ留学生を派遣した要因にレオンデュリーというフランス人がいて、この人もなかなか興味深い、のだけれど、まぁ、詳しくは検索してみれば判ることなんで、ここでは名前をあげとくだけにする。

1896年に社用で渡仏した稲畑が、シネマトグラフの上映を見て、シネマトグラフ2台とフィルム、日本での興行権を買い取って、リュミエール社の撮影&映写技師を伴い、1897年1月に帰国。
1897年2月に、大阪南地演舞場で日本初の有料上映会を行った。これが、日本初の映画興行、だそうだ。当時は「活動写真興行」だった。

その、稲畑と共に来日したフランス人は、日本各地で撮影をしていて、稲畑はこの撮影旅行を同行したりして支援。
こうした一連の、シネマトグラフ輸入興行撮影などにはたした稲畑の役割は大かったと思われる、けれども、もともと会社経営者だった稲畑は、その役割から撤退した。というか、(製作上映興行といった)映画産業に執心してはいなかった。

そこで横田商会が出てくる。

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