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『栄光のル・マン』町山智浩単行本未収録傑作選

文:町山智浩

初出:『映画秘宝』2015年8月号


『マッドマックス 怒りのデスロード』は、ほとんどストーリーもセリフもなく、最初から最後までひたすら自動車が爆走しているだけ。走ってない時間はものの5分もない純粋カー・アクション映画だった。

 ただ、こういう映画を前にも観たことがある。

 スティーヴ・マックイーン企画・製作・主演の『栄光のル・マン』(71年)だ。

 フランスのル・マンという田舎町の夜が明ける。ポルシェ911に乗ったマックイーンが、朝もやの中、人気のない早朝の道路を走る。ここでは午後3時から、有名な24時間耐久レースがスタートする。マックイーンが演じるのはガルフ石油のポルシェ・チームのドライバー、デラニー。

 町の広場を通り過ぎる時、デラニーは朝市で花を買う女性に目をとめる。彼女は去年、デラニーも巻き込まれた事故で死んだライバルの未亡人リサだ。デラニーの脳裏に、去年の事故がフラッシュバックする。

 ……これが『栄光のル・マン』の冒頭だが、まったくセリフがない。最初にマックイーンのセリフをしゃべるのは、映画が始まってからなんと36分も経ってからだ。しかも、映画全体で会話は5分もない。他はただひたすらエンジンの爆音のみ。これが、マックイーンが作りたかった夢のレース映画だ。だが、結果としては悪夢になったのだが……。

 マックイーンは「カーキチ」だった。12歳で叔父のホットロッド組み立てを手伝い、17歳で入った海兵隊では戦車の整備に夢中になった。除隊してすぐにインディアンのバイクをサイドカーつきで買った。それをMGのスポーツカー、TCミジェットに買い替え、以後、オースティン・ヒーリー、シアタ、ポルシェと、数えきれない車を乗り継いでいった。

 『華麗なる週末』(69年)は、20世紀初めの南部を舞台にしたウィリアム・フォークナーの小説『自動車泥棒』の映画化。自動車が発明されたばかりの頃、大地主が1905年式のウィントン・フライヤーを買う。屋敷の使用人ブーン(スティーヴ・マックイーン)も生まれて初めて自動車というものを見たのだが、ひと目で恋に落ちてしまう。その表情! これはマックイーンの「素」なんだろうな。

 マックイーンは、1965年、自分が製作・主演でF1レースの映画『デイズ・オブ・チャンピオンズ』を企画した。監督はジョン・スタージェス。『荒野の七人』(60年)で、まだ新人だったマックイーンをリーダーであるユル・ブリンナーの片腕役に抜擢し、『大脱走』(63年)では、マックイーンを堂々主役に据えた、いわば彼をスターにした恩人だ。

『デイズ・オブ・チャンピオンズ』は実現しなかった。同じようにF1映画『グラン・プリ』を企画していたジョン・フランケンハイマー監督は、マックイーン主演で撮ろうとしたが、いろいろ行き違いがあって、結局ジェームズ・ガーナーが代わった。

だが、マックイーンは『ブリット』(68年)で、映画史を変えるカーチェイスを実現し、大ヒットさせた。全米ナンバーワンのマネーメイキング・スターになったマックイーンは、自らの製作会社ソーラー・プロを設立し、念願のレース映画に取り組んだ。それが『栄光のル・マン』だ。

毎年6月にフランスのル・マンで行われる24時間耐久レースは、一台の車に二人のレーサーが交代で乗って、24時間の周回数を競うもので、マシンもドライバーも限界まで酷使されるうえに、非常に高速なので、2割程度しか完走できない苛酷なレースだ。全長約13キロ のコースには、世界のコースでも最長の直線ユノディエールがあり、凄まじいスピードが出る(記録では時速400キロを超える)ため、最近は減速するためにシケインが置かれている。

モータースポーツ史上最大の事故が起きたのもル・マンだ。1955年、トップを走るジャガーがピットに入ろうと減速したため、後続車同士が接触し、メルセデスが時速200キロで観客席に突っ込み、爆発しながらバラバラになり、死亡者86人重軽傷200人以上の大惨事になった。

マックイーンはこのレースをそのまま映画にしたいと考えた。『グラン・プリ』でフランケンハイマーが実際のF1グランプリ・ツアーを撮影したフィルムをドラマに盛り込んだように、1970年のル・マンを撮影し、それを使って映画を作ろうとした。

マックイーンは二つの映画を意識していた。ひとつは『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』(70年)。69年にニューヨークの郊外ウッドストックで開かれた野外無料コンサートの記録フィルムで、主人公もいなければ、ドラマもないが、コンサートを体験する映画として、ドキュメンタリーの枠を超える大ヒットになった。同じように車載カメラの映像や、ピット・クルーや観客たちを記録して、観客にレースを体感させようとマックイーンは考えたのだ。

