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町山智浩単行本未収録傑作選30 漫画編1・70年代ヒーローマンガ論 『サイボーグ009』が教科書だった 床屋で知った正義の意味

文:町山智浩
初出:『まんが秘宝Vol.1 ぶっちぎりヒーロー道』1997年

「ほかにはどんな能力を持っているんだ? まさか加速装置だけというんじゃあるまいな」
「あ、あとは……勇気だけだ!」 (『サイボーグ009』)

 そのセリフと出会ったのは床屋の待合席だった。
 月に一度の散髪の日。長い待ち時間はちっとも苦じゃなかった。目の前にズラリと並んだマンガ雑誌を片っ端から読みまくるのだ。夢中になるにつれ、ハサミの音に混じって流れていたラジオの『こども電話相談室』も聞こえなくなり、自分の順番も聞き逃すこともあった。
 そんな半ズボンのガキをいちばん興奮させたマンガは、もちろんテレビでおなじみのSFヒーローもの。でも……。
 刈り上げられた後頭部をさすりながらの帰り道、鼻にはシッカロールの匂いを、胃の中には今さっき読んだマンガの重苦しい後味を感じながら、国会へ向かうデモ隊とすれちがったものだ。

 子供は、とにかくヒーローが好きだ。正義の味方が好きだ。でも、正義って何だろう?
 デモ隊の学生を重装備の機動隊員が殴り倒すさまをテレビで見ながら、子供たちは思った。おまわりさんっていい人じゃなかったの? でも、どう見ても悪いヤツにしか見えないよ!
 ところが、『月光仮面』でも『少年ジェット』でも、とにかくそれまでのヒーローは、警察と協力して覆面のギャング団を退治するのが仕事だった。そんなチンピラをつかまえることが正義なのか?
 世の中にはもっと悪い奴らがいるじゃないか。ほら、テレビを見ればアメリカ兵がベトナムの農村で虐殺したって。政治家が何億円もワイロをもらったって。企業の薬害で奇形の子供がいっぱい生まれたって……。いちばん悪いヤツは誰? ヒーローが倒すべき敵ってどこにいるの? 世界征服を企む悪の軍団、なんておとぎ話では、もう子供の目すらごまかせなくなっていたのだ。
 いや、「世界征服を企む悪の軍団」といえば、日本という国そのものが、つい20年ほど前(当時)にはそうだったのだ。『快傑ハリマオ』というヒーローがいたけれど、実在のハリマオが日帝のアジア侵略の走狗でしかなかったように。
 そこに登場したのが『サイボーグ009』だった。作者はもちろん、『ハリマオ』のマンガ化で本格的にデビューした石ノ森章太郎。
 まず、ヒーローたちの出自が社会の現実をリアルに反映していた。ニューヨークの貧民街の抗争で人を刺し殺したチンピラ、故郷を奪われたアメリカ先住民、ベルリンの壁を越えようとした東ドイツからの亡命者、アフリカの逃亡奴隷、白人と日本人の混血であるがゆえに差別され少年院に入れられた孤児……。
 そんな者ばかりを集めて戦闘サイボーグに改造した「黒い幽霊(ブラックゴースト)」。それは、戦争で利益を得る政治家、軍事産業、資本家の結託した組織であり、世界各地の戦争はすべて彼らが起こしているのだと説明される。SFというにはあまりに現実に直結した設定だった。
 そればかりか、「黒い幽霊」に反逆したサイボーグたちは、当時、激戦の最中にあったベトナムに身を投じてしまうのだ。当時としては画期的にアクチュアルな展開だ。ところが皮肉にも、実際の戦場についたサイボーグたちは、どちらかの軍勢に加勢するわけにもいかず、ただ殺戮を傍観することしかできない。超能力をもったスーパーヒーローが現実を前に挫折する姿を見るのは、それが初めてだった。
 そして、あの最終回、大気圏外に逃げた「黒い幽霊」の魔神像の内部に入り込んだ009。
「ぼくらはまさにいま、世の中の悪という悪のおふくろさんみたいなやつのおなかの中にいるんだ」
「ふふん、なるほど。そしておまえはその中のちっぽけな善というわけか?」
