往復書簡 #5 「この私」という解釈、存在と生成の肯定
前のお便り:往復書簡 #4 守りの「無知」と丸腰の「証言」
「弱さについて語る」だけではなくて、「弱いものとして身をさらす」ことが求められているのだと思います。
この言葉が、ストンと胸に落ちてきました。弱さについて語ることと、「弱いものとして身をさらす」ことはきっと違うことですね。
僕はこれまでの人生でずっと正義について語ってきたけれど、「裁かれる側として身をさらす」ことはしてこなかったように思います。
常に傲慢で、正しさを知っていて、そうでない人間や振る舞いをジャッジしてきました。
でもいま、多くの弱さに対して昔より遥かに共感的になりました。それは、(ずっと人生の中にあった)自分自身の弱さを認められたからです。
人は弱い。自分を変えてしまうような考え方や事実からは簡単に目を逸らす。どう考えてもやった方がいいことも、先延ばしにしてしまう。
責められるとわかっている状況ではむしろ攻撃的になって相手を責める。あるいは様々な外部に原因や理由を見出して責任から逃れようとする。
「どうしてそんなこともできないの?」「ちょっと考えたらわかるよね」「よくそんなことできるなあ」こういった言葉を、今は使えなくなりました。
だって、人は弱い。
「どうしたらいいかわからない」「わかってるけどできない」だったら、多くの人は実は後者で悩み苦しんでいるように思う。
これまでずっと前者だと思って人にアドバイスしてきたけど、それはきっと相手からすれば「そんなことはわかっているけれど…」と思われることが多かったでしょう。
最近はとにかく、自分の加害性を自覚するほどに、恥の感情に襲われます。甘んじて受け入れる他ないのですが、驚くほど人を傷つけてきたことに気づき愕然とします。
もう今更謝ることもできないような関係の人もいるのですが、そうでない人には折を見て謝りたい。
他人の弱さを受け入れる、という話もいろいろ考えて下書きをしたのですが(「その人自身ってなんだろう」みたいなことが、ぼくはずっと気になっています。変化も含めて「その人自身」であるとしたら、現在の「その人」とは一体……?)、思ったよりその前の話でたくさん書いてしまいました。ちょっとだけ触れて、バトンタッチすることにします。
これは、ずっと考えていることです。「世界に根を下ろしたような安心感」ということとも繋がっているので、少しだけ書いておきたいと思います。
世界に根を下ろしたような安心感というのは、「この私」という解釈を他者と共有でき、その人の「この私」を僕が共有できた時、感じるものだと思っています。
この世界が仮に全て解釈によって成り立つなら、自分とはどれほど不安定な存在でしょうか。見る人によって自分という存在はいくらでも揺らいでしまう。ある人から見るとひょうきんで、ある人から見ると神経質に見えているかもしれない。
自分という存在の不確定さは、人を根本から不安にするように思います。それが恐ろしいから、みんな自分と他人が同じラベリングをすることを望みます。
元気で快活な人、賢くてユーモアがある人、もっというと「モテる人」だったり「社会的に成功している人」だったり。
それを示すには、年収や職業、あるいは余暇の時間の使い方などが重要になるでしょう。見せたい自分という「この私」という解釈を他者に共有してもらいたい。
でも、見せたい自分というのは結局「この私」とはちょっと違うと思うのです。あえて言うのならば「こう見てもらいたい自分」は「この私」かもしれません。
僕の場合で言うと「賢い中川瑛」を共有してもらいたいのだけれど、それは「この私」ではない。
「賢い中川瑛と思ってもらいたい、この私」が、実は身の丈にあった「この私」だったりするように思うのです。
ちょっとおかしくて、笑われてしまうような自分。面と向かって批判されたら怒ってしまいそうなくらい、素の自分。
それを悪意なく、攻撃するでもなく、「あなたってそういうところがあるね」と言われて、ワハハとなるような関わりがあると思うのです。
そんなとき、泣きそうなくらいに救われる。それは強さではなく、弱さによって、見せたい自分ではなく、見せようとしてしまう自分に対して、相手からの深い共感と受容を感じ取るからです。
理想の自分ではなく、それを理想とする自分ごと認めてもらえるということ。ここにスクリーンショット(瞬間)としての「存在」の肯定と、それに向かい変化していく「生成」の肯定とが合致するのではないでしょうか。
ケアとは「その人の潜在可能性が開花するように関わること」という言い方をすることもあるようです。
その人のありたいあり方(理想)も含み込んだ意味での「この私」という解釈を共有し、尊重するとは、そういう関わり方なのでしょう。
そして、これはきっと一方通行のものではないように思います。自分一人では「この私」という解釈を維持できない。多くの他者から異なる解釈をされることで、存在が常に不安に晒されるからです。
では、どうすればそうならないのか。それはきっと自分にとって重要な他者から、自分の「この私」という解釈を共有してもらえることです。それは他の人からの解釈共有よりも、遥かに重要という点で、安定を産みます。
重要な他者とは誰でしょうか? それはとりもなおさず、自分がその人の「この私」という解釈を共有している人ではないでしょうか。
その人の存在も生成も肯定したいような他者が、自分の存在も生成も肯定したいと思ってくれていること。「この私」という解釈を相互に共有し合うことで、「この私たち」という解釈を共有すること。
どちらの「この私」という解釈も安定しているからこそ、その人が共有してくれる解釈が安定したものになる。そんな感覚を「世界に根を下ろしたような安心感」と呼んでいたのでした。
ちょっと論理が雑になりますが、強さで繋がるというのは「理想とする自分」で繋がること。
弱さで繋がるというのは「こういう自分を理想の自分とする自分」で繋がることなのかもしれない。
前の「おれはなにもできない、だから助けてくれ」という「この私」をそのまま共有するのではなく、「おれはなにもできない、だから助けてくれ、と言えるような自分でありたい」という「この私」という解釈を共有したい。
それは決してバカにするという意味ではない形で。そういうとこあるよね、と言ったり言われても「そうなんだよね」と答えられるような関係。
変容するとは、自分の弱さを認め、それを受容できるような自分になること。また他者の弱さに触れた時に、それを受容できるような自分に変わることなのかもしれない。
最近はこんなことを考えているのでした。
ちょっと性急にまとめてしまうのですが、具体的なケアの営みが、ただ個々人の弱さに向き合うだけではなく、なにか「世界」とか「社会」といった、大きな場所のなかに位置を占める営みなのだということ、そういう繋がりが見えていると、「弱さ」に目を向けながらも傷に飲み込まれてしまわない、それでいて自分や他者が変容に開かれている、そういう関わり方になるのかなあ……などと考えたりします。
これについてもいろいろ書き始めたいのですが、ひとまず今日はこのくらいにしておきます。でもきっと、社会もまた「弱さ」に触れた時、それを受容できるような変容をすることが、ケアのある社会なのかも、と思ったりします。
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