またね、ぎんちゃん
犬派だった我が家にとって、ぎんちゃんははじめての愛猫だった。生後10カ月で大病を患い、1歳10カ月で彼はこの世を去った。
最近になっていろいろな文章を書く機会をいただくようになり、その行為により自分自身の気持ちが整理される実感が得られることを知った。そこで、自分の中でどうしても引きずっているぎんちゃんの死についても書いてみようと考えた。これは自分を次の段階に進めるための行為であり、同じ境遇にある方々のわずかな助けになれば、という願いを込めた文章である。
2020年6月のよく晴れた週末、生後1か月になったぎんちゃんを家族みんなでお迎えに行った。オリンピックが延期となり緊急事態宣言下、都内の道路は閑散としていた。引き取りに車を降りたかみさんを、おれと子供たちはわくわくしながら待っていた。かみさんがゲージを抱えて戻ってきて、後部座席に乗り込みドアを閉める。ゲージの上部の蓋をあけると、ぎんちゃんはひょっこりと顔を出しあたりを見渡した。その衝撃的なかわゆさに、おれたちはいっせいに「ほーー」とため息に近い声を漏らした。
ぎんちゃんの猫種は「ラガマフィン」。上品な洋菓子のような名前だ。毛がふっさふさでかなり大きく成長する種類で、ちいさな子猫ちゃん、という姿からあっというまに大きな姿に成長していった。ぎんちゃんはあまり猫っぽくない猫だった。名前を呼ぶとこちらに来るし、ぺろぺろとなめてくるし、「なでてなでて」と頭を人の体にこすりつけてくる。ただ、犬とまったく違うのはどこまでも高く昇りどこまでも奥に進み、ホコリまみれになって戻ってくるその行動範囲だった。猫がきれい好き、とはよく聞くが、実際は猫を飼うとそこらじゅうをきれいにしておかなくてはならないということで、実際、我が家は銀ちゃんのおかげでピカピカになった。
それからぎんちゃんには不思議な力が備わっていた。子供同士がけんかをしていると知らん顔してやってきて間にはいってちょこんと座ったり、泣いている子のそばに寄り添いぺろぺろとなめたり膝の上に乗ったりする。そんなしぐさをみてかみさんは「ぎんちゃんはきっと人間の心情を理解できるんだろうね」と話していた。
異変に気付いたのはかみさんだった。「ねえ、ちょっとここみて」そういわれて爪、鼻、口腔内を見ると普段よりも色が白かった。貧血の症状だ。息苦しそうでぐったりもしている。すぐに動物病院に連絡して連れて行った。血液検査の結果は重度の貧血で、今にも輸血が必要な状態だった。「2週間前の採血では特に問題がなかったのでとても心配です。一度体の中を全て調べてみましょう。それからリスクはありますが病院で飼っている猫ちゃんから輸血をします。正直動いているのが不思議なくらいの状態なんです。」と主治医は言った。赤血球や血小板の数値ほどではないが白血球の数値も少し低いことが気がかりだった。
検査終了後にお迎えにいくと、輸血のおかげか鼻がピンク色に戻り、病院のスタッフにしゃーしゃーと威嚇しているぎんちゃんがいて少しホッとした。おれが看護師であることは先生も知っていたので少し詳しい話をした。
「内臓などに問題は見当たりませんでした。輸血で貧血も少し改善しました。それでも血小板は最低値のさらに半分程度です。血液をつくる骨髄になんらかの異常がある可能性が高いです。ステロイドを投与して進行を遅らせて、場合によっては抗がん剤の治療も選択肢に入ってきます。大学の動物医療研究センターを紹介するのでそちらで診断を受けるのが確実だと思います。ぎんちゃんにとって遠くの病院にいくのは大変だと思いますが、一度行ってみてください。」
車に乗り込み、少し元気を取り戻したぎんちゃんをひと撫でした。先生ははっきり言わなかったが、現時点での治療は造血器異常に対する対症療法的アプローチだった。運転をしながら最悪のパターンばかりを考えた。ふとぎんちゃんをみると、車の窓の外の流れる景色をめずらしそうにぼんやりとした目でみつめていた。
紹介された大学の動物医療センターは日本中のあらゆる動物の困難事例を扱う医療施設だった。待合室に大きな文字で「当センターでは輸血をいたしません」と書いてあるのが気になった。いろいろ調べてみると猫用の血液バンクや骨髄バンクは世の中に存在していなかった。動物病院ではあくまで、善意で今いる猫ちゃんから血をわけてくれたのだ。大学病院の待合室でかみさんと、一時的な症状でケロッとなおる、とか、せめて治療方法が存在する病気であることを祈ろう、と話していると、診察室によばれた。
「いろいろ調べても該当する疾患がわからず、お家からでたことがない猫ちゃんということで可能性は低いと思ったのですが念のためこちらの検査をしました。」
それは猫白血病ウイルスの検査キットだった。陽性のラインにしるしがついていた。
「骨髄も検査しました。現時点ではなんとか血液をかたち作れている造血細胞がほんの少し残っている状態です。このまま治療をしなければ余命2カ月になります。」
ぎんちゃんは白血病を発症していた。おれたちは治療の方法を聞いた。やはり抗がん剤治療だった。ただ、猫白血病に対する抗がん剤投与は有効性が確立されている治療ではなく、よくなる子もいればまったく効果が出ない子もいて、最近の薬は副作用がかなり軽減されてきてはいるが場合によっては出ることもある、大学病院の獣医師はそう話した。その場では今後の治療について解答をせず、ぎんちゃんを連れて帰宅した。
いろいろと気持ちの整理がつかない。考えうる最悪の状態の結果が待っていたのだ。なぜ、よりによって、うちの子が。そのフレーズがずーっと頭の中をいったりきたりした。