もうひとつは『イージー★ライダー』(69年)だ。ロサンジェルスからニューオリンズを目指してハーレー・ダヴィッドソンを走らせる二人のヒッピーを描いた、この映画には、明確なストーリーがないが大ヒットした。観客は主人公たちと一緒にバイクに乗り、アメリカの旅を体験したのだ。『栄光のル・マン』の絵コンテを描いたニキータ・クナッツはこう言っている。「マックイーンは自分なりの『イージー★ライダー』を作ろうとしたんだ」。つまりストーリーを重要視しない、ということだ。

マックイーンは完成した脚本を準備しなかった。70年6月のル・マンを撮影した後に、全面的に書き直すつもりだった。ソーラー・プロはポルシェの協力を取り付け、917を借りることができた。ポルシェは最もル・マンの優勝回数が多いので、撮影する予定の70年6月のレースでも入賞する可能性が高かった。でも、もし、ポルシェが勝てなかったら、それに合わせて脚本を書き変えるつもりだった。『グラン・プリ』も同じように実際のF1レースを撮りながら作られたが、レース場面は全体の4分の1程度だった。しかし、マックイーンは映画のほとんどをレース・シーンにしたかった。そのこだわりによって、『栄光のル・マン』はマックイーンにとっての『地獄の黙示録』になった。

マックイーンは撮影に備えてレース・カーの運転を練習した。アメリカではル・マンはあまり知られていないので、宣伝も兼ねて、マックイーンはソーラー・プロのチームでル・マンの3か月前にアメリカのセブリング12時間耐久レースに出場し、見事2位を獲得した。

6月、ソーラー・プロはル・マンに乗り込んだ。こちらにもマックイーン自身がレーサーとして参加したかったがそれは許されなかった。代わりに、マックイーンがセブリングで乗ったポルシェ908にカメラを載せ、レーサーのハーバート・リンゲとジョナサン・ウィリアムズが走らせた。このカメラ・カー自体が実際にレースを9位で完走している。

70年のル・マンを征したのはゼッケン23番のポルシェだった。そこから、脚本の書き直しが始まった。

ところがシナリオはいつまで経っても完成しなかった。書くそばからマックイーンが自分のセリフを削ってしまうのだ。現場に入ったジョン・スタージェス監督は決定稿なしで撮影を始めたが、ややこしいドラマは必要ないと主張するマックイーンと激しく対立した。マックイーンはカメラマンにも口を出した。セッティングに時間がかかりすぎて日の出を撮影できないことに腹を立てた。そのくせ、毎日、違う女性をとっかえひっかえして自分のトレイラーに連れ込んだり、やりたい放題の暴君としてふるまった。

マックイーンは製作会社のボスだったが、その上には出資者であるシネマ・センター(CBSテレビの小会社)がいた、彼らは、このままマックイーンがシナリオや演出に口を出すなら、出資を引き上げると脅した。マックイーンは渋々、従うしかなかった。予算超過をカバーするために出演料も辞退した。

スタージェスはこれでやっと仕事ができると安心したが、なんとマックイーンは監督に無断でモロッコに遊びに行ってしまった。スタージェスの堪忍袋の緒は切れた。彼は「釣りに行く」という書き置きだけ残して、ひとり、アメリカに帰ってしまった。

あわてたシネマ・センターはピンチヒッターを『スパイ大作戦』などのTVドラマの監督リー・カッツィンに任せた。そつのない職人であるカッツィンになんとか映画を完成させてくれれば出来は問わないという選択だ。

その頃には、6月にはあんなに青々としていた芝生も、茶色く色あせてしまったので、シーンがつながるように緑色のスプレーをかける羽目になった。もう秋が近づいていた。急いで撮るしかない。その結果、人間ドラマは短く浅くなった。主人公デラニーの背景や人物像もよくわからないし、未亡人リサが、フェラーリ・チームのレーサー、オーラックと主人公の間で心が揺れるという三角関係も曖昧だ。また、デラニーはゼッケン8番のフェラーリに乗るストーラーと生涯のライバルという設定だったが、その関係も深く掘り下げられなかった。

それでもレース・シーンだけはおろそかにできない。最大の見せ場は、オーラックが乗るフェラーリ512のクラッシュ・シーンだ。フェラーリは高価すぎて壊せないので、代わりに安価なシボレーのエンジンを載せた英国製のレース・カー、ローラT70が使われた。ローラにフェラーリのボディをかぶせた「フェローラ」をラジコンで操縦してクラッシュさせる。フィルム・スピードが違う10台のカメラが設置され、さまざまなアングルと速度で、「フェローラ」がコースをはずれて看板をぶち破って森に突っ込むシーンが撮影された。大破した車からオーラックが脱出すると、すぐに車が爆発して彼が爆風で吹っ飛ぶのは演技ではなく、爆発が思ったより早くて本当に吹き飛ばされたのだ。

