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合気道

光輪洞合気道なる名称を知った。

「植芝盛平という御方が、合気道という名称を生み出し合気道という武道を創出した」と単純に思ってたら、なぁんとなんとところがどっこい、そぉんな簡単なもんではなかったのである。
(私はこの系列の合気道を習ってきており、植芝盛平氏は大(おお)先生、あるいは開祖とお呼びする。合気道界における多数派。?)
ひとくちに「合気道」といっても、まったくひろぉぉいのでありました。

植芝盛平大先生は、北海道白滝村入植移住時代に武田惣角に出会い教えを受けていて、大東流合気柔術を修練されている。
大東流合気柔術の武田惣角も、会津藩内のお留め技として、会津藩士西郷頼母より教えを受けたときいていたのだが、これもあやしいらしく、大東流合気柔術は武田惣角の編み出したものとの説がある。 (西郷頼母が、その武術を習得していたことに疑念あり。)
更に、、西郷頼母からの流れというのもあるし!?(@_@;)、
更に さらには、甲斐武田家からの系統として、甲斐武田氏からの流れを標榜するところもある(西郷たのも→武田惣角の大東流ではなくて。)

宗家宗主、正統系統、いろいろで、
何よりもこの大東流がこんがらがってる?(と思える)のは、武田惣角という人が各地を渡り歩いて教えていたからといえる。
本部道場なんてものは設けず、まして組織だったものなどなく、したがって教示の仕方や考え方とかに系統的な方法論がなかった。 実際、武田惣角に習った期間の長さからすれば植芝盛平大先生よりも長い人がいるのだ。

植芝系合気道でも、平井稔という人が創始した光輪洞合気道なるものがあることを、知った。(mixiで)そして、「合気道」なる名称についても。
戦時下、1942(昭和17)年に、武道界を統制する政府外郭団体の大日本武徳会に、体術や剣術などを扱う総合武術の部署が設置され、これが「大日本武徳会合気道部」との名称を名乗ったそうで、このころ、植芝盛平大先生は合気道を名乗っていなかった。
当時、大日本武徳会から総合武術部門設立についての協力要請をうけた植芝盛平大先生は、自らの道場「皇武館道場」の総務であった平井稔を推薦し、平井は大日本武徳会の幹事に就任、合気道部の運営にあたった。
戦後、平井は大日本武徳会合気道を受け継ぐとして、光輪洞合気道を興した、そうだ。
平井稔は、幼少より剣術などを修業し、1938年に岡山市に恒河洞道場を設立、
翌'39年に植芝盛平開祖と出会い、誘われて上京、開祖の道場である皇武館道場の総務となっていた。

植芝盛平系合気道じたい、三代めとなり、枝分かれしており(養神館とか心身統一合気道とか)、 いやぁ~~~、合気道、なんともなかなかに奥が深い、と感じ入るしだい。

そういえば、
岩間流合気道なるものがあるのも最近耳にして(野口整体を習っている人から)、調べてみたら、 合気会からは独立していた。
茨城県岩間市にある合気神社は、合気会の管轄下のはずだから、 この辺り、ちょっと不思議な感じ。

私達の先生、 遠藤征四郎師範は、植芝盛平開祖の合気道を直接見学しておられ、開祖最晩年の内弟子なのだが、
木剣や杖をより積極的には教示されてはおられないとの私の印象で、 岩間の斎藤守弘氏の合気道を受け継いだ子息の、岩間流合気道とは、明らかに一線を画していると思う。

そうそう。日本道観(導引術)の早島正雄氏も、広い意味での合気道を学んでいたこともわかった。
中国拳法(内家拳?)で有名な佐藤金兵衛氏もだった。

一部、敬称 略。
失礼な点ありましたら、お詫び申し上げます。m()m 情報・記述、不具合など、ありましたら、どうぞご指摘、お願いいたします。 m()m  
                              平井稔。1903~ 1998

植芝盛平。1883(明治16)年 12月14日~1969(昭和44)年 4月26日

写真は、
1995年
長野県佐久市合気道道場落成式にて。
(財)合気会、植芝吉祥丸、二代め道主と。

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