家族で話し合い、可能性があるならと抗がん剤治療を申し出た。翌週、治療のため受診した。医師たちに連れていかれた扉の向こうで聞いたこともない叫び声をあげるぎんちゃん。胸が苦しくて張り裂けそうだった。
抗がん剤を投与して数日後、ぎんちゃんは下血をした。ご飯を食べても水分をとっても下痢になってしまい、すぐに動物病院を受診した。こうなった理由はいくつか考えられた。ひとつは抗がん剤の副作用、もうひとつはストレスだ。ぎんちゃんは家族以外に対しての警戒心がとても強い。大学病院の獣医師の対応が特別悪かった訳ではないが、やはり治療自体がものすごくストレスになっている可能性が高い。治療の確実性と天秤をかけたら果たしてどちらがぎんちゃんのためになるのか、答えはもうきまっていた。主治医と話し合い、抗がん剤治療を中断して元の動物病院で今までの対症療法に戻す事を大学病院に伝えた。それから下痢症状、体力、食欲が改善されるまで、自宅で点滴をして投薬と補液をすることを決めた。
止血剤のおかげで数日で便に血液が混ざらなくなった。しかし下痢はその後も続き、ぎんちゃんはみるみると痩せていった。毎日かみさんと二人でぎんちゃんの首の皮下に点滴を投与した。注射針を刺す時にぎんちゃんはとても痛がる。痩せていくと針がうまく皮下に入っていかず、失敗する回数が増えていった。身内に対する自宅での治療は困難をきわめる、それを痛感した。ところが「もうだめかな」と半ばあきらめかけた時、ぎんちゃんの下痢はぴたりと止まった。
病院の検査の結果、貧血を表す数値は輸血後から時間が経過している割には大きく変化していなかった。胃腸にも大きな損傷は見られず便に血液の混入は確認されなかった。これらの症状改善について、主治医は「抗がん剤の治療のおかげなのかステロイドの治療の効果なのか分からないですが、ぎんちゃんはご家族の手厚い看病に懸命に答えたんだと思います。若いから体力がある、ということもありますがちょっと信じられない回復です。このまま様子を見ましょう。」と目に涙を浮かべて話した。
食欲が戻り下痢も治まったため、自宅での点滴は終了になった。ぎんちゃんは走り回るほど元気ではないが「おじいちゃん猫」くらいの活動性は保たれており、通常の生活に戻ったようにみえた。それからいくつかの幸運も重なった。貧血でも白血球の数値は大きく下がらなかったこと、他の臓器に影響を及ぼさなかったこと、血を分けたねこちゃんとの相性が良かったことなど。そしてなによりもかみさんがコロナにより在宅ワークだったためいつも傍にいられたことだ。結婚した時、かみさんにはつれ犬ちゃんが2匹いた。それぞれ15年生きて看取ったのだが、かみさんは子供や動物のちょっとした異変にすぐに気づく才能を持っている(おれに対しては発動しない)。おや、と思えば動物病院に掛け合い、その時に応じた的確な治療を受けた。結果として綱渡りだったが安定した状態が1年近く続いてくれた。
長男の中学受験が終わり(志望校合格!)卒業を迎え、次男も卒園した。その頃からぎんちゃんの食事量が極端に減った。輸血をしても貧血傾向が改善しなくなり、肩で息をするようになった。家族で話し合い、動物病院に積極的な治療を望まず、なるべく楽に自宅で看取ってあげたい意思を伝えた。主治医からも家族の負担がおおきくなるという理由から、必要な時につれてきて補液をする程度にしましょうと話してくれた。少しでも呼吸が楽になるように、酸素濃度をあげる「酸素ルーム」をレンタルした。少し呼吸が楽になっているのか、アクリル板の中ですやすやと眠るぎんちゃんを家族みんなで見守った。
3月16日、朝起きると、リビングに下血をした跡があった。かみさんはぐったりとしているぎんちゃんを酸素ルームにいれて動物病院に電話をかけた。おれはたまたま休みを取っていたので朝一で動物病院に連れていき補液と止血剤を投与してもらった。主治医からは「もうそう長くないので、ご家族みんなですごしてください」と伝えられた。ゲージの中でぐったりしているぎんちゃんをみて、帰りの車でひとりで泣いた。
家に帰り、おれはリビングで仕事の資料をつくりながらぎんちゃんの容体を見守っていた。午後2時。銀ちゃんが酸素ルームで何度か大きく呼吸をしているのに気づいた。家族全員をリビングに呼んだその直後に「ぎゃっ」と声を上げ体を大きく反らせ、数秒間痙攣したのちに脱力して静かに元の姿勢に戻った。聴診器で呼吸音と心拍を確認した。ぎんちゃんは息を引き取っていた。子供たちは「ぎんちゃん、ぎんちゃん」と声をかけながらわんわん泣いた。おれもかみさんもわんわん泣いた。そしてありがとう、ありがとうと声をかけた。
令和4年3月16日がぎんちゃんの命日になった。享年1歳10か月。命に長いも短いもない。ただ、そこにぎんちゃんが存在していた。そしてその一生を全力で駆け抜けた。ぎんちゃんは家族の本当に大事な時期を懸命に生き、静かに暖かく見守ってくれた。おれたち家族は君と過ごすことができて本当に幸せでした。掛け替えのない愛情と結束を与えてくれて本当に本当にありがとう。きみは、間違いなくおれたちの家族だったし、これからもずっとそうなんだよ。
火葬の際にお骨を拾いながら、6歳の次男が小さな声で「またね、ぎんちゃん。」とつぶやいた。そうだね。その通りだ。
またね、ぎんちゃん。
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