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無い袖

eastmedi
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from Lick A Shot Sound System 2023.6.5

江戸時代、袖の長い振袖は、子供や未婚の女性が着るもの。江戸時代初期、女性が積極的に恋愛感情を表に出すことが恥とされていた頃、踊り子たちは言い寄ってくる男性からの愛をOKしたり、NOと拒否したりする手段として、袖を振って返事をしていた。OKなら袖を左右に振り、NOなら袖を前後に振る。それを見ていた一般の未婚女性たちが真似をして、いつしか袖を振る行為が求愛のサインへと変わった。意中の相手に袖を振り、相手が袖を振り返してくれたらOKのサインになった。そして女性は結婚すると着物の袖は短くした。つまり結婚してしまうと、どんなに素敵な男性から言い寄られても、良い返事をしたくても、ない袖は振ることができない。そこから「ない袖は振れない」という言葉が生まれた。振袖は、飛鳥時代にはその原型ができていた。江戸時代には今に近い振袖になり、明治時代以降には未婚女性の第一正装となる。現代でも使われる、恋愛にまつわる「振った」「振られた」という言葉は、この振袖を振ることに由来してる。

You can’t get blood out of stone...

我々が近代的自我の獲得で喪失したもの、つまり、近代以降の社会構造はただのワン・システムでしか無いので、そこで認知が完結してしまうと、そのシステムが穢れ、腐り、フリーズに陥った時「どこにも行けなくなる」わけです。この我々の社稷の喪失について民俗学者の伊藤幹治は面白い見解を述べている。祭りなどのハレとケのイレカワリ原理についての自説なのだが、ハレを非日常、ケを日常(社会構造認知の世界)としてとらえ、具体例として祭の世界における非日常性を分析してそこに超日常的世界と反日常的世界の2つの面を指摘している。前者は日常的世界の「有限性を超えた世界」であり、後者は日常的世界の秩序や規範と対立する世界である。伊藤によれば「我々は、こうした2つの対立した象徴的世界を創造することによって、世俗的秩序を維持すると同時に、その再認識と刷新をはかっている。」祭における男女の性的な合図の送りあいが「袖振り」な訳です。つまり、「女性は結婚すると着物の袖は短くした。つまり結婚してしまうと、どんなに素敵な男性から言い寄られても、良い返事をしたくても、ない袖は振ることができない。」というのは袖を短くすることで、「世俗的秩序の側」に取り込まれ物化している自身の「立場」を守るための結界を張ってるわけです。こうした細かな掟(ルール)を作ることで我々は滞りなくハレとケのイレカワリ、つまり世俗的秩序を維持すると同時に、その再認識と刷新を社稷(祭)でしてきたのに、近代以降の社会構造における近代的自我の獲得がこれを破壊してしまい、我々はただのワン・システムに堕ちたこの社会システムが穢れ、腐り、フリーズに陥った時「どこにも行けなくなっている」と言える。

万人があらかじめ「袖を奪われている」

Shooting on the babylon pay.
泣く子も黙る光熱費 命の危機だと爪たてる
無い袖は触れないし 命の危機でも食べれない
無い袖を縛り上げ なんでもかんでも課金課金

Shooting on the babylon pay.
Never Never Never NATOとロシアの戦争
犬も食えないアシュケナージの茶番 劇場
無い袖を縛り上げ なんでもかんでも課金課金

Shooting on the babylon pay.
泣く子も黙る飲食費 命の危機だと爪たてる
無い袖は触れないない 命の危機でも知らんぷり
無い袖を縛り上げ なんでもかんでも課金課金

無い袖は触れないない

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