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アメリカで。合気道に関して


−アメリカで合気道について考えた 
 私は2001.9.11事件当日、ニューヨーク州の日本山妙法寺のお寺にいた。

 その後、

 LA の日本山妙法寺道場で、一冊の本に出会った。
 植芝盛平翁口述記録の本、『武産合気』ー白光真宏会出版、高橋秀雄著ーである。
 その事に因縁めいたものを感じ、大先生のお言葉に南無妙法蓮華経に通じるものを感じた。なんというか、合気道に試合のない事の意味がよりはっきりして、私が合気道を続けている事に意味を強く感じたのだ。

 私が合気道を始めたのは1990年、34歳の時だったのだが、私はもともと、他人と争う事が好きでなかった。
他人を押し退け自分をより主張し要求を通して自分の望みを獲得していく、といったことはできなかった。

私達はどうしても自我に固執しがちだ。自分の感情や考え、あるいは立場、生い立ち、生活等、そういった私的個人的なレベルにおいて考え、動き、悩んだりしている事が多い。
けれど、日本山妙法寺のお坊さんに出会い、伝統派インディアンのより自然に即した暮らしに触れた事のある私は、私利私欲を離れて、より大いなる世界に遊ぶかのごとく執着していない人達のいる事を知った。

『武産合気』の中にこういう記述がある。
━『植芝の合気道には敵はいないのです。相手があり敵がいて、それより強くなり倒そうとするのが武道であると思ったら違います。真の武道には敵がない。合気道においは、相手を倒そしてやろうと錬磨するのではなく、世界人類平和のために少しでも役にたとうと、自分を宇宙の中心に帰一する心が必要です。宇宙そのものとひとつになることなのです。』

   敵がない、宇宙とひとつになるという境地、漠然とではあるが私はこう考えている。まずは敵をつくらない事が肝要だが、合気道は万物和合、愛の道なのだから、たとえ敵対している様に思えても、そういった二元論的立場を超えたところへ行かなくてはいけない。
> 自ら敵をつくりだしてしまう様では、まだまだ修業が足りないといわなくてはなるまい。
勝ち負けに拘ってはいけない。 
こうして、私達は合気道に試合のない理由に思いいたる。

 日蓮聖人も自分の心の平穏を求めたのではなかったし、法華経を信じた宮沢賢治さんはこういっていたー『世界が平和にならない限り私の幸せはないのです』。ー
合気道を学ぶ者はすべからく、この様な境地をめざすべきではないだろうか。
こういった意味において、合気道を学ぶことはすなわち、世界平和を願う祈りの道に通じている、と私は思った。

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