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『明日に処刑を…』エクスプロイテーションを超えたスコセッシの処女作 町山智浩単行本未収録傑作選14

文:町山智浩
初出:『映画秘宝』2013年1月号

●マーティン・スコセッシが監督した初めての商業映画

 おさげの三つ編みの少女。花柄のワンピース。顔はすっぴん。頬は日焼けしている。口はちょっと受け口。垢抜けないアメリカの田舎の白人娘。
 アメリカ南部の農村。少女バーサ(バーバラ・ハーシー)の父は飛行機乗り。雇われて農薬の散布をしている。母はいない。時は1930年代。アメリカは大恐慌に陥り、失業者があふれていた。
 父の飛行を、バーサは地上から見上げている。その彼女を線路工夫たちが見ている。虫にでも刺されたのか、バーサはスカートの裾をまくり上げて太ももをボリボリ掻く。男たちの目を気にしないほど幼いのだ。
 でも、バーサはきらきら輝いている。16歳くらいの少女が大抵そうであるように。工夫の一人ビル(デヴィッド・キャラダイン)が思わず見とれるほどに。
 バーサの父は複葉機のエンジンの不調を訴えるが、農薬散布会社の社長は耳を貸さない。心配通り、飛行機は墜落。父はバーサの目の前で死ぬ。「ドジな男だ」嘲るように言った社長にバーサは殴りかかる。ビルも、バーサの父の黒人の助手ヴォー(バーニー・ケイシー)も加担する。バーサは絶叫する。真っ赤な血を刷毛につけて描いたようなタイトル『BOXCAR BERTHA(貨車のバーサ)』。
『明日に処刑を…』(72年/原題『貨車のバーサ』)はマーティン・スコセッシが30歳のときに監督した初めての商業映画。製作はZ級映画の帝王ロジャー・コーマン。これは当時流行していた1930年代ギャング映画の1本として企画された。
 大恐慌時代にカンザスを中心に暴れまわった実在の銀行強盗カップル、ボニーとクライドを描いた『俺たちに明日はない』(68年)が社会現象になるほど大ヒットしたので、コーマンはすぐに同時代の実在ギャング一家を描く『血まみれギャング・ママ』(70年)を監督。これはドライブイン劇場でヒットした。
 そんなとき、コーマンの妻ジェリーが『路上の聖女/貨車のバーサ自伝』という本に目をつけた。出版されたのは大恐慌の最中、1937年。全米を回って鉄道労働者たちの組合運動をオルグしていたビッグ・ビルという運動家とその恋人バーサ・トンプソンの物語。バーサは実在の人物で、当時の宣伝によると、ジェリー・コーマンは年老いたバーサから直接、映画化権を買ったという。
 父を失ったバーサは「ホーボー」になった。大恐慌で職を失った労働者たちは、貨物列車に無賃乗車して、全米各地を回って日雇いの仕事から仕事へと渡り歩いた。彼らは「ホーボー」と呼ばれた。
 放浪の果て、バーサは、鉄道労働者にストライキを呼び掛けるビルと再会した。20世紀の初め、アメリカに産業革命が起こり、石炭、鉄鋼、鉄道、自動車、石油と次々に重工業が発展し、イギリスを抜いてGNP世界一の大国になったが、それは黒人と移民の安い労働力に支えられていた。搾取された労働者たちはあこぎな資本家と闘うため、少しずつ組合を作っていった。組合には、右派のAFLU(アメリカ労働総同盟)と、社会主義系のIWW(世界産業労働組合)があった。IWWは世界の労働者との連携を目指し、ストライキなどの運動争議を引き起こした。ビルはその運動家として知られ、ビッグ・ビルと呼ばれていた。
「ビルって真面目な人なのね」
「そうでもないさ」
 ビルとバーサは、牛を降ろして空になった家畜用の貨車に飛び乗る。
「男を知ってるか?」
「たくさんね」
「嘘だってわかるぜ」
「本当は初めてなの」
「教えてやるよ」
 干し草の上でバーサはビルに処女を捧げた。
 バーサ役のバーバラ・ハーシーは当時24歳。20歳の頃、ビル役のデヴィッド・キャラダインと、西部劇『夕陽の対決』(69年)で共演して恋に落ちた。その映画でキャラダインは不良カウボーイ役で、ハーシー扮するインディアン娘を干し草の上でレイプする。
 キャラダインとハーシーは、当時のカウンター・カルチャーに影響され、ロックやドラッグやフリー・ラブ、東洋思想に傾倒していた。『明日に処刑を…』撮影後に長男を産んだ2人は、当時ヒッピーの間で流行していた通り、分娩後の胎盤を食べた。ハーシーは『受胎の契約 ベイビー・メイカー』(71年)で、金のために代理母をするヒッピー娘を演じた。キャラダインは『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(76年)で、大恐慌時代にホーボーとして全米を回りながら、貧しい労働者たちに戦いを呼び掛ける歌を歌った実在のフォーク・シンガー、ウディ・ガスリーを演じた。2人はまさに、カウンター・カルチャーを体現したカップルだった。
『明日に処刑を…』にはバーサとビルの全裸のラブシーンが何度かあるが、猥褻感はなく、微笑ましささえ感じるのは、2人が本当に愛し合っているからだ。
 バーサとビル、さらに黒人のヴォー、北部から流れてきたイカサマ賭博師のレイク、この4人は成り行きでいつの間にか強盗になってしまう。
 原作『路上の聖女』でのビルたちは強盗ではなく組合運動家だ。でも、コーマンはこれをドライブイン映画向けにギャング映画として脚色させた。「1巻(15分)に必ず最低1回ずつアクションとセックスを入れろ」それがコーマンのルールだった。
 実在の人物の話をそんなに脚色していいのか? いいのだ。実は『路上の聖女』はまったくのフィクションだった。ホーボーとして各地を回ってIWW組合員をオルグする「貨車のベティ」という女性がいる、というフォークロアがあった。アナーキストの労働運動家ベン・ライトマンは、その伝説を基に『路上の聖女』を書き、自分は「貨車のバーサ」から聞き書きした、という体裁を取った。ビッグ・ビルは実在のIWW創始者のひとりビッグ・ビル・ヘイウッドをモデルにしている。『路上の聖女』は、『明日に処刑を…』が公開された当時も実話だと思われていた。