 009は、ついに「黒い幽霊」の中枢である「三つの脳髄」と対峙し、玉砕覚悟でそれを破壊する。しかし、死に際に「脳髄」は言う。自分が死んでも「黒い幽霊」は滅びない。自分もまた「黒い幽霊」の細胞のひとつにすぎないからだと。さらに「脳髄」は言う。
「黒い幽霊を殺すには地球上の人間全部を殺さねばならない。なぜなら黒い幽霊は人間たちの心から生まれてきたものだからだ」
 人間たちのために悪と戦ってきたつもりだったのに、悪の正体は人間そのものだった。009のしてきたことは無駄だったのか? 「黒い幽霊」の言葉は単なる比喩を超えて、小学生の胸にもズシンと突き刺さった。子供達に「夢と希望」を与えるものだと信じられていた少年マンガが、おそらく初めて「悪夢と絶望」を描いたのである。
 悪はこの人間社会そのものだ、という前提ができた以上、これ以降のヒーローたちの戦いは、より孤独で過酷なものにならざるをえない。特に70年代に入って、学生運動をはじめとする社会改革運動がすべて敗北した後は、ヒーローものほど、その鬱屈の度を増していった。
 石ノ森章太郎はその後『仮面ライダー』で変身ヒーローブームを巻き起こすが、子供たちは『週刊少年マガジン』に連載された原作マンガを読んで驚いた。ショッカーの正体が日本政府だった(?)〔注釈参照〕と明かされる最終回は、『009』で描かれた挫折感をより沈鬱にしたものだった。
 同じく石ノ森の『人造人間キカイダー』、永井豪の『デビルマン』、池上遼一の『スパイダーマン』……。彼らは民衆の賞賛も、痛快な勝利も得ることはない。何が正義なのかすら手探りのなか、信じられるのは、それこそ己の「勇気だけ」なのだ。
 思えば、少年マンガの中でも最も子供ダマシだとされる「ヒーローもの」というジャンルが最もアダルトなテーマを描いていたわけだ。なかでも無茶だったのは、テレビのマンガ化を売り物にしていた『冒険王』だ。見た目は低学年向けの体裁だったが、いたいけな子供が付録目当てで手に取ると痛い目にあった。そこでは、テレビのキャラクターを借りて、描き手たちが勝手放題に欲望や怨念を発散させまくっていた。
 床屋でそういうマンガを読むたびに、小学生は打ちのめされて帰った。でも、ちょっと自分が大人になったような気がしていた。絶望の中にこそキラリと光る「男のロマン」と言うヤツを垣間見たような気がしていた。今の少年誌にそんなマンガがあるかね?
『サイボーグ009』の最終回も絶望の後に一瞬のロマンを光らせて終わる。パンドラの箱からあらゆる悪が解き放たれたあと、最後に残されたひとつが「希望」だったように。
「黒い幽霊」の魔神像が衛生軌道上で砕け散った後、009は002は、抱き合ったまま地球の重力に引かれて大気圏に突入する。
 二人は空気との摩擦で燃えながら、ついには一筋の流星となる。彼らは人知れず戦い、人知れずに死んでいくのか。
「あっ、ほら……あれ、流れ星!」
 物干し台の上で、おそらくは貧しい姉弟が夜空を指差す。何をお祈りしたの? と聞かれた姉が答える。
「あたしはね、世界に戦争がなくなりますように……。世界じゅうの人が仲良く平和にくらせますようにって祈ったわ」
 床屋の帰りに夜空を見上げた。スモッグで流れ星は見えなかったけれど。

注釈
本文発表時、「ショッカーの正体が日本政府だった(?)」と断定は避けていた。
実際の原作によると、日本政府が国民を番号で整理しようという「コンピューター国化計画」をいち早く知ったショッカーがその一部を”手伝った”ことになっている。

聴く映画秘宝「町山智浩アメリカ特電」ヒーロー編
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
『シン・ウルトラマン』

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