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いろんなものをいろんな人から引き継いでしまいました

宮田くんへ。

往復書簡のお誘いに応じてくれてありがとう。長い間、ケアや他者について考えてきたのですが、なかなか1人では煮詰まっていたところに、こういう機会が得られてとても嬉しいです。話題はあっちこっちに飛んでいくと思いますが、お互い書きたいように書いていきましょう。

ケアってなんでしょうね。色々な本を読んでみましたが、どうやら話はいろんな方向に広がっているようです。看護師や介護士といった専門職が持つ能力や関わりとしてのケアといった文脈もあれば、学校教育におけるケアもあれば、政治哲学において(正義と対立するものとしての?)ケア、感情社会学の観点から捉えるケアなんてものもありました。

どうやら、全体を通して「弱さ」がキーワードであるように思います。人間は弱い。自律した個人なんていうのは幻想で、むしろ依存して生きている。大人になるということは依存先を増やすことだなんてtwitterで見た気もしますが、大人になるというのは自分の弱さを認めて支えてもらいながら、同時にその人を支えもするような関係をたくさん作ることなのかもしれません。

そう考えてみると、子どもの頃はずいぶん強がっていた気がします。自分一人でなんでもできる、自分は優秀で有能で、人の力を借りずに生きていけるんだと息巻いていました。現在進行形でまだまだそういう部分があるし、そういう部分があるからやってこれたこともあるように思います。

すると、お互いの弱さを認めて支えたり支えてもらったりというのはあんまりできていなかったかもしれない。むしろ競い合って、比べあって、それが楽しかったりもするのですが、強さを褒めたり妬んだりすることこそあれ、弱さについて考えることはあまりしなかったし、それに言及することは相手の誇りを傷つけるような気もして気が引ける。まして自分の弱さについては、話してこなかった気がする。

しかし、これはおいおい話していくことになると思うのですが、僕は最近ずいぶん自分の弱さを認められるようになりました。それを人にも話せるようになりました。人に話してみると、案外相手はそれを受け止めた上で、自分の弱さを共有してくれさえしました。とてもそうとは見えない人も、たくさん苦しみを抱えていました。

よく「人を困らせる人が一番困っている」と言ったりするのですが、とてもよくわかります。一見、人間としてどうなんだというような人間ほど、深く傷つき弱っている。でも、弱っていることを人に見せることができないから、代わりに怒っている。怒るから周りの人は傷つく。そうして嫌われて誰にも助けてもらえない。それを繰り返して孤独になる。

そういう人に傷つけられた人は、それによって傷つき弱ってしまう。そうすると、この人もその弱さを人に見せられずに、代わりに怒って人を傷つける。そんな繰り返しが至る所で起きていると思います。会社でも、学校でも、家庭でも。

傷つきや暴力は連鎖してしまう。僕もいろんなものをいろんな人から引き継いでしまいました。どこかでそれを断ち切りたい。

宮田くんとの往復書簡では、それを念頭に置いて、いろんなことを書いていこうと思います。人の弱さと、弱さで繋がることのできる関係と、その幸福について。

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