●コーマンのルール

 完成したシナリオ『貨車のバーサ』の監督を任されたマーティン・スコセッシは、NY大学で映画を学び、67年に初めての長編『ドアをノックするのは誰?』を自主制作し、69年に実在の連続殺人を描いた『ハネムーン・キラーズ』で商業映画の監督デビューするはずだったが、撮入直後にクビになった。コーヒーカップのクローズアップなど、無意味なショットにこだわったりしたせいだ。
 そんなドジは2度と踏みたくないと思ったスコセッシは、『明日に処刑を…』に雇われると、すべてのショットをあらかじめ自分で絵コンテに描いた。その数は500枚に及んだ。それを見たコーマンは安心して、アーカンソー州でのロケをスコセッシに任せた。ちなみにコーマンは自分が製作した映画の最初の巻(リール)と最後の巻しかチェックしない。
「最初の15分が面白くなければ、観客は逃げる。結末が面白くなければ観客は怒る。その間はどうでもいい。自由に作れ」
 バーサとビルの兇状旅は、ボニーとクライドのように殺伐とはしていない。ビルは盗んだ金を組合に寄付したり、銀行員を脅して、労働者が受け取りに来た給料袋に10ドルずつ余計に入れさせたりする。実にのどかな犯罪だ。バーサは花柄のワンピースを着て、野の花をつけた麦わら帽子をかぶり、ニッコリ微笑んで拳銃を構える。まるで「ごっこ」にしか見えない。
 鉄道会社は、ビルたちを狩るために、2人のプロを雇う。当時、鉄道、鉄鋼、石炭などの大企業の経営者は、労働者たちの組合やストを潰すために、暴力のプロを雇った。彼らは各地で組合員を殺す事件を起こしている。
 だが『明日に処刑を…』で雇われるマカイヴァー兄弟は怖くない。デカいほうがチョビ髭を生やしているのは、2人がサイレント映画の喜劇俳優アボット&コステロのパロディになっているからだ。ビルを捕まえようと待ち伏せしていた2人は、逆にバーサに銃を突きつけられ、「座って。今度は立って。また座って。立って。立って座ってまた立って」と命じられて、さんざん遊ばれる。
「僕は彼らを子どもが遊んでいるように撮った」スコセッシはインタビューで語っている。バーサたちは無邪気で、ロビン・フッド気取りだ。冒頭、おさげの三つ編みのバーサは『オズの魔法使』の原作の挿絵のドロシーのイメージであり、ビルはかかし、頼りになるヴォーはブリキマン、臆病者のレイクは弱虫ライオンを模している。だから、3人の強盗の旅は楽しい。
 しかし、現実はオズの国ではない。スコセッシは言う。「遊んでいるうちに血みどろの事態が待っている」
 ビルは鉄道会社の社長と直接対決しようと言い出す。大胆にも社長の自宅で開かれたパーティに乗り込む。
「招待状は?」入り口で執事に尋ねられたヴォーは「これです」と言って拳銃を突きつけた。バーサは列席した金持ちの男女から金や宝石を巻き上げる。社長はビルに言う。
「私は組合運動家ビッグ・ビルを尊敬していたんだがな。ただの泥棒だったか」
 社長を演じるのはジョン・キャラダイン。デヴィッド・キャラダインの実の父である。ジョンはジョン・フォード監督の『駅馬車』(39年)で演じた賭博師が有名な脇役俳優だった。『イージー⭐︎ライダー』(69年)のピーター・フォンダもジョン・フォード西部劇のスター、ヘンリー・フォンダの息子だった。カウンター・カルチャーとは父を象徴するマッチョなアメリカに対する不良息子たちの反抗だった。
 社長の挑発に乗ったビルたちは罠にはまって逮捕される。レイクはマカイヴァーに射殺されるが、バーサは得意の貨車飛び乗りで逃げのびる。
『明日に処刑を…』が完成したとき、スコセッシは尊敬するジョン・カサヴェテスに映画を見せた。映画が終わるとカサヴェテスは若き後輩を抱きしめて「素晴らしい映画だ」と誉めた。しかし、続けて「もう、こんなエクスプロイテーション(金儲けのための映画)はやめなさい」と忠告した。カサヴェテス自身は悪役俳優としてエクスプロイテーション映画に出演して金を稼ぎながら、ドキュメント・タッチのシリアスな映画を自主制作していた。スコセッシは次に自伝的な『ミーンストリート』(73年)を撮ることにした。