その後ろを走っていた主人公デラニーも、フェラーリの爆発に一瞬気を取られたためにガードレールに激突してしまう。デラニーに大きな怪我はなかったが、ポルシェは目茶目茶に壊れ、レース継続は不可能。

マックイーンが脱落するなんて! 初めて観た時は驚いた。だが、ポルシェ・チームは彼にゼッケン21番のドライバーと交代しろと命じた。正規のドライバー、リッターを遅すぎるという理由でクビにしたからだ。

トップ争いをしていたのは、同じチームのウィルソンが乗るゼッケン22番と、デラニーのライバル、ストーラーの乗るフェラーリだった。

デラニーは助っ人としてゼッケン21番のポルシェに乗り、トップ集団に追いつく。レース終了直前の激しいデッドヒート。デラニーはついにストーラーを抜き去るが、トップを走るウィルソンを抜こうとはせず、その後ろにぴったりついた。スリップ・ストリーム効果で2台のポルシェは加速する。後ろのデラニーはずっとフェラーリをブロックし続ける。彼の助けでゼッケン22番のウィルソンがチェッカーフラッグを受けた。主役が勝たないラストは、最初からマックイーンが考えていたものだという。デラニーはマックイーンと違ってチーム・プレイヤーなのだ。

表彰台で群衆に祝福される22番のウィルソンたちを遠くから見ているデラニー。ライバルのストーラーと目が合うと、デラニーは手の甲を相手に向けた「裏Vサイン」を出す。この意味は謎だった。

だが、1999年、『死のフレンチ・キス』という本を読んでわかった。『栄光のル・マン』の舞台裏を描いたフィクションで、『栄光のル・マン』に参加した人々へのインタビューが集められているが、出演もしている英国のレース写真家ナイジェル・スノーデンが、レーサー同士で使われる「裏Vサイン」をマックイーンに教えたのだという。このサインの起源は英仏百年戦争にさかのぼる。フランス軍は捕虜にした英国兵が弓を引けないように人差し指と中指を切り落としたという。それ以来、「裏Vサイン」は「まだ指は切られてないぜ=俺は負けないぜ」という意味になったのだという。実際、1965年にル・マンで優勝したアメリカ人レーサー、マステン・グレゴリーが表彰台「裏Vサイン」を出している写真がある。

最初に映画を観た時、「裏Vサイン」の意味はわからなかったが、そのショットが『栄光のル・マン』をストイックに渋く締めくくった。もし、デラニーが優勝していたら、笑顔でシャンペンをまき散らす、締まりのないラストになっていたろう。

本当の地獄は編集だったという。まずル・マンのレースで撮られたフィルムが大量にある。決定稿がないまま、スタージェスが撮ったシーンも山のようにある。結局、山のようなフィルムが空しく切り捨てられた。

逆に、クライマックスのデッドヒートでは、競い合う三台を外側から撮ったフィルムが不足していた。カッツィン監督と編集者たちは、別のシーンで撮ったフィルムを使って、デッドヒートをデッチ上げた。だから、よく見ると、24時間走り続けて真っ黒に汚れたレース・カーがカットによってはピカピカだったりする。

出来上がった『栄光のル・マン』は、アメリカでは酷評され、興行的にも失敗し、ソーラー・プロも解散になった。大ヒットしたのは日本だけだった。松下やヤクルトとタイアップしたことでテレビCMがヘビー・ローテーションで流れていたからだろう。後にマックイーンはそのタイアップが無断であり、何の利益も得ていないと裁判を起こしたが、無理もない。マックイーンは『栄光のル・マン』に莫大な私費を投じたが、出演料を辞退したので、1セントも得ることができなかったというのだから。

『栄光のル・マン』がアメリカで失敗したのはよくわかる。まるでアメリカ映画に見えないからだ。わかりやすいセリフや感情描写はない。爆音以外はずっと静かで、レース以外の画面はひんやりと冷たい。『シェルブールの雨傘』のミッシェル・ルグランが担当した音楽も低体温で、まるでフランス映画のようだった。フランスの森の中を走るレース・シーンは美しく、官能的だった。つまり『栄光のル・マン』は、ほとんどアート・フィルムだったのだ。現在、『栄光のル・マン』は「レースについて最も純粋な映画」として評価されている。

 今年のカンヌ映画祭で、『栄光のル・マン』についてのドキュメンタリー、『スティーヴ・マックイーン/その男とル・マン』が上映された。『栄光のル・マン』の膨大な未使用フィルムは捨てられたと思われていたが、その編集スタジオから、500箱ものフィルムが発見されたのだ。アメリカでの公開は秋なのでまだ観ていないが、『地獄の黙示録』の裏側を記録した『ハート・オブ・ダークネス』のような映画作家のエゴと夢を描くドキュメンタリーを期待しよう。ちなみに『その男とルマン』のポスターは、「裏Vサイン」を出すマックイーンだ。

参考文献 Michael Keyser “A French Kiss With Death” Bentley Publishers. 1999

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