大晦日に蕎麦を食べる理由がわかった50歳
最後に蕎麦湯を流し込んだとろろのつけ汁を飲み干す。
その自分の表情を動画で見ていて、まるで危機意識がデリートされた野生の鹿だと思いました。
ヒグマのことも、ハンターのことも心の片隅にすらなく、扶養家族の心配も無縁で、ただただ腹が満たされたことだけにぼんやりと集中しているような顔。
まさに整ってる。
蕎麦で整った。
まだサウナは苦行としか感じられない僕ですが、整うとはこういうことなのかもしれない。
昔、カップヌードルをプラスチックのフォークで食べるのがなんとなくクールみたいなころありましたよね。
いや、あったんです。
少なくても1980年代の北海道のごく一部の地域にはそんなころがあったのです。
あれ、嫌だったな。
冷たいそばは、塗り箸ではなく割り箸で食べたい。
あの食前に割り箸をさっと縦に割って、両手の親指と人差し指の谷間に差し込んでいただきますをしたい。
無意識にこなす様式の積み重ねの末に整うのではなかろうか。
熱いお蕎麦でもいけません。
ふうふうと火傷をしないように注意する集中力が整うことを邪魔します。
これほど自分の思い通りにならない年はなかったように思います。
いろいろとなかなかに苦行の一年でした。
それでも蕎麦をすすれば整うのです。
なぜ、年越しそばを食べるのか。
それがやっとわかった50歳の年末。
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