●スコセッシ映画のエッセンスが詰まった『明日に処刑を…』

 たしかに『明日に処刑を…』は他人が書いたシナリオを押しつけられた企画だし、大恐慌時代の南部にも、労働運動にもスコセッシは何も個人的思い入れはない。しかし、それでもなお、『明日に処刑を…』にはスコセッシ映画のエッセンスが詰まっている。
 ふたたびホーボーになったバーサは娼館のマダムに拾われ、娼婦として働き始める。文化人類学者と称する客がバーサに聖書について説教する。スコセッシは後に『タクシードライバー』(76年)でも、少女娼婦(ジョディ・フォスター)を、客のトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)が説教するシーンを撮っている。バーサが次に取った客はスコセッシ自身の特別出演だ。
 若き日のスコセッシは神学校に通い、神父を目指した。神父になれば妻帯は許されない。しかし彼はセックスや暴力、それに映画という俗界の欲望を捨て切れず、神父を諦めた。
 ビルたちが隠れ家にしたのは、廃棄された教会だった。これはロケハン中に偶然スコセッシが見つけたもので、壁には新訳聖書の、キリストとマグダラのマリアが描かれている。マグダラのマリアは娼婦だったといわれている。彼女はキリストに救われて彼を愛し、磔にされたキリストの十字架の下で聖母マリアと共に嘆いた。
 処女懐胎したマリアは処女と母という女性の聖なる面を、マグダラのマリアは娼婦性を象徴していると言われている。女性を処女か母か娼婦か、その3つにしか見ることができない男性のコンプレックスにスコセッシは縛られてきた。彼がこの前に撮った『ドアをノックするのは誰?』の主人公(ハーヴェイ・カイテル)は、自分は娼婦とセックスしながら、婚約者が過去にレイプされたことが許せないマザコンの男だった。スコセッシはこれを自伝的な映画だと言っている。
 娼婦になったバーサは脱獄したビルと再会するが、すぐにマカイヴァーたちに捕まってしまう。彼らはビルを殴って半殺しにし、服を脱がし、その両手を、貨車の外側に犬釘で打ちつける。労働者の救世主気取りのビルを望み通りキリストらしく磔にしてやろうというのだ。
 キリストが十字架に張り付けられたとき、神の怒りのように雷鳴が轟いたと言われる。ビルが磔にされたときもそうだった。ヴォーがショットガンでマカイヴァーたちを皆殺しにしたのだ。撃たれたマカイヴァーたちは、真っ赤な血しぶきを撒き散らして、ありえないほど派手に吹っ飛ぶ。これは神の裁きだ。アメリカ映画では主人公が窮地に陥ると、唐突に黒人が登場して問題をいっきに解決することが多い。それをスパイク・リーは「白人のご都合主義。マジカル・ニグロだ」と批判した。マジカル・ニグロはギリシア演劇でいきなり問題を解決する「デウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)」と同じ機能をするが、スコセッシにとってヴォーの銃弾は神の裁きそのものなのだろう。
 しかし、列車は走りだしてしまった。ビルを磔にしたまま。
「お願い! 連れて行かないで!」
 バーサが貨車を走って追いかける。どこまでも、どこまでも。しかし列車のスピードは次第に増し、バーサはだんだん小さくなり、ついには画面から消えてしまう。スコセッシ自身が考えた、この崇高で切ないラストで『明日に処刑を…』はエクスプロイテーションを超えた。
『明日に処刑を…』の撮影中、バーバラ・ハーシーはスコセッシに1冊の本を渡した。それはキリストが十字架から降りて、マグダラのマリアと結婚して子供に恵まれ、幸福な家庭生活を経験するが……という物語だった。「いつか、これを映画にして、私をマリア役にしてね」ハーシーはスコセッシに言った。それは17年後に、『最後の誘惑』(89年)として実現した